よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長野旅行記その2「上高地」へ

2018-05-02 15:31:40 | ウォーキング

4/26(木)天気は快晴です。ホテルでの朝食を軽く済ませ、松本駅から松本電鉄8:00発の新島々行に乗車。

新島々からバスで上高地へ。9:38 上高地大正池に到着。ここから明神池まで歩きます。

   

 

大正池は1915(大正4)年6月6日の午前に突然あらわれた池です。焼岳が大噴火をおこし、その際に噴出した多量の泥流により梓川がせき止められてできました。

水没した林は幻想的な立ち枯れとなり、神秘の景観をもたらしています。大正池はできた当時、梓湖と呼ばれたこともありますが、大正年間にできたことから今の名称が定着しました。

  

 

大正池から河童橋まで遊歩道を歩いていきます。今日は、平日ですが、外国の方のツアー客でいっぱいです。

 

 焼岳は、長野県と岐阜県にまたがる活火山で、標高2455m、別名硫黄岳、約2300年前のマグマ噴火により、現在のような山体となりました。最近では、昭和37年(1962)6月に

水蒸気爆発があり、泥流が大正池まで押し寄せました。

 

田代池と湿原・・・原生林のなかに、ぽっかりあいた草原に広がる湿原の浅い池。池のなかには幾つかの島々があり、まるで水田のように明るく穏やかな風景があります。「田代」とは水田のこと、

水田のような湿原という意味でしょうか。田代池の四季は美しく、夏はイチョウバイカモや周辺のニッコウキスゲ、コケモモが箱庭のような美しい景観を見せてくれます。

5月の新緑、10月の黄葉、晩秋の霧氷もおすすめの光景です。 (上高地HPより)

  

  

 

 

   

河童橋に着きました。上高地の中心にあってシンボル的存在ともいえる河童橋は、上高地バスターミナルから徒歩5分の場所にあります。その橋上から望む穂高連峰や焼岳、梓川の水面、

緑に萌えるケショウヤナギの風景は、訪れる人の心をとらえてやみません。5月連休や夏季、紅葉の季節には旅人が多く訪れ、河童橋付近は「上高地銀座」とも呼ばれるほどにぎわいます。

1927(昭和2)年、作家・芥川龍之介もまた小説『河童』に河童橋を登場させています。その数年前に氏は北アルプスを登山し上高地に遊んでいます。時を数年経てなお氏の心に訴えるなにかを、

河童橋は持っていたに違いありません。 (上高地HPより)

  

  

外国のツアー客の方は、この河童橋までです。私たちは、これから明神池を目指して歩きます。明神池まで約3,5km。

途中雪がありましたので、計ってみたら50~60cmぐらいは、あります。

途中帰ってくる方から「猿」が数匹この先の方に居るという情報を得ました。どうしたらいいか聞くと、目を合わさないことだそうです。

  

穂高奥宮の100mぐらい手前に「猿」がいました。私たちが通った時は、1匹でした。猿は、私たちを見ると、林の方に逃げていきました。

  

穂高神社の由緒を見てみると、穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。そしてその奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地に祀られており、

嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られています。穂高見命は海神族 (かいしんぞく)の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)であります安曇族は、

もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。(穂高神社HPより)

安曇一族???  安曇一族というと、私が住んでいる福岡市の東区志賀島志賀島海神社と関係しています。 志賀海神社は、綿津見三神をお祀りしています。

また、邪馬台国に出てくる金印が発見された所でもあります。海の神様が、どうして海のない信州に行かれたのでしょうか?  ミステリーですね。

「安曇族」は、もともとは北九州に栄えた古代王朝の海人族だった。やがて北九州政権が畿内の大和政権と結びついたとき、摂津国西成郡(大阪市)に本拠を移したらしく、

そこはのちに安曇江という地名となった。そして、ここを拠点として、今度は全国の海人達を統括したとみられている。「安曇族」は多くの地名を残した。

長野県の安曇野、滋賀県の安曇川など、各地に「アヅミ」関係の地名が残っている。

 7世紀になると、「安曇族」は外交分野で活躍した。というのも、海産物を朝廷に納めていた安曇族は、有事の際には水軍に徴用されたからだ。やがて、

その航海技術を生かして外交にも乗り出すようになった。中でも百済との交渉にあたった阿曇比羅夫が有名。

 奈良時代になると、今度は天皇家の食事全般を担当する内膳司を高橋氏とともにつとめたが、やがて失脚して歴史の表舞台からは消え去った。

 しかし、「あずみ」や「あつみ」と読む地名が各地にあるほか、「安住」さんや「安積」さんなど、安曇族の末裔と見られる名字も多い。(日本実業出版社から抜粋)

参考:志賀海神社HP http://www.shikaumi-jinja.jp/ 

 

  

 穂高奥院の手前には、「嘉門次小屋」があります。正式な名前は、上條嘉門次。明治大正期の山案内人。日本アルプスの開拓者。信濃国(長野県)安曇村生まれ。安政の大獄(1858)の年,

12歳で父と上高地に入山,明神池の間口4.5m,奥行き3.6mの嘉門次小屋を拠点に猟師,釣り師として過ごす。また内外の登山者や学者を槍・穂高連峰に案内し,

「剛勇,冷静,親切,善良,礼節,一徹」などと評される。日本アルプスの海外への紹介者ウェストンとの前穂高岳登山(1893),鵜殿正雄との穂高・槍初縦走(1909)などが近代登山の幕開けとなった。

大正6(1917)年,71歳で藤山愛一郎(のち外相)らと穂高を縦走したのが最後の登山だった。「山は猫のように歩け。石ひとつ落とすな」が口癖で,生涯無事故登山を貫いた。

昭和34(1959)年,明神池に記念碑が建ち,嘉門次小屋は今も曾孫の輝夫の手で守られている。(朝日日本歴史人物事典より)

  

明神池 散策するには、20分ぐらいかかりますが、、帰りのバスの予約をしていますのでここは、パスします。

  

明神池から河童橋までは、対岸を歩きます。対岸側からは、また違った光景が見えてきます。

  

  

  

黄色のカエルがいました。これは、アズマヒキガエルです。

  

河童橋に戻ってきました。やはりここからの景色が一番のビューポイントですね。

 

上高地バスセンター14:30発で松本に戻りました。