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景観とはその土地ではぐくまれた文化に他ならない、2007年景観文化論を寄稿

2017年02月08日 | studywork

2007年にも埼玉県の総合研修誌に寄稿した。長文だが再掲する。写真はホームページ参照。

2007「美しく住みつづける 景観文化論ミニ講座」 埼玉自治 /2007.11
第1講 初級編:景観は文化である
 私たち人間は、外界の状況を視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五感を通して認識する。第六感の鋭い方もいるが、普通には五感を通して外界を感じている。
 景観は外界を形づくっている物的な構成のことであるから、五感のうち、とくに視覚の感じ方が大きな要素になる。
 たとえば、高層ビルが建て込んでいる、背景の自然と調和している、色調がとげとげしい、などは視覚によって判断している。
 そのため、しばしば間違うことは、景観=視覚による感じ方と思ってしまうことである。
 蝉の鳴き声から鈴虫や松虫の音色に変わることで季節を感じる緑地景観(聴覚)、木の香りに包まれ気持ちがいやされる木造の校舎(嗅覚)、さらには景観を通して記憶が呼び起こされ、思い出がよみがえること(心象景観)すらある。
 景観は感性の総合的な感じ方である。

 そのことを念頭に改めて身の回りの景観を見てみると、美しく感じられる景観、心地よい景観と、美しくない、心地がよくない、できれば手直しをしたい景観とに大別できる。
 美しくない、心地がよくない、できれば手直しをしたい、ここが景観の重要な点で、景観とは人とのかかわりで形づくられる物的な構成であり、美しく景観、心地よく作りかえることができるのである。故に、景観を「コントロール」したり、「歴史的な意義」を伝える景観として保全したり、景観を「計画する」ことが可能になる。

 ところで、美しい、心地よいという感性は、個人的な属性である。にもかかわらず、美しさの基準は地域ごとに共有される。日本のように蒸し暑いところでは、冬を我慢して「夏を旨とすべし」型の開放的な木造軸組の家が目指された。
 しかし、1年中常夏でスコールの多いマレーシアでは高床で急勾配の屋根をのせた木造軸組の家(写真、マレーシア・マラッカの民家、常夏・スコールの気候のため高床+急勾配屋根になる、同じ木造軸組でも日本とは異なった景観が作られた)になるし、夏は乾燥するが冬の寒さが厳しい北欧では丸太材を積み上げた家の作り方になる。

 同じ木造でも地域ごとに作り方が異なり、それぞれの地域ではまわりの環境とよく調和した家並みが構成されることになる。そこで育ち、そこで暮らす人々は、自然と共生し、ときには対峙する技術の必然を学び、地域ごとに形づくられる景観の美しさ、心地よさを習熟する。新たに建築を作るときは新しい技術を採り入れ、より美しく、より心地よい建築が目指されるが、それが地域ごとに洗練されて新たな景観美を形づくり、次代へと引き継がれていく。
 景観とはまさにその地域に引き継がれてきた文化なのである。

第2講 中級編:用の美の思いを学べ
 島根県の出雲に築地松と呼ばれる防風林がある。国引き神話から想像できるように、出雲平野・簸川平野はかつては海だったと思われる。
 八岐大蛇も神話の物語だが、大蛇を斐伊川になぞらえるとつじつまが合う。毎年のように氾濫を繰り返していた斐伊川はかつて海だった出雲・簸川平野あたりに大量の土砂を運んできた。
 製鉄のためのかんな流しも土砂の堆積に拍車をかけた。一説には奈良時代ごろ、人為的に氾濫を操作し、土砂が平野にまんべんなく積もるようにし始めた。
 次第に平野らしくなり、やがて宍道湖の埋め立てに発展し、いまの出雲・簸川平野が作られた。
 もちろん米作りのためである。開拓で入植した人々は、冬に吹き荒れる西~北の強風をなんとか抑えようと防風林を植えることにした。
 いろいろな木が試され、海風に強い黒松が選ばれた。私が見るに、黒松の枝振りの豪快さが冬風に立ち向かう力強さを表しているように感じる。

 木が生長しすぎると風の力に負けて倒れやすくなる。木の陰になるところは米の収量が少ない。ならば、屋根より上の枝は切り落とそう、ということになった。
 これが築地松である。剪定は陰手刈り(のうてごり)と呼ばれ、4~5年ごとに行われる。
 築地松をよく見ると、両端が伸び上がるようにカーブを描いて剪定されている(写真、島根県出雲の築地松、出雲人は冬の西風を防ぐ機能に加え、ダイナミックな美をデザインした)。両サイドも上が広がるように外に傾いて剪定されている。これこそが出雲人の思い入れである。
 両端が上、外に伸びていることで築地松にダイナミックな緊張感が演出されたのである。さらに屋敷墓が築地松の南側、屋敷の西南に配置され、荒神が築地松の北側、屋敷の西北に祀られた。

 広大な開拓平野のただ中、冬の厳しい強風から屋敷を守る築地松にかける思いが凝縮され、防風という機能に、ダイナミックな美がデザインされたのである。
 築地松とは、長い時間をかけて積み重ねられ、洗練された出雲人の思いの結果に他ならない。
 出雲で生まれ育った子どもたちは、築地松を通して出雲人の歴史をみごとにとらえている(写真、小学校2年生の作品「ついじまつはそばでみると大きなかべみたいだけどつよい風がふいてもいえをまもります。とおくからみるとみんなおなじほうこうにならんでいてみどりがとてもきれいです」子ども達は出雲の文化を的確にとらえている)。築地松景観を失うことは、出雲の歴史、出雲人の思いを失うことにつながろう。

 景観とはその土地の文化としてのアイデンティティを表現している、ことがご理解いただけたと思う。
第3講 上級編:景観を読み解き景観をつくれ
 建物はいずれ老朽化する。あるいは時代の変化で役割を終えることもある。歴史的に価値があれば、文化財として建物を保存したり、町並みとして保全を図ることができる。
 しかし、歴史的な価値はさほどでなく、あるいは価値があるかもしれないがそれを判定できる専門家がいないため、壊されてしまうことも少なくない。
 跡地には新しい建物が建てられることになるが、文化としての景観に理解がない場合には、町並み景観が大きく損なわれてしまい、それが引き金になって魅力のない町に変わっていくことも多い。
 景観への感性に鋭い=文化を理解できる目利きにたけた専門家がみごとに町並みを再生した事例を紹介しよう。

 徳島県旧脇町(現美馬市脇町)はかつて吉野川舟運を利用した藍の集散地として栄えた。商家は競ってうだつを上げ、土蔵造りの町並みが街道を賑わした。しかし、藍に代わる染料の登場やモータリゼーション化で商いが衰退し始めた。
 街道から一歩入ったところに土蔵造りの米蔵が建っていたが、老朽化が激しく壁が傾きだした。町では交通の利便や観光誘致などのため、米蔵を壊し駐車場にしようという案も出たらしい。
 このことを知った神戸大学の重村研究室は、大勢の学生ともに町並み調査に乗り出した。そして、脇町にとってうだつをあげた土蔵造りこそ時代を超えて引き継がれた文化である、と主張した。
 米蔵は手を加えれば十分に使えるが米蔵としての用は少なくなっている、むしろ未来を支える子どもたちや町の人が集える知の蔵を作るべきだ、と説得した。優れた文化を育て上げてきた町の人々も慧眼にたけていて、脇町図書館構想が練られることになった。

 米蔵の土壁は修復され、昔からそこに建っていたかと思わせる土蔵造りを基調とした図書館が建てられた。
 防火性を重んじた土蔵造りは外に対して閉じる。図書館は中庭を囲む配置をとり、土蔵造りが並ぶ道から誘導されて中庭に進むと空が大きく開ける演出がなされている(写真、徳島県脇町図書館、土蔵造りの町並み景観を読み解き、老朽化した米蔵を知の蔵として再現した)。
 祭りの山車もその一隅に格納され、祭りのときは中庭が一役買う。もともとあったお稲荷さんも一隅に配置され、図書館が暮らしの一部として根付いていった。

 文化としての景観を再生し、新たな空間の創出により町が勢いづいた好例である。景観への感性も文化の理解も学習努力によって高めることができる。
 始めは専門家との協働も必要かも知れないが、大事なことは自ら意識して景観づくりにかかわることである。一人一人の景観づくりが集積し、洗練され、モデルとして共有されるとき、それが文化としてのアイデンティティとなるはずである。

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