ふくおかウォーキング協会の1月度例会は、「筥崎宮・十日恵比寿神社を訪ねて」でした。
集合場所は、JR千早駅。
「千早」という地名は、近くに香椎宮があるので、一説によると、新古今和歌集におさめられている「ちはやふる 香椎の宮の綾杉は 神の禊に たてるなりけり」からか?
参加者は、41名。コースは、千早駅スタート~多々良川緑地~松崎公園~筥崎宮~崇福寺~十日恵比寿神社~JR吉塚駅ゴールの約10km。
9:30スタート
千早陸橋のモニュメント・・・・昭和35年に完成した千早陸橋は、三角形の橋桁が特徴的な約500メートルの陸橋でした。
千早と若宮方面を結ぶ生活に欠かせない陸橋でしたが、同区画整理事業に伴い、平成16年に撤去されました。
現在は、千早中央公園(千早四丁目)に、陸橋の一部を活用したモニュメントが残っています。
西鉄名島駅から名島橋踏切を渡ります。
名島橋踏切から多々良川緑道に向かいます。
途中、細川幽斎(忠孝)(1534~1610)の歌碑があります。「いにしへは ここに鋳物師の跡とめて 今もふるみる たたら潟かな」
たたら潟は、広漠たる入江で、川砂から砂鉄が採取され古くから大陸渡来の鋳物工が住みつき、鋳物を造っていたと伝えられています。
また、多々良浜の戦いがあった所です。延元1=建武3 (1336) 年3月2日の足利尊氏と菊池武敏との筑前多々良浜での合戦。同年1月京都で敗れた尊氏は九州に入り,少弐頼尚ら守護層に
迎えられ,九州最大の後醍醐党で優勢な菊池氏を破った。ここで尊氏は再挙し,一色範氏を鎮西大将軍 (九州探題の前身) として残し,東上した。 (→南北朝時代 )
現在多々良浜の戦いの碑は、流通センター入口にあります。
松崎公園で休憩
休憩後再スタート。流通センター入口には、「多々良浜の戦い」の碑があります。
箱崎駅から筥崎宮へ
宇佐神宮、石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮のひとつに数えられる福岡市に鎮座する古社が筥崎宮(はこざきぐう)。平安時代初期の延喜21年(921年)、醍醐天皇が神託により
大陸・玄海灘に面した地に、国家鎮護のため壮麗な社殿を建立。延長元年(923年)に現社地に遷座しています。延喜式神名帳にも名神大社と記載され、筑前国一之宮になっています。
また、勝負の神様ということで境内には、プロ野球福岡ソフトバンクホークスやJ1アビスパ福岡などの絵馬が置かれています。
馬出(まいだし)小学校の所に、「旧市立動物園の門」があります。
昭和8年(1933)に開園し、この門は当時の正門として使われていました。園内には、象、ライオン、熊、オットセイなどの獣類65種、鳥類124種、植物100種あまりが収容、
展示され、福岡市の名所として子供たちに親しまれていました。太平洋戦争の激化とともに入園者は減少し、飼料も入手困難になり、更に空襲による獣舎の破壊も予想され、
昭和19年(1944)5月ついに閉園になりました。
黒田家の菩提寺「崇福寺」で仮ゴール。
会員さんと別れ、個人で十日恵比寿神社に向かいます。
十日恵比寿神社は、祭神が事代主命(恵比寿神)・大国主命(大黒様)をお祀りし縁結び、商売繁盛にご利益があるとされています。
社伝によれば、「香椎宮大宮司家の武内五右衛門(平十郎)は分家して「神屋」と号して博多で商売を営んでいたが、天正19年(1591年)1月3日、香椎宮・筥崎宮を参拝したとき、
香椎浜に流れついた恵比須神の神像2体を得た。それを自宅に持ち帰って祀ったところ家運が隆盛。翌年の文禄元年(1592年)1月10日、平十郎が神像を拾い上げた場所に社殿を設けた。
そののち元和元年(1681年)11月15日、四代目平十郎が創建90年にあたって千代の崇福寺境内に社殿を再建する。」
正月大祭は、1/8~1/11まででこの日(1/7)は、明日からの大祭に備え露店の準備が行われていました。
この日のGPSです。