yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1983年マレーシアの民家を見学、開放的な木造高床で階段は彩色され内外の結界を象徴していた

2017年02月19日 | 旅行

1983 マレーシアの高床民家 /1996記 写真はホームページ参照。
 マレー半島はインドシナ半島から鶴の首のように突きでていて、その長さはおよそ1500kmにもなる。
 日本の青森と山口は直線距離でおよそ1300kmだから、いかにマレー半島が長いか想像されよう。しかも青森は北緯39度、山口は41度前後で緯度差は7度ほどだが、マレー半島はだいたい北緯1度から13度になり緯度差は12度にもなる。
 青森・山口より距離が長く緯度差が大きいとなれば、比較住居研究を志す者にとってマレー半島の風土の違いと応じた住まい方の違いが無性に気にかかってくる。

 しかし、マレー半島の北側の一部は現ミャンマーであり、中ほどはタイ、そして南側がマレーシアに属していて、しかも交通事情はまだ整備されていないので、マレー半島縦断はとても無理と思えた。
 ならばせめてシンガポールからマレーシアの首都クアラルンプールまでをマラヤン鉄道で縦断しようと、成田からシンガポールに飛び、いさんでシンガポール駅にむかったのだが、駅員はうさんくさそうに「3等の切符ならある、あさっての列車だがいいかね」ときた。
 あとで分かったことだが、その当時は、自分で切符を買いにくるような低所得者への常套句だったようだ。よほど私の身なりが貧相に見えたのかもしれない。
 もっともお陰で日本、海外問わず盗難や危険な目に遭わず旅しているが、このときばかりは残念やるかたなし。

 国情が違うのだから行き違いは当たり前と言い聞かせ、とりあえず飛行機で友人K君の待つクアラルンプルに飛びたったものの、ディナーでメインディッシュを食べ損なったような気がしてならなかった。
 これでは旅の目的が果たせないと無念がっていたら、K君がマラッカまで車で案内してくれることになった。
 クアラルンプールからマラッカまではおよそ150km、マレー半島のわずか十分の一の距離だが、幸運にも道路が村や町の中を通っていて民家をじっくり観察することができた。塞翁が馬を地でいっているような気分である。

 クアラルンプールを出発してまもなく風景は広々とした田園に変わる。水牛があちこちで土をおこしていて、田植えの準備のようである。
 ここらあたりは日本で食べるジャポニカ米と違いインディカ米が中心だが、そのことと関係があるのか、土は赤みがかっていて、マラッカらしい風景をつくりだしている。その風景を遮るように民家が建ち並んでいた。

 民家には塀や生け垣などの屋敷囲いはない。その代わり胸ぐらいまでの高床形式とし、住まいのプライバシーを守っている。高床にあがる階段は、住まいが木造なのにレンガ積みにし、しかも丹念に彩色され飾り付けられている(写真)。日本では内外の境には門を構え、玄関を配置し、結界を象徴するが、ここでは階段が外界との結界を意味しているようである。
 階段を上ったところは板張りのかなり広いテラスになっていて、談笑や応対ができるようになっている。このテラスは木造軸組で、壁はなく、開放されている。
 ここは外と内の緩衝空間であると同時に、蒸し暑いうえスコールが頻繁に降るマレーシアならでは気候に対処した作りといえよう。

 屋根は藁葺きが古い形式のようで、矩勾配をこえる急傾斜の合掌になっている。白川郷の合掌屋根を連想させなくもないが、寒さがないため日本の民家に比べ藁の葺き厚はずっと薄い。
 そのうえ、藁葺きよりもトタン葺きの方が多くみられ(写真)、しかも、緩勾配のトタン屋根も少なくない。おそらく、藁葺きのため急勾配が基本→耐久性のあるトタンが普及して藁屋根の上に張り→急勾配の屋根にトタンだけを張り→トタンなら雨が漏らないので緩勾配の屋根に、と変化したのではないか。
 近代技術は便利さをもたらしたが、それによって伝統的な技や形を失うことになる。時代の必然である。

 わずか150kmの走破だったが、マレーシア民家の特徴をつかむことはできた。加えて、技術の発展と伝統文化の問題も改めて考える機会になった。マラヤン鉄道では得られなかったかも知れない。K君に感謝。

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