7/30(木) 今日、九州北部の梅雨明けが宣言されました。例年ですと、7/15ごろが梅雨明けですけど、今年は梅雨が長かった・・・・
7月初旬には熊本・球磨川、福岡・筑後川の氾濫など線状降水帯の発生が目立っています。やはり地球温暖化の影響でしょうか?
さて、本題に戻ります。今日は、佐賀のウォーキングステーションで佐賀のイヤーラウンド10kmを歩きました。
マップは、ネットで取り寄せましたが、文字が小さくて老眼鏡をつけて歩きます。
9:05 佐賀駅前のウォーキングステーションのコイケスポーツ店をスタート。
佐賀市の中央大通り沿いの1,5kmには佐賀県ゆかりの偉人25人の等身大の像が設置されています。これは、2018年(平成30年)大河ドラマ「西郷どん」にあわせ開かれた
「肥前さが幕末維新博覧会」に合わせたものです。
中村梧竹・・・・明治時代の書家。明治三筆の一人(佐賀県小城市出身)
志田林三郎・・・物理学者、電気工学者(佐賀県多久市出身)
黒田チカ・・・・日本最初の女性化学者(佐賀市出身)
辰野金吾・・・・日本の建築家。東京駅設計で有名(佐賀県唐津市出身)
曽禰達蔵・・・・同郷の辰野と共にジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家第一期生。慶応図書館、明治屋京橋ビルなど。(佐賀県唐津市出身)
佐賀ゆかりの25偉人に見とれているとちょっと道を間違えたようです。
佐賀市内には、恵比寿さんが800体ぐらいあるそうです。このイヤーラウンドの別のタイトルも「幸せを呼ぶエビスさん探索コース」になっています。
このコースではいくつ恵比寿さんが見つけられるでしょうか?
佐賀市にエビスさんが多いわけを「佐賀エビスHP」より引用しました。それによると
お殿様が恵比須さんを祀って、それが住民に広がった説
佐賀のお殿様(鍋島藩主)が兵庫県の西宮神社から恵比須像を譲り受け、佐賀(北川副)で祀りました。そんなお殿様を見て、住民も恵比須を自宅に祀り、
「家内安全」「商売繁盛」を祈るようになったという説。
海運業が盛んな佐賀城下町だったので、関係者が海の神様として恵比須を祀った説
佐賀城下は水路を利用した海運業が栄えた土地です。そこで海運業者が漁業の豊漁や商売繁盛を願って恵比須さんを祀っていったことで、恵比須が多くなっていったいう説。
重要な道「長崎街道」沿いで、旅の安全を祈願する神様として恵比須を祀った説
佐賀には長崎から江戸へと異国の文化、人、ものが行きかう「長崎街道」があり、その街道沿いで旅人の安全を祈願し、また街道沿いのお店の商売繁盛を祈願するための神様として
恵比須さんを祀ったという説。
石の大工が多かったので恵比須像が広がった説
佐賀には牛津などに石の大工が多くいました。石の大工が近くに沢山いましたので、まちの人が恵比須像を欲しいと思ったときに、恵比須像を簡単に注文できる環境が整っていましたので、
恵比須像が広まったという説。
コースは、長崎街道を歩きます。このコースは、春の佐賀城下ひな祭りで何回も歩いています。旧古賀邸には古いお雛様が展示されます。
長崎街道に面する畳屋さんを右折。畳屋さんにも恵比寿さんがあります。
佐賀七賢人の一人「大隈重信記念館」です。大隈重信は、政治家で早稲田大学創立者としても知られています。この記念館は1967年(昭和42)、大隈公生誕125年を記念して造られました。
佐賀城址前に建つ「鍋島直正公」の銅像。佐賀七賢人の一人。ニッポニカによれば、幕末の佐賀藩主。幼名貞丸、初め斉正(なりまさ)。維新後直正と改名し、閑叟(かんそう)と号した。
1830年(天保1)父斉直(なりなお)から家督を継いだが、前代の放漫財政によって藩財政は破綻(はたん)寸前であった。古賀穀堂(こがこくどう)らの改革派を側近に置き、
藩校弘道館(こうどうかん)出身の人材を登用して人事を刷新し、天保(てんぽう)の改革を行った。均田制を施行して本百姓(ほんびゃくしょう)維持政策をとり、国産方を設置し、
陶器、櫨蝋(はぜろう)、紙の開発や石炭の増産を行い、財政を立て直した。また、佐賀藩は長崎警備の任にあり、直正自身しばしば長崎に赴き、外国警備の重要性、西洋技術の優秀性を
認めていたため、早くから洋式軍制改革を実施した。1852年(嘉永5)わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた。
また蘭学(らんがく)を奨励し、種痘(しゅとう)を施行し、幕末に薩長土肥と通称される雄藩の実力を養った。藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して
慎重であり、直正は1860年(万延1)の幕府の召命を固辞し、翌1861年(文久1)隠退して二男直大(なおひろ)に家督を譲った。その後も招きによって再三上京したが政争への参加には
慎重であった。戊辰(ぼしん)戦争では、強力な軍事力によって官軍に重きをなし、大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)ら藩の実力者を新政府に送り込み、
自らも議定につき、軍防事務局輔(すけ)、ついで制度事務局輔を兼任した。その後、上局議長、蝦夷(えぞ)開拓督務、開拓使長官を務め、大納言(だいなごん)に任ぜられた。
明治4年(1871年)1月18日没
佐賀城址鯱の門扉には、明治7年(1874)佐賀の乱の銃撃戦の砲弾の跡が今でも残っています。
佐賀城本丸歴史館には、カノン砲、アームストロング砲、モルチール砲が展示されています。
佐賀城天守跡を通り、彫刻の森に向かいます。彫刻の森は、彫刻家「古賀忠雄氏」の代表的な作品を県立博物館、美術館周辺の野外に展示されています。
木陰もあり市民の散歩道になっています。
佐賀七賢人の一人「島 義勇(よしたか)」は、文政5年(1822)9月12日生まれ。枝吉神陽,副島種臣の従兄弟。肥前佐賀藩士。安政3年(1856)藩命により蝦夷(えぞ)地(北海道),
樺太(からふと)を視察。北海道開拓の父と呼ばれる。戊辰(ぼしん)戦争には大総督府軍監として従軍。維新後,開拓使判官,秋田県権令などをつとめたが,政府と対立し辞職。
江藤新平とともに佐賀の乱の指導者となり,明治7年(1874)4月13日処刑された。53歳。
与賀神社の楼門は、国重要文化財です。
与賀神社参道を通ります。マップには「タナジ」と書いてあります。タナジってなんだろう?
調べてみると、佐賀市内には水路が縦横無尽に走っており、タナジ(棚路)とは、石階段(水路に平行した階段)を使って水面に下る施設で生活用水の取水に利用されていたそうです。
水路には、メダカが泳いでいました。
肥後ビードロとは、佐賀市重要無形文化財に指定されている手作り宙吹きガラス食器です。藩主直正公が、嘉永5年(1852)精錬方(今でいう理化学研究所)を設置したことが始まりです。
精錬方は、元々生活必需品(金魚鉢、薬瓶など)や学術研究所の為に必要な道具を作った場所で、当時は珍しいガラス窯が築かれ、主に科学実験用の為のビーカーやフラスコが作られ、
その後開国。明治維新に入りランプや食器を作るようになりました。精錬方は、精錬所という民間会社になり、明治36年(1903)独立した副島源一郎が副島硝子工業を創業しました。
道祖宮の方から長崎街道に向かいましたが、どうも道を間違えているみたいです。本来のルートは、道祖宮の先の昭栄中学から長崎街道に戻ってこなくてはいけませんでした。
佐賀・伊勢神社です。伊勢神社は、慶長10年(1605)鍋島氏より城下が建設された際、蛎久地区にあった伊勢皇大神宮の分霊を勧請してこの地に創建されました。
藩祖鍋島直茂ご夫妻の信仰が篤かったほか、信仰圏は広く、藩領以外の大村、平戸、五島、壱岐、対馬などからも季節ごとに参拝が続けられました。
伊勢皇大神宮の分霊を勧請した社は全国でここ1か所で「九州のお伊勢さん」とも称されています。
中央橋交差点に戻ってきました。ここから佐賀駅までは一本道です。佐賀駅前の信号にも佐賀藩で活躍された方の像があります。
田澤 義鋪・・・・大正期から昭和初期の社会教育家、政治家、思想家。「青年団の父」と称されました。(佐賀県鹿島市出身)
下村湖人・・・・小説家。「次郎物語」の著者。(佐賀県神埼市出身)
古賀穀堂・・・・江戸時代後期の朱子学者、佐賀藩年寄。(佐賀市出身)
鍋島茂義・・・・武雄鍋島氏9代当主。
副島種臣・・・・佐賀七賢人の一人。枝吉神陽の弟。副島家の養子。明治新政府の参与、外務卿を務める。征韓論に敗れて下野。(佐賀市出身)
江藤新平・・・・佐賀七賢人の一人。佐賀藩を脱藩して尊王攘夷運動に参加。維新後は、司法卿として司法制度の確立に尽力。征韓論を唱える西郷隆盛に同調したが、敗れて下野。
佐賀の乱を起こし敗れて刑死。
大木喬任・・・・佐賀七賢人の一人。明治新政府に仕え、東京遷都を建議し実現させる。東京府知事。(佐賀市出身)
枝吉神陽・・・・江戸の昌平黌で学び、帰藩して藩校弘道館教諭。副島種臣の兄。(佐賀市出身)
佐野常民・・・・佐賀七賢人の一人。政治家、日本赤十字社創始者。(佐賀市出身)
12:00 ウォーキングステーションのコイケスポーツにゴール。約3時間のウォーキングでした。
今日から梅雨明けですが、それにしても暑かったです。
今日のGPS
こちらでもコロナ感染者が多くなってきています。いつどこでうつるかわからないようなご時世ですね。つい一ヶ月前から日記を書いています。その日誰と会ったかなど克明に記しています。