湖東三山最後は、東近江市の「百濟寺」です。金剛輪寺から坂道を登っていき、約30分で着きました。百済寺のパンフを見ると、
百濟寺は、近江最古級の寺院。西暦606年(推古14年)に聖徳太子が「近江の仏教拠点」の一つとして建立されたと伝わる。仏教が半島の百済国経由で伝来したことから山号を
「釈迦山」、寺号を「百濟寺(ひゃくさいじ)」と称する。平安中期以後天台寺院として発展し、一千坊を擁したが、1573年4月、信長の焼討ちで壊滅的打撃を受けた。
1650年に広大な石垣遺構の中に本堂以下数棟が再建された。とくに寺社庭園として県下最大の「天下遠望の名園」内の散策と近江歴史舞台の眺望は、絶景です。
先ず庭園の方に向かいます。
素晴らしい紅葉です!
ハナノキ・・・・「その昔、聖徳太子が百済寺を建立したとき、仏教が繁栄していくなら、この木も栄えて花をつけるであろう、と誓って自ら食事の箸を各々の花沢村(北花沢村・南花沢村)に1本ずつ突き刺したところ、誓いの通り立派な木となった。」といわれています。百濟寺のハナノキは、その子孫です。
庭園から遠望台に向かいます。今日は山の方が少し霞んでいますので三上山がぼんやりしか見えません。
ルイス・フロイスが地上の天国と称した百濟寺ですが、戦国時代、織田信長によって焼打ちされました。百濟寺のHPを見ると、
織田信長の所業と聞けば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名であるが、釈迦山百済寺も天正元年(1573年)、信長に全域を焼き討ちされている。なぜ信長は百済寺を焼き討ちしたのか、そこには戦国乱世における武将たちとの因縁とも言える物語があった。
近江源氏と呼ばれた名門、佐々木一族の流れを組む六角氏は、百済寺を含む近江国南部の守護職として長く支配していた。百済寺では常々、六角氏を御館様と呼んで安泰祈願を行っている。百済寺の城塞化には、六角氏から重臣を派遣されるなど、六角氏と百済寺は鎌倉時代以来の親密な関係にあった。
一方、天下統一に向かう信長は、永禄十一年(1568年)に六角氏の居城、観音寺城を攻略するも、城主であった六角義賢、義治父子はすんでのところで脱出、逃げ延びることができた。この時、信長は百済寺に禁制を送っている。以下、現代訳。
一、 百済寺は以前からの寺法に従って、以前の通りに寺院の行事を行ってよろしい。臨時に百済寺に対して租税を課してはならない。
一、 百済寺領も以前からの通りである。なお、この地を治める武士は百済寺に人足を申し付けてはならない。
また、武士は山林の竹木を伐ってはならない。
一、 百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない。
信長の“祈願所”にするという一文は、明らかに百済寺を他の寺院とは別格に扱っている表れである。これは信長が全国を制した後、この地方に本拠地をつくり、百済寺を信仰の中心とする思いがあったと考えられ、経済力や文化力など、信長が注目する最も大きな力を持つ寺院が百済寺であったのである。
しかし、百済寺の側になると、今まで六角氏を御館様と呼んでいた事から信長の祈願所にされることには相当の抵抗があった。さらに寺中の長老や高僧には六角氏に属する豪族や地侍の子弟が数多くいる。
逃げ延びた六角氏は信長に反抗する浅井長政や本願寺一揆とも通じて徹底抗戦していた。信長は六角氏が籠城する城を佐久間盛信、蒲生賢秀、丹羽長秀、柴田勝家の四将によって包囲させ、この戦況を見るために自らの祈願寺とした百済寺に軍勢とともに入り、何のためらいもなく宿坊その他に宿泊して戦況を眺めている。しかし数日後、百済寺には六角氏の女子供がかくまわれていることを知った。さらに百済寺が六角氏に食糧を支援していた事実をも発見したのである。
信長の怒りは頂点に達した。
「全山ことごとく焼け山にしてしまえ。石垣は崩して安土に持ち帰るのだ」
そして、信長の軍勢により、中枢部300坊を加え総計1000坊とも言われる百済寺は全山焼土と化し、石垣は安土城の建造のために持ち去られたのであった。同じく麓で寺領鎮護する十禅師社(現日吉神社)も焼失した。
仁王門から本堂に向かいます。
もう少しいたかったのですが、帰りの新幹線の時間も迫っており、下山します。
参道入口には、露店があり、「松茸のフライ」「松茸ご飯」などがあります。特に松茸のフライは食べてみたかったです。
このあと、車を米原のレンタカー屋さんに返却し、米原から新快速で新大阪へ、新大阪から「のぞみ」で博多に帰ってきました。
琵琶湖徒歩の旅もあと1/3です。次回は桜が綺麗な頃に行ってみたいな~