yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

アラバスター、ムカルナスなどで華麗なアルハンブラ宮殿はその陰でアベンセラヘス36人斬首の悲劇

2017年02月22日 | 旅行

スペインを行く41 2015年ツアー10日目 アラヤネスのパティオ バルカの間 大使の間 ライオンのパティオ 王たちの間 アベンセラヘスの間 二姉妹の間 アヒメセスの間 リンダラハの出窓 /2017.2

 ・・略・・グラナダ・アルハンブラ宮殿・アラヤネスのパティオにいる。長さ34mの池の両側の生け垣がアラヤネスというフトモモ科の植物で、資料によっては天人花または銀梅花と訳されている。天人花は東南アジアの熱帯が原産、銀梅花は地中海原産だから、銀梅花があってそうな気がするが、植物には詳しくないから見分けがつかない。
 池に写っているコマレスの塔は高さが50mもあるそうだ(スペインを行く40参照)。現代のビルでは16~17階の高さになる。レンガ積みで、格別の装飾もないが、最上部には狭間が並んでいる。塔の下は各国の大使と接見する大使の間Salon de los Embajadoresとして使われる。もし大使に不穏な動きがあれば攻撃するぞ、といった重圧を感じさせるためかも知れない。
 ・・略・・ 7連アーチの回廊は、繰り返しになるが、雪花石膏アラバスターの透かし彫りでさながらレース編みのような繊細さを感じる(写真)。
 柱は極限まで細くしてあり、その上に馬蹄形アーチを乗せているが、オアシスの傍らの椰子の木の細い幹から葉っぱが大らかに広がっているイメージから発想したのであろうか。どこを眺めても、高度な職人芸で、見飽きない。

 残念ながら見学時間に限りがあり、ガイドはアラヤネスのパティオを一回りしてからコマレスの塔に向かった。前室の狭いバルカの間Sala de la Barakha=祝福の間?の石化石膏の細やかな彫刻も見事だが、目は奥の大使の間Salon de los Embajadoresに飛んでいる。
 ・・略・・ まるで天空にきらめく星空である(写真)。ヒマラヤ杉の木組みが基調になっている。天井が高く、吸い込まれるような感じである。・・略・

 イスラム教の開祖ムハンマド(570ごろ-632)はアラビア半島中西部メッカの生まれで、隊商交易の商人だった。アッラーフ=アラーの啓示を受けた後、砂漠を駆け巡り、布教を進めていく。夜ともなれば、澄み切った天空に星がきらめいていたに違いない。大使の間の天井は天空のきらめきの再現であろう。しばし、天井のきらめきに我を忘れる。
 目が慣れてきた。室内を見渡す。天井に近い壁の半円アーチは雪花石膏の透かし彫りがはめ込まれていて、光があふれている(写真)。
 その下の壁は幾何学模様の繰り返しで埋め尽くされている。色調を雪花石膏の色調にあわせたタイルのようだが、色もところどころに残っているから、彩色されたタイルだったかも知れない。
 下層の馬蹄形アーチの開口周りは雪花石膏アラバスター仕上げ、腰壁は鮮やかなイスラミックタイル仕上げ、床は彩色の施されたイスラミックタイル・・中央にしか残っていない・・である。
 招かれた各国の大使は豪華な装飾に度肝を抜かれたであろうから、ナスル朝の王侯は有利に交渉が進められたのではないだろうか。

 ・・略・・
 バルカの間を抜け、アラヤネスのパティオの東隣のライオン宮Leonesに向かう。ライオン宮は国王一族の居住空間で、中央の中庭を囲んで、四方に王の間やハーレムなどが並んでいる。
 中庭は、ナスル朝中期、ムハンマド5世により造園された。口から噴水を噴き出す12頭のライオンが支える水盤が中央に置かれているため(写真)、中庭はライオンのパティオPatio de los Leones、王の館がライオン宮と呼ばれた。
 ライオンは、年月が経って穏やかな顔になったのか、丸くなった角をつければ羊に見えなくない。あるいは猫に近い。
 ローマ帝国時代ごろにイベリア半島のライオンは絶滅したから、ライオンを誰も見たことがない。職人もこれで良しと思い、王族もこんなものだろうと言ったのかも知れない。

 ライオンが噴き出した水は、東西南北の四方の水路に落ちる(上写真)。水路は回廊を抜け、室内まで続いている。室内にもそれぞれ水盤があり、涼しさを作りだしている。
 ・・略・・ ライオンのパティオの東が王たちの間Sala de los Reyesである。前室は、鍾乳石装飾ムカルナスで彫刻されたアーチ壁で区画されていて、腰壁は色とりどりのイスラミックタイル、天井は降り注いでくる錯覚にとらわれそうな蜂の巣状の鍾乳石装飾ムカルナスで仕上げられている(写真、1994撮影)。
 豪華さが王の居室を表している。アーチ壁で区画された前室の奥が王の寝所になる。天井にはナスル朝歴代の10人の王の肖像画が描かれていたが、見どころは前室の装飾と、王の間からの回廊+中庭の眺めであろう。

 回廊を戻り、ライオンのパティオの南側のアベンセラヘスの間Sala de los Abencerrajesに入る。
 ナスル朝(1232-1492)の末期、王位を巡る争いが激化し、最後の王となるボアブデル=ムハンマド11世(1460?-1527)は王位について間もなく、有力な一族であるアベンセラヘス家の36人を王宮に招いたあと、謀反の罪で全員斬首してしまう。その首を星形のへりに並べたというからすさまじい。以来、この部屋はアベンセラヘスの間と呼ばれている。
 星形天井は蜂の巣状鍾乳石飾りムカルナスで、三角形の凹凸の壁は雪花石膏アラバスター、下の壁はイスラミックタイルで、デザインの基調を同じにしながら、方形、長方形、ドーム、星形、八角形(後述の二姉妹の間の天井)と形を変え、ときには木組みを用いるなど変化をつけている。
 床に置かれた水盤には赤いシミがついているが、斬首されたときの血しぶきが消えずに残っているとの説もある。栄華の裏には暗黒が渦巻いているようだ。
 ・・略・・
 回廊を回って、ライオンのパティオの北の二姉妹の間Sala de las Dos Hermanasに入る。デザインの基本は同じで、壁をイスラミックタイル+アラバスター、天井をムカルナスとしている。
 床の中ほどに大きな大理石の石が2枚敷かれていることから二姉妹の間と呼ばれたそうだ。確かに大きな石が二枚敷かれているが、彫刻があるわけでもないし、特別な仕掛けもなさそうだ。
 それでは話が盛り上がらないためか、王の寵愛を受けた二姉妹がこの部屋を使ったという説もある。ハーレムがあるくらいだから、王の特別な寵愛を受けた姉妹の部屋の方がもっともらしい。

 二姉妹の間の奥、北側にアヒメセスの間Sala de los Ajimecesと呼ばれる部屋がある(写真)。窓が大きいため、腰壁の鮮やかなイスラミックタイル、窓の縁取りや窓の上のアーチ型の壁の雪花石膏アラバスター、鍾乳石装飾ムカルナスが光り輝いている。
 通常ハーレムの女性は生涯外に出ることを許されない。寵愛を受けた二姉妹や女性たちはここから外の眺望を楽しむことができた。アヒメセスの間はその女性たちにふさわしい装飾が目指されたのであろう。
 窓は、リンダラハの出窓?Mirador de Lindarajaと呼ばれている。二姉妹はソライダとリンダラハという名で、この窓から外に出られない身を嘆き悲しんだ?という伝承もあるそうだ。後世の人が物語を次々と脚色していくから真偽は分からないが、もっともらしいい話になっている。

 リンダラハの出窓?の先に幾何学模様で刈り込まれた庭が作られている(写真、1994撮影)。周りはすべて壁で外には出ることはできない。
 ハーレムの女性たちはこの庭をそぞろ歩き、ささやかな自由を楽しんだ。庭は、ダラクサ?ダラハ?の庭Jardin de Daraxaと呼ばれていることから、リンダラハの出窓?はダラクサの出窓?とも呼ばれる。
 ダラハはナスル朝最後の王ボアブディルの妻の名だったという説もある。王の妻ですら街には出ることができないので、この庭を散策し、窓からグラナダの街を遠望して、自由な暮らしに思いを募らせていたのかも知れない。
 囚われの栄華と貧しいが自由、どちらが幸せだろうか。

 ・・略・・カルロス5世宮殿に向かった。続く

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マイナンバーカード対応ICカードリーダーやアドミニストレイター?で苦戦しながらe-Taxを送信する

2017年02月21日 | よしなしごと

 e-Taxによる確定申告を利用し始めてから7~8年になる。
 毎年1月中ごろ、国税庁からe-Taxの案内が届くので、暇なとき必要書類を集めておき、2月中旬過ぎに半日ほどの時間で申告書をまとめ、送信する。
 申告書がまとまると自動的に納付・還付税金額が表示される。もし申告書類にミスがあれば、申告期限までの修正が何度でもできる。
 あとは年度明けてから税金を納付するか還付を受ければいいだけである。慣れれば便利なシステムである。

ところが、第1関門
 今年も例年通りだと高をくくっていた。ところが国税庁e-Taxのホームページを開いて愕然とする。
 なんとe-Taxはマイナンバー制度に移行していて、私が使っていた旧来のICカードリーダー・ライターはマイナンバーカードに対応していないのに気づいた。昨年まで使えたICカードリーダー・ライターはいつの間にか時代遅れになっていたのである。
 インターネットで調べ、マイナンバー対応型のICカードリーダー・ライターを探した。インターネット通販で、価格が手ごろな人気の品を見つけたが在庫がなく、発送まで1~2ヶ月かかる。
 これでは確定申告に間に合わない恐れがある。次はS社のP、これも人気商品、2500円少々、日本製で、在庫あり、またまた出費だがやむを得ない。さっそく注文する。

さらに、第2関門
 数日後にS社のPが届いた。旧型ICカードリーダー・ライターに比べスマートで、スイカカードの残高照会もできる。技術は日々進歩している。
 ノートパソコンを立ち上げ、e-Taxのホームページを開いて事前準備セットアップをダウンロードしようとしたら、なんとアドミニストレイターではないので管理者に問い合わせろとのメッセージが表示された。
 しばらく、悶々とする。
 昨年まではデスクトップパソコンで確定申告をしていたが、このデスクトップパソコンが昨年末にダウンし、以来、ノートパソコンを使っている。
 ノートパソコンはウインドウズ10対応で、outlookで登録し、hotmailも使えるようにしている。
 デスクトップパソコンはウインドウズX対応で、hotmailで登録してあった。通常の作業ではノートパソコンもhotmailで起動して支障なく使えた。
 さてどうしたものか・・ひょっとして??、いったんシャットダウンして再起動し、ノートパソコンをoutlookで開いた。こんどはインターネットエクスプローラではなく、マイクロソフトエッジ画面になってしまった。
 
どうやらウインドウズ10はマイクロソフトエッジがベースになったようだ。マイクロソフトエッジ画面からe-Tax画面を開き、事前準備セットアップを試したら、スムーズにダウンロードできた。
 インターネットエクスプローラになれているので、マイクロソフトエッジがまだ使いこなせないが、なんとか準備終了となった。

最後に第3関門
 確定申告に必要な書類をまとめて、確定申告に挑戦した。コーヒーを飲んで一息ついてから始めたから、3時過ぎのスタート、申告作業を終え送信したのが7時ごろ、おおよそ4時間かかってしまった。
 理由の一つは、1年に1回なので、ほとんど忘れていてどこに何を記載するか、いちいち調べなければならず、時間がかかった。
 理由の二、e-Taxのホームページはインターネットエクスプローラ対応なので、画面を閉じるたびにマイクロソフトエッジ画面からe-Tax画面→インターネットエクスプローラ画面へと変換しなければならない。
 ほかにもスタート画面によく使うアプリケーションのショートカットをピン留めしたりなど、手間が増えた。

 最大の理由は、医療費の明細がかなり時間を要する。申告用のエクセルが用意されているが、ノートパソコンのモニター画面は小さいから一行ごとに上下、左右にスクロールしながら、各セルに領収書の年、月、日、医療費、補填金額、治療内容、氏名、本人または配偶者、医療機関の住所、名称を記入していく。
 これに時間がかかる。途中で保存しようとしたら、ノートパソコンのエクセルは新しいバージョン、e-Taxのエクセルは古いバージョンのようで、互換性の警告が出たりして冷やっとさせられた。
 2時間ぐらいかかって何とか医療費明細を仕上げ、申告用紙にアップロードした。

 申告用紙が完了すると自動的に納付・還付税額が表示される。それを確認し、還付金の振込先を記入して、確認用に一式をプリントしたうえで、識別者番号、暗証番号を入れ、送信、これで終了である。
 申告終了ご苦労さんということで一人で自画自賛、ビールで祝い酒、食事をしながら確認用申告書類を見ていたらやはりミスがあった。
 食後に、もう一度outlookで起動→マイクロソフトエッジ画面→e-Tax画面→インターネットエクスプローラ画面→申告用紙再開→ミスを修正して送信を繰り返し、一件落着となった。改めてワインで祝い酒、お疲れさん。

確定申告用の書類整理でおよそ1時間、マイナンバーカードや識別者番号、暗証番号などを用意し、事前準備セットアップをすませ、e-Taxを開き、申告書類記載を開始、医療費明細にちょっと時間がかかるが、順調なら2~3時間で書類完了、送信ができる。おすすめである。

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2005年インド洋大津波で被災したスリランカ西~南沿岸部1250kmを踏査、復興状況を視察

2017年02月20日 | studywork

2005「インド洋大津波から半年 スリランカ復興の現状と課題」  日本建築学会大会パネルデスカッション/2005.7  フルページ、写真はホームページ参照
                             
 2004年12月に起きたスマトラ沖地震・インド洋大津波が発生した。半年になる2005年7月にスリランカ・南西~南沿岸部のおよそ1250km走り、主として被害住宅、応急仮設住宅、再建住宅、新たな住宅地、被災した学校、応急仮設教室の復興状況を見て回った。
 復興の現場と課題にを紹介する。
 沿岸部に建つ学校も津波被害にあっており、小学校(小+中+高校もある)全数3547校のうち、全壊小学校59校、半壊一部損壊110校である(前頁表)。スリランカ政府は海岸から100mの建築を禁止したため、100m内に建つ小学校は再建不可能になった。
 この地震で最高高さ10mに及んだインド洋大津波でスリランカでは推定4.4万人の犠牲になった(表は死者・行方不明者数)。
 スリランカの地形は、高さ2500m級の山脈を擁する山岳地帯、古くから王朝が栄えた高原地帯、海岸部の低地帯で構成され、低地帯の漁村集落、ヨーロッパ進出後の都市、沿岸部のマリーンリゾート地(ヨーロッパ人の被害も大きかった)に津波被害が集中した(右上図はスリランカの地勢断面)。

 津波被害:津波は3回あり、最初は小さく水がかなり引いて魚が陸地に取り残されたので大勢の人が浜辺に出たところに、2回目の大津波が襲ってきた。
 どの場所でもヤシの木ぐらいの波だったそうで、およそ5~6m、高いところで10mに近い波がきた。
 3回目の波は小さかったが大津波でおぼれた人、流された家屋家財が海に持っていかれたそうだ。
 1回目の津波で海辺に行かず様子を見ていた人は2回目の大津波を見て必死に逃げ助かった。2回目の大津波に襲われた人でもヤシや木材にしがみついて助かった人も少なくない。
 ほとんどの家族が身内や友人知人を失っており、避難所仮設住宅では子どもは夜中に大声を上げて泣き出す、大人でもスコールの激しい音にびくっとする、昼は仮設住宅にいるが怖いので夜は高台のキャンプで寝る、など精神的な不安がまだ続いている。
 Galleの韓国による仮設住宅にはキリスト教ボランティアの人が常駐し相談にのっていて好評であった。物的な支援だけではなく精神的なケアの必要性を感じた。

 住宅被害:スリランカの伝統的な住宅は古くは日干しレンガ、多くは焼成レンガを積み上げた瓦葺き平屋の簡易な構造で、津波によりほとんどが土間床を残して瓦礫になっている。
 比較的新しい建物はコンクリート構造にレンガの間仕切り壁で、これらは構造体を残して瓦礫化している。
 東南~南の海岸線は海抜数mのため、海岸線沿いはすべて被災地で、こうした瓦礫の山、構造体だけを残した残骸が続き、建物の形を残していても大津波に水没したため無人家屋が多い。(少し高台に町並みは活発に動いている、被災地でも店を開けているところも少なくないが、総じて復興のテンポは遅い)。
 100m内建設禁止:政府は被災後ただちに海岸線100m以内の建設禁止を打ち出した。しかし、その後の支援・復興・再建についての情報が不足しているため、100m以内に住んでいた人からの不満は大きい。
 とくに、100mの外の被害者には住宅再建資金の支援があるが、100m以内については支援はないとの情報しかなく、行き先の指示も無いため、津波が怖い、できれば安全な場所に行きたいと思いつつも、もとの住宅跡に自力で仮設住宅を建てたり、自力で住宅再建を始めている。

 仮設住宅:一時期55万人が避難生活をしていた。いまでも仮設住宅を大量に必要とし、多くの国から支援の手が届いている。
 反面、いろいろな国の仕様を反映して形はさまざまである。波形トタン(政府支給)、板材、ビニールシートなどが主な材料になる。テントの仮設よりはいいといっているが、狭い(おおむね6~9㎡が多い)、暑い、家具などすべて失った、仕事がほしい、早く自分の家を安全な場所にほしい、など不満がたまっている。
 ほとんどがトイレ、シャワー、キッチンが共同である。天井が吹き放しも多く、プライバシーは低い。
 一時、キャンプや仮設住宅で赤ん坊の誘拐が多発したため、中に入るには原則として許可を必要とし、いくつかは政府管理事務所が置かれているが、ここでの情報は限られている。

  住宅再建:100m内では政府からの支援が示されていないため自力で住宅再建を始める例が少なくない。100mの外では10万ルピー(およそ11万円)の支援が約束されていて、自力、または各国の支援を受けて住宅再建が始まっている。
 ほとんどが自分の敷地での再建で、コンクリートブロックなど強固な構造や2階建てにしているが、プランなどは自分の考えのため外観は多様化している。インフラ整備や室内設備・家財はないため、復興はかなり長引きそうである。

 住宅地計画:政府が用意した土地に各国の支援による中~大規模な住宅地計画の建設が始まっている。奥まった場所が多く、インフラなどが整備されていないなど、生活の不便が予想される場所が多い。
 傾斜地を開き樹木を伐採した切り土の敷地もあり、新たな被害の懸念もある。ほとんどが支援国・団体による計画であり、住民はもとより専門家や政府の意向は取り入れられていない。が、家を失った被災住民の期待は大きく、未完成ながら住み始めている人もいる。

 未曾有の予想しえない緊急事態に世界中からの支援が集まっていて、頼もしい限りである。しかし、スリランカの住民、専門家が主導的に参加した復興再建ビジョンは皆無であり、支援国・団体の考えを反映した建物が次々に建ちあがっていくのは新たな課題となろう。
 また、スリランカの大学には都市計画がきわめて少なく、建築計画も多くないそうだ。小・中学生への教育支援とともに、建築・集落計画・都市計画分野の専門家の交換、専門技術の交流も急務である。

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1983年マレーシアの民家を見学、開放的な木造高床で階段は彩色され内外の結界を象徴していた

2017年02月19日 | 旅行

1983 マレーシアの高床民家 /1996記 写真はホームページ参照。
 マレー半島はインドシナ半島から鶴の首のように突きでていて、その長さはおよそ1500kmにもなる。
 日本の青森と山口は直線距離でおよそ1300kmだから、いかにマレー半島が長いか想像されよう。しかも青森は北緯39度、山口は41度前後で緯度差は7度ほどだが、マレー半島はだいたい北緯1度から13度になり緯度差は12度にもなる。
 青森・山口より距離が長く緯度差が大きいとなれば、比較住居研究を志す者にとってマレー半島の風土の違いと応じた住まい方の違いが無性に気にかかってくる。

 しかし、マレー半島の北側の一部は現ミャンマーであり、中ほどはタイ、そして南側がマレーシアに属していて、しかも交通事情はまだ整備されていないので、マレー半島縦断はとても無理と思えた。
 ならばせめてシンガポールからマレーシアの首都クアラルンプールまでをマラヤン鉄道で縦断しようと、成田からシンガポールに飛び、いさんでシンガポール駅にむかったのだが、駅員はうさんくさそうに「3等の切符ならある、あさっての列車だがいいかね」ときた。
 あとで分かったことだが、その当時は、自分で切符を買いにくるような低所得者への常套句だったようだ。よほど私の身なりが貧相に見えたのかもしれない。
 もっともお陰で日本、海外問わず盗難や危険な目に遭わず旅しているが、このときばかりは残念やるかたなし。

 国情が違うのだから行き違いは当たり前と言い聞かせ、とりあえず飛行機で友人K君の待つクアラルンプルに飛びたったものの、ディナーでメインディッシュを食べ損なったような気がしてならなかった。
 これでは旅の目的が果たせないと無念がっていたら、K君がマラッカまで車で案内してくれることになった。
 クアラルンプールからマラッカまではおよそ150km、マレー半島のわずか十分の一の距離だが、幸運にも道路が村や町の中を通っていて民家をじっくり観察することができた。塞翁が馬を地でいっているような気分である。

 クアラルンプールを出発してまもなく風景は広々とした田園に変わる。水牛があちこちで土をおこしていて、田植えの準備のようである。
 ここらあたりは日本で食べるジャポニカ米と違いインディカ米が中心だが、そのことと関係があるのか、土は赤みがかっていて、マラッカらしい風景をつくりだしている。その風景を遮るように民家が建ち並んでいた。

 民家には塀や生け垣などの屋敷囲いはない。その代わり胸ぐらいまでの高床形式とし、住まいのプライバシーを守っている。高床にあがる階段は、住まいが木造なのにレンガ積みにし、しかも丹念に彩色され飾り付けられている(写真)。日本では内外の境には門を構え、玄関を配置し、結界を象徴するが、ここでは階段が外界との結界を意味しているようである。
 階段を上ったところは板張りのかなり広いテラスになっていて、談笑や応対ができるようになっている。このテラスは木造軸組で、壁はなく、開放されている。
 ここは外と内の緩衝空間であると同時に、蒸し暑いうえスコールが頻繁に降るマレーシアならでは気候に対処した作りといえよう。

 屋根は藁葺きが古い形式のようで、矩勾配をこえる急傾斜の合掌になっている。白川郷の合掌屋根を連想させなくもないが、寒さがないため日本の民家に比べ藁の葺き厚はずっと薄い。
 そのうえ、藁葺きよりもトタン葺きの方が多くみられ(写真)、しかも、緩勾配のトタン屋根も少なくない。おそらく、藁葺きのため急勾配が基本→耐久性のあるトタンが普及して藁屋根の上に張り→急勾配の屋根にトタンだけを張り→トタンなら雨が漏らないので緩勾配の屋根に、と変化したのではないか。
 近代技術は便利さをもたらしたが、それによって伝統的な技や形を失うことになる。時代の必然である。

 わずか150kmの走破だったが、マレーシア民家の特徴をつかむことはできた。加えて、技術の発展と伝統文化の問題も改めて考える機会になった。マラヤン鉄道では得られなかったかも知れない。K君に感謝。

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文明の十字路マラッカには明様式の寺院、ポルトガル様式の教会、オランダ様式の建物が残る

2017年02月18日 | 旅行

1983 マレーシアの古都・マラッカ寸描 /1996 写真はホームページ参照
 エイペック(APECアジア太平洋経済協力)が閉幕した(1996年)。日常の生活では、誰も自分の住んでいる国を中心に世界をとらえがちである。しかも多くの日本人は、日本とアメリカとヨーロッパで世界が成り立っていると錯覚している。
 確かに欧米諸国は現在の世界をリードする要であり、日本はなんとか経済的に欧米と対等の位置を確保することができたのでそう感じるのも仕方ない。それが今回のエイペックで、改めて自分の感じていた世界が如何に変形していたか思い知らされたのではないだろうか。

 エイペック出席の一人、マレーシアのマハティール首相(1996年当時、故人)はかつてルック・イースト、つまり日本に習え、を掲げ国の振興を図ったが、まさしく日本はアジアの東端に他ならない。
 アジアの海上交通からいえば、中心は現在のマレーシア、インドネシアあたりになるのではないか。このあたりの海域は古来より船団が行き交い、文明が交錯してきた。
 マラッカ海峡で知られるマレーシアの古都マラッカmalacca(英)=ムラカMelaka(マレー語)には、インド、イスラム、中国、ポルトガル、オランダなどの様式を色濃く残した建物が残り、海上交通の華やかさを今に伝えている。

 その1が中国様式の寺院である。かつてインドを傘下に収めたイスラムはさらに勢力を拡大し東南アジア一帯をイスラム化した。
 マレーシアでは15世紀初頭にイスラム国家が成立し、以来、マレーシアは今日までイスラム教を国教としている。
 当時、中国は明の時代で、中国近海の海上貿易を一手に握っていた鄭和の仲立ちにより明とマラッカのイスラム君主との通商が開始されることになった。中国では友好の証しとしてしばしば皇帝の側室や娘を友好国に嫁がせる風習がある。かつてモンゴルに嫁いだ王昭君の話は誇張があるとはいえあまりにも有名である。
 マラッカでも、明の皇女ハン・リー・ポーがイスラム君主の元に嫁ぐことになった。侍女500人余を引き連れた花嫁行列は大変盛大だったようで、感激したイスラム君主はわざわざ「中国人の町」を建造したといわれている。マラッカの町を歩いていて通りを曲がった途端、家並みが中国式の連続店舗住宅に変わってびっくりしたことがある。それはただ建物が中国式というだけではなく、住んでいる人の顔つき、話し声やざわめき、におい、衣類や調度品の色合いなど、どれをとっても中国なのである。まさに中国人の町であった。

 極めつきがチェン・フーン・テン寺院(1645年建立)で、鮮やかな朱塗りの門扉、両端を空に向かって伸びあげた屋根、天女や動物を型どった屋根飾り、400年を経た今も中国独自の様式の健在ぶりを示している。強いて言えば、煎餅のような薄い瓦がここは中国にあらずといっているようであった。
 2つ目はポルトガルの教会である。16世紀に入るとイスラムに代わってポルトガルがマラッカを支配した。日本にキリスト教を伝道した聖フランシスコ・ザビエルも長くマラッカに滞在し布教につとめた。
 ザビエルが滞在した聖ポール教会はすでに無く、史跡公園になっている。その後、ザビエルの功績をたたえようと、聖フランシス・ザビエル教会が建立された(写真・1849年建設)。尖塔アーチ状の正面入口や両脇に建つ双塔、ステンドグラスがはめこまれた丸窓がゴシック様式をいまにとどめている。

 その3はキリスト教会(写真・1753年建設)やスタダイス(市庁舎、現マラッカ博物館)などのオランダ建築である。いずれもサーモンピンク色のレンガ造で、明るい陽光にますます朱色の鮮やかさを増していて強烈な存在感を見せていた。
 これらの建物群は18世紀初頭にポルトガルに代わってマラッカを統治したオランダによるもので、レンガは東インド会社を拠点とする商船によって運びこまれたそうだ。ロータリーを囲むように配置された空間構成もオランダ仕込みの都市計画であり、放射状道路も周辺の町並みにすっかりとけ込んでいる。

 文明の十字路マラッカ、そこに住む彼らこそ世界の文明を等距離にみることができる、そう思うのだが。

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