「香取神宮を歩く」でも記したが、関東平野の東端、利根川流域の北に鹿島神宮、南に香取神宮が鎮座し、歴史の古い由緒ある神社だが、さいたま市からは東に直線で100kmにもかかわらず交通の便が悪いため訪ねたことがなかったので、2018年、2020年の師走に香取神宮を参拝した。
香取神宮参拝後、国道51号を北に走り、利根川を超え、鹿島神宮に向かう。途中、伊能忠敬を輩出した佐原、菖蒲で知られる潮来の標示が見えたが、次のお楽しみにして通り過ぎ、鹿島神宮西の第1駐車場に車を止める。
鹿島神宮は常陸国一之宮で、茨城県鹿島市に鎮座する。祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で、経津主神(ふつぬしのおおかみ)とともに天照大神の命で日本の平定を為した武神である。創建は、神武天皇が東征半ばに窮地に陥ったとき、武甕槌大神の韴霊剣(ふつのぎみたまのつるぎ)の神威により救われ、この地に武甕槌大神が勅祭されたと伝えられる。その後は東国遠征の拠点として祭祀が行われ、奈良・平安時代には国の守護神として信仰された。奉幣使も派遣され、20年に一度の造営遷宮も行われている。例祭は毎年9月1日に行われ、うち6年に一度は勅使が派遣される勅祭で、12年に一度の午年には水上の祭典である御船祭が斎行される。
源頼朝を始めとする武将や徳川家康などの尊崇を集め、旧社殿=奥宮は1605年、徳川家康の奉納、現在の社殿は1619年、徳川2代将軍秀忠の造営、楼門は1634年、水戸初代藩主徳川頼房の奉納で、いずれも重要文化財に指定されている。
鹿島神宮第1駐車場の隣に建つ石の大鳥居が参拝者を迎える(上写真)。圧倒する大鳥居である。参道は東西軸で、うっそうとした神宮の森に覆われ、東の先に楼門が見える。大鳥居で一礼し参道を進む。
朱塗りの楼門は(中写真、重要文化財)日本三大楼門の一つに数えられている(三大楼門はほかに肥後一の宮阿蘇神社楼門、筑前一之宮筥崎宮楼門)。
寛永11年1634年、水戸初代藩主徳川頼房が奉納した楼門で、高さ13m、間口3間、奥行き1間、入母屋屋根、当初は桧皮葺、現在は銅板葺である。左右に随神が構え、神額は東郷平八郎の筆だそうだ。
楼門の先に、参道に直交した北向きの社殿が建つ(下写真、重要文化財)。参道に直交する社殿は珍しい。説明板によれば、1605年、徳川家康がいまの社殿あたりに本宮(=のちの奥宮)を奉納する。元和5年1619年、2代将軍秀忠の新たな社殿寄進を受け、武甕槌大神の御霊を参道北側の仮殿に遷し、家康奉納の本宮を現在の奥宮に移し、秀忠の社殿完成後に武甕槌大神の御霊を仮殿から本宮に遷したそうだ。
秀忠造営の社殿は、参道と直交して北を正面とし、参道側から鳥居・拝殿・弊殿・石の間・本殿が並ぶ権現造で造営された。推測するに、家康奉納の社殿があまりにも簡素だったため、家康没後の翌1617年に東照大権現の神号が下されたのにあわせ、荘重な構えの権現造に建て替えたのではないだろうか。
新たな社殿にふさわしい楼門を1634年、水戸藩主徳川頼房が奉納する。楼門は大鳥居-参道-社殿-奥宮の並びにあわせて配置されたようだ。
社殿前の鳥居で一礼し、拝殿で二礼二拍手一礼する。横に回ると、拝殿の奥に柵と玉垣=瑞垣で二重に囲まれた中の間・本殿が垣間見える(写真、重要文化財)。拝殿・弊殿・石の間・本殿とも桧皮葺で古色を感じさせる。本殿は流造で、朱色と黒色を基調にして金箔の飾り金物で装飾されている。きらびやかさを控えめにした荘重な印象である。
社殿に向かい合って参道の北に授与所、社務所などが並び、授与所の東、社殿からは北東に南向きの仮殿が建つ(写真、重要文化財)。元和4年1617年、旧本宮=奥宮に祀られていた武甕槌大神の御霊を社殿完成までのあいだ遷すための仮殿で、旧本宮は現在の奥宮まで曳いていき、旧本宮の跡に新しい社殿を造営して、仮殿から武甕槌大神の御霊を本殿に遷したそうだ。
仮殿は、間口3間、奥行き2間、桧皮葺入母屋屋根で、向拝が参道側に伸びている。20年ごとの式年遷宮のときは武甕槌大神の御霊が本殿からこの仮殿に遷されることになるが、いまは御霊は本殿に祀られているので、仮殿は無神だが、一礼する。
仮殿の手前に西向きの高房社が建つ(写真)。説明によると、武甕槌大神の命で葦原の国平定に貢献した建葉槌神が祭神で、本社参拝の前に高房社を参拝する習わしがあったそうだ。すでに社殿の参拝を終えていたので、一礼するに留める。
参道は東奥の奥宮に向かって延びていて、奥参道と呼ばれる。300mほどの奥参道は神宮の森がうっそうとし、空気が冷涼になる(写真)。茨城県指定の天然記念物で、スギ、シイ・タブ・モミの巨樹が生い茂っている。
生育南限と生育北限の植物が混ざっているのが特徴だそうだが、どの植物が南限か北限かは見分けがつかないので、冷涼な空気で身を清めながら奥参道を歩く。
奥参道では流鏑馬の神事も行われるそうだ。
さざれ石が置いてあった。神社にさざれ石は多い。
柵の中で鹿が飼育されていた(写真)。
話が飛ぶ。藤原鎌足=中臣鎌足の父は鹿島神宮の神官で鎌足は鹿島で生まれたとの説があり、鎌足が中大兄皇子を支えて大化の改新を進め、のち藤原姓を賜ったので鹿島神宮は藤原家の氏神となり、平城京遷都の710年、藤原不比等(鎌足の次男、大納言、右大臣などの要職に就く)が平城京鎮護のため武甕槌命の分霊を御蓋山(みかさやま=春日山)に祀るとき、武甕槌大神が白鹿に乗って奈良・春日大社に降り立ったと伝承されている(2021.12ブログ「奈良を歩く22 春日大社」参照)。
鹿島神宮では鹿を神鹿として大切にしていたが、一時、鹿が絶えてしまい、春日大社から鹿を譲り受け、いまはこの鹿園で鹿が元気に育っている。芭蕉の鹿島詣でに同行した曽良は「膝折るや かしこまり鳴く 鹿の声」を詠んでいる。
奥参道の行き止まり右=南に北向きの奥宮が建つ(写真、重要文化財)。祭神は武甕槌大神荒魂である。
徳川家康は慶長10年1605年、関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に武甕槌大神を祭神とする本宮を奉納し、1619年、2代将軍秀忠が新たな社殿を建てるにあたり武甕槌大神を仮殿に遷し、旧本宮を現在の奥宮まで曳いてきて、社殿完成後に武甕槌大神を本殿に遷し、現在の奥宮には武甕槌大神荒魂が祀られたそうだ。
玉垣=瑞垣で囲まれた奥宮は、間口3間の流造で、向拝が参道側に伸びている。鳥居で一礼し、奥宮で二礼二拍手一礼する。
奥宮の左手に南に向かう散策路があり、進むと大鯰の碑が立ち、さらに東に歩くと、要石が埋められている。地中深く埋められたる要石が地震を起こす鯰の頭を抑えていると伝えられている。香取神宮の要石の頂部は凸型だったが、鹿島神宮の要石は凹形である。違いの意味することには触れていない。
芭蕉句碑があり「枯枝に 鴉(あ)のとまりけり 穐の暮」が刻まれている。webには、枯枝=近景、烏が止まる=近景、秋の暮=遠景の対比で、秋の終わりの物悲しい情景を詠んだと解説している・・なるほどなるほど・・。
奥宮に戻り、その先の坂道を下る。ここにも芭蕉句碑があり、「此の松の 実生えせし代や 神の秋」が刻まれている。webには、神宮の森の見上げるほどに育った松の、実生から芽を出した遙かな昔の神代のことがしのばれる、と解説されている・・なるほなるほど・・。
急坂を下った右に、東斜面の森を背にした御手洗池が水を満々と貯めていた(写真)。1日に40万リットル以上の湧水があるそうで、のぞくと水底が見渡せるほど澄んでいた。
かつては参拝する前にここで禊をしたそうだ。現在は、テレビでも報道されたが、年始に大勢の男女が白装束で大寒禊を行うのが恒例になっているそうだ。
急坂を上り、奥宮あたりから奥参道を西に歩き、社殿で一礼し、参拝を終える。
鹿島神宮案内図には北浦に架かる神宮橋近くに一之鳥居が図示されている。かつては海が内陸に食い込んでいて、武甕槌大神も、参拝者も、家康の使いも、船で鹿島神宮に訪れた。たぶん、武甕槌大神は一之鳥居あたりの大船津に上陸したのであろう。
参拝を終えたあと、国道51号線を北に走り、神宮橋を渡りながら北浦の鳥居を見つけた(写真web転載、鹿島神宮の第一鳥居は東西南北4ヶ所あるらしいがほかの鳥居は見ていない)。
一瞬だが、神武天皇以来の歴史の痕跡を見たことになる。学校教育では重要な人物や出来事を断片的に勉強するが、旧蹟を歩くとダイナミックな歴史の躍動を学び直すことができる。 (2024.9)
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