コロナ前までは、毎月一回学友と集まって一杯やっていましたが、コロナで中止してからもう一年以上経ちます。
このうちの一人が日田出身で現在親の介護をするため日田に帰っています。
久しぶりに会ってみようと博多~日田(約80km)まで歩いてみようと思っています。博多~日田間は、高速を使えば1時間半ぐらいでいけますが、歩いてとなると4日間ぐらいかかるのでは
ないかと思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日田街道とは、江戸時代に博多・久留米・中津・熊本・別府の各地から日田に通じる街道の総称ですが、筑前を通る街道の中で日田街道は、長崎街道や薩摩街道と共に九州では目立って
往来が多い街道でした。
江戸幕府は、天領(幕府直接の支配地)であった日田を支配するために西国郡代を配置していました。当時は郡代をはじめ、長崎奉行など地方に派遣されていた幕府の役人は一年で
交替することになっていました。また、各地の領主である大名は、 1年おきに在府・在国する三勤交替の制度が設けられ、それに相まって全国の街道や宿場が整備されてきました。
筑前の日田街道は、博多から宰府・二日市・甘木などの宿を経て日田へ至る街道で、別名代官道とも称されていました。また、福岡城から雑餉隈に向かう街道もあったようです。
今回、旧博多駅の辻の口門から歩いてみたいと思います。
9:50出来町公園スタート
水道局を通り、御笠川沿いに歩きます。県道112号線から少し離れていますが、道幅が狭く、車が来ると避けながら歩きます。
マップを見ると、大野城市までは、歴史的なものがありません。
約4km地点の那珂公園で休憩。那珂公園では、もう藤の花が咲いていました。
途中民家のお花を見ながら歩きます。
都市高速との合流点に来ました。ふと、右を見ると、幼馴染の後輩君が勤務している会社です。もう20年ぐらい会っていませんので、仕事中とはいえ無礼を承知で会社の中に入りました。
20年ぶりの後輩君、若いころは、髪も多く、前髪を庇みたいに伸ばしていましたが、今はその面影もどこかにいってしまったみたいです。
板付に来ました。このあたりは、車屋さんが多い所です。
筑紫通りとの合流点を過ぎると、大野城市に入ります。
山田交差点の近くには、県有形文化財の「木造聖観音立像」があります。その先には、「雑餉隈(ざっしょのくま)恵比寿神社」です。
雑餉隈地区は、中世以降博多宿と二日市宿の中間に位置し、間の宿として旅籠や茶店、日用雑貨の商店が軒を並べて繁栄していた宿場町であった為、商売繁盛の神である恵比寿様と
防火の神であり、疫病の侵入を防ぐ塞神でもある愛宕様を宿場の鎮護の神として勧請しました。
【郡境界標】 西、那珂郡、東、御笠郡。南面、筒井村(現大野城市)抱、北面、井相田(いそうだ)抱(現福岡市)。実物は、保存の為大野城市歴史資料展示室に展示されているそうです。
那珂郡は、春日市全域、大野城市一部、那珂川市全域、博多区・南区・東区一部。御笠郡は、筑紫野市・太宰府市全域、大野城市大部分。
近くの民家では、もう芍薬が咲いていました。
錦町の信号から新川緑地に入ります。ここに「日田街道」の案内板がありました。
新川緑地は、黒田藩の年貢米を運ぶために二日市(現筑紫野市)から博多・川端まで運河を開いて舟運の便を図ろうと寛延2年(1749)工事を行い、寛延4年(1751)に竣工させ
浅舟を浮かべて運航を開始しましたが、水量が乏しく十数年で廃止されました。新川は、昭和の終わりごろには用水路になっていたのを埋め立てし遊歩道になりました。
【春日原停留所運動場道】案内板によると、この石碑は雑餉隈在住の草壁氏が現在の場所から春日原駅までの幅6m、延長300mの道路敷地と工事費を寄付し「春日原停留所道」が大正13年(1924)
5月に開通したことを記念して建てられたものです。かつて春日原駅西側には、野球場や陸上競技場などがあり、プロ野球「西鉄クリッパーズ」(西鉄ライオンズの前身⇒西武ライオンズ)が
試合に使っていました。
新川緑地から大野城まどかぴあ人信号から県道112号線に出ます。瓦田橋を渡り瓦田3丁目の信号を斜め右に渡ります。
【赤煉瓦の格納庫】大正末期に白木原に建てられた赤煉瓦(れんが)造りの第二部消防ポンプ格納庫が、平成10年7月に街路拡張に伴って現地へ移設されました。貴重な近代建築ということで、
市民の手によって解体され、当時の赤レンガを一部使用して建てられたものです。
この通りは、主要道路から少し離れているせいか、旧家が立ち並んでいます。
下大利橋を過ぎ、下大利小学校を通ります。小学校の先が太宰府市との境界です。太宰府市に入ると「日田街道」のプレートが道路に埋め込まれていました。
永田権平氏は、明治20年代から40年代まで旧水城村の村長を務められていました。
【水城址東門】 660年に唐・新羅に滅ぼされた百済国の復興救援のため、日本は派兵しますが、663年朝鮮半島西岸の白村江の戦いで唐・新羅に大敗しました。
この翌年、664年に築かれたのが「水城」です。歴史書『日本書紀』には、「筑紫に大堤を築いて水を貯えさせた。名づけて水城という」と記されます。
中国の「万里の長城」のような施設で、幅約60mの外濠と、長さ約1.2km・幅約80m・高さ約9mの二段に築かれた土塁(城壁)で構成されます。これが周辺地形と一体化し、
北東側は「大野城」と、南東側は「小水城」と呼ばれる数カ所の遮断施設とつながることで、内陸への侵入を防ぎました。その後、大宰府が整備され、水城はその外郭の守りとなります。
ここに設けられた東西2つの門は、大宰府へ出入りする人びとの出会いの場、別れの場となり、数々の物語が生まれました。(日本遺産大宰府より抜粋)
私が今、歩いているのが東門ルートです。
太宰師「大伴旅人」の歌碑。
大宰帥(だざいのそち)大伴旅人が、大納言に任じられて帰京する際、遊行女婦(うかれめ)児島と詠み交わした歌です。遊行女婦とは、酒宴の席で歌や舞を披露して接待する女性を指します。
都から大宰府へ赴任してきた旅人は滞在中に愛妻を亡くし、悲しみにくれます。望郷の念や、亡くした妻への思慕を多く詠み残した旅人にとって、児島の存在はどれほどの支えであったでしょうか。
【銘文】
凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも 娘子児島
(普通の身分の方であったなら袖を振ってお別れするものを、恐れ多いので、振りたい袖を我慢しています。)
ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ 大納言大伴卿
(涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか。)
二人の別れの場面で詠まれたこの歌は、旅人の出立が公的なものであり、周囲に官人がいるなかで、旅人と児島の間にある身分の隔たりが浮き彫りとなっている様子をうかがわせます。再びは逢えないかもしれないという、両者の悲しみが色濃く感じられるこの歌は『万葉集』巻6に収められています。(太宰府市ふれあい館HPより)
水城跡から旧道に進みます。
【姿見井】昌泰4(901)年1月25日、右大臣であった菅原道真は、太宰権師に任命され、、太宰府に来ることになりました。道真は水城の東門から大宰府に入り、この付近で着替えたと
伝えられています。その時、自分の姿を映した井戸(池)がこの井戸と伝えられ、のちに姿見井(姿見池)や鏡池と呼ばれるようになりました。
この付近の小字を衣掛といい、周辺には、衣掛天神や衣掛石など菅原道真にまつわる伝説が多く残されています。
【衣掛天満宮】
【刈萱の関跡】大宰府の警固のために置かれた関所の跡。室町時代の末まで残っていたが、戦国時代になって廃止された。今は裏通りとなっているが、この道筋は博多から九州各地へ、九州各地から博多へ通う大路だった。室町時代に大宰府を訪れた連歌師飯尾宗祗は「筑紫道記」の中で1410年にこの関所を通過した際、「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて我が行く末をあやしげに見るもおそろし」と書き記している。「苅萱道心と石童丸」伝説のゆかりの地としても有名。現在の地名、関屋にかつての名残を見る。(クロスロードふくおかより)
浄瑠璃や歌舞伎の題目で有名な「刈萱道心と石堂丸」のあらすじは、こちらです。萬盛堂歳時記vol.52 (ishimura.co.jp)
【蜂子地蔵尊】
太宰府天満宮一の鳥居に来ました。鳥居を真っすぐ進むと天満宮です。日田街道は、ここから右折し、関屋橋を渡ります。
鳥居の所には、常夜灯や道標などの石碑が建っています。
鳥居の手前から右折します。すぐ先には、西鉄都府楼前駅です。本当は、朝倉街道まで歩きたかったのですが、今日は16時から私用がありますので今回はここまでとします。
電車代:西鉄都府楼前駅~西鉄福岡駅 @360
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます