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2017新春、与野七福神を歩く③ 一山神社+恵比須から上町氷川神社+福禄寿へ

2017年02月14日 | 旅行

2017年新春 与野七福神を歩く ③ ホームページはブログ3回分をまとめてある

 12時10分、一山神社に着く。バス通りは車の往来が激しい。市街化が進んでいて、参道際まで住宅が迫っているが、奥行きのある参道は樹木におおわれ、夏であれば涼しげな緑陰を作ってくれそうである。
 インターネットに紹介された「埼玉の神社」によると、「・・木曽の御嶽講が広まり・・与野の井原平八も熱心・・(禁圧、解禁は前述御嶽社と同じ内容)・・相模国出身の治兵衛が井原平八の許しを得て円乗院で剃髪し・・御嶽山で修行し・・一山と名乗る行者になり・・御嶽講の復興に努め・・当地に霊場を設け・・1851年に没した・・多くの講員が当地の八幡社の境内に御嶽大神を
勧請し一山神社を建立・・」したそうだ。
 通りに立っていた七福神共通の説明板には「恵比須は、七福神の中で唯一の日本の神。恵比須の出自には諸説があるが伊弉諾尊と伊弉冉尊の三男・夷三郎という説が一般的。(天照大神と兄弟)鯛と釣竿を持った姿は「釣りして網せず」ということで、暴利を貧らぬ清廉のの心を象徴しているといわれ、商売繁盛の福神として信仰を集めている」と説明されている。
 やはり御嶽講と恵比須の関係は説明がない。参道を少し進むと石の鳥居が立つ。参道はかなりの奥行きがある。石灯籠、狛犬の先に唐破風の風格のある社殿が現れた(写真)。
 境内も整い、きれいに清掃されている。講員の寄進も多く、いまも熱心に信仰されているようだ。社殿をのぞくと、中央祭神の右に、竿を高く持ち上げ、鯛を小脇に抱えた笑顔の恵比須像が置かれていた。
 
 バス通りをさらに北に向かうと、三叉路の角に上町氷川神社の表示が見えた。
 12時25分、境内には赤い鳥居、その奥に石の鳥居が立ち、参道が伸びている。
 インターネットによると、上町氷川神社の創建は不明だが、江戸時代、与野町と木村田村の総鎮守の記録があり、三叉路のため境内が三角形だったことから扇の宮と呼ばれたそうだ。
 1708年ごろに社殿が再建されたが、たぶん経費のことで与野町と小村田村とのあいだで争議になった。争いは決着し再建されたと書かれているが、やはり禍根が残ったようで、前述したように与野町は天祖神社を社村としたため、以降は小村田村の社村となった。それ以上のことは説明されていない。
 上町氷川神社の名は、武蔵一宮氷川神社との混乱を避けるためであろうが、なぜ上町を冠するかも分からない。
 歴史を感じさせるように、境内には樹齢500年?のケヤキや杉が伸び上がっている。
 社殿はこぢんまりだが千鳥破風をのせた本格的な作りで、広い境内には社、祠が並んでいて、百度石まである。
 ところが社殿にも境内にも福禄寿が置かれていない。七福神共通説明板だけがあり、「福禄寿は、中国の道教が起源の神。人生の三大目的とする福(幸福)、禄(身分)、寿(寿命)すべてを兼ね備えた神。南極星(中国の伝説で人の寿命を司る星)の化身で南極老人ともいわれる。また福禄寿を具えた神は人徳も備わっている事から人徳の神としても信仰されている」と記されている。しかし、福禄寿はどこにも見当たらない??。

 与野七福神を巡ったが、寺社と七福神の関係はあまり深くなさそうだ。共通の説明板はよかったが、七福神自体を祀っていないところも多く、拍子抜けである。
 上町氷川神社から大通りに出て東に歩くと北与野駅近く、さらに東に進むとさいたま新都心駅に着く。かなりの距離を歩いた。13時過ぎ、グランデ武蔵野のレストランでビール+ランチ、お疲れさん、福がありますように

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