よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長野旅行記その3『長野善光寺~川中島古戦場跡~諏訪湖~飯田』

2018-05-04 16:57:37 | ウォーキング

4/27(金)前日とは異なり、曇り空。雨は降らないと思います。

8時前ホテルをチェックアウトし、予約していたレンタカー屋さんに向かいます。向かう途中、画家の草間弥生さんの水玉の幟が立っていました。

何と、草間さんは、松本市の御出身です。現在松本市美術館で「草間弥生展」が開かれています。

また、昨日立ち寄ったお菓子屋さんでは、「いわさきちひろ」さんの絵がパッケージになっていました。いわさきちひろさんのお母さんが松本市の御出身だそうです。

レンタカーで松本ICから長野ICを目指します。高速に入ると左側に北アルプスの姿が見えてきました。すぐ先の梓川PAで車を止め、しばし北アルプスを眺めてみます。

常念岳、燕岳、槍ヶ岳・・・・・・・聞いたことのある山々が並んでいます。山登りは、低山部しかしませんが、いやぁ、素晴らしい光景ですね。

   

  

約1時間で「善光寺」に到着。

    

善光寺は、長野市元善町にある単立の寺。近世以来天台宗の大勧進(だいかんじん)と浄土宗の大本願(だいほんがん)が寺務を執行。創建については諸説あるが,

欽明天皇の時に百済の聖明王が献じた阿弥陀三尊仏(本尊,重要文化財)を,602年難波(なにわ)から信濃に移して開創,641年堂宇を建立したと伝える。古くから宗派を越えて信仰を集め,

浄土教の庶民化に伴い急速に発展した。現存の国宝の本堂は元禄年間(1688年―1704年)の建立で,礼堂,外陣,内陣,内々陣をもつ奥行の深い重層の大建築。

平面がT字形なので撞木(しゅもく)造と呼ばれる。ほか山門・経蔵・釈迦堂などの重要文化財がある。寺内には塔頭(たっちゅう)が多く,衆徒・中衆・妻戸の3種に分かれる。

  

 

どっしりと優美な構えを見せる二層入母屋造りの山門(三門)は、江戸時代中期の建築。鳩が5羽描かれている「善光寺」の鳩字の額が掲げられ、「善」の字が牛の顔に見えるともいわれます。

よく見てみると、善光寺の「善」に2羽、「光」に2羽、「寺」に1羽が見えます。更に、「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」を表しているとされます。

牛に引かれて善光寺参り」というのは、善光寺に伝わる昔話で、昔、信濃国小諸にケチで性根の悪いおばあさんが住んでいた。 ある日、川で布を洗濯して軒先で乾かしていたところ、

一頭の牛が現れて角で布を引っかけ走り出した。おばあさんはその牛を追いかけ、なんと善光寺まで来てしまったという。

日が暮れて牛が入っていったお堂におばあさんも入ってみると、光明に照らされて、牛のよだれが「牛とのみ思いすごすな仏の道に 汝を導く己の心を」と読めた。するとおばあさんの心に

仏の心が芽生え、すっかり信心深い人間に生まれ変わってしまった。 後日、近くの観音堂を詣でると、堂内の観音様に牛にさらわれた布がかけてあった。それを見たおばあさんは、

牛と思ったのはじつは仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深めて往生を遂げた。 この仏様こそが実は小諸の布引観音だったという。

意味は、思いがけず、他人に連れられて想像していない場所に着くこと。他人の誘いなどで良い方向に導かれるというたとえです。

善光寺の御朱印は、左が本堂、右が御詠歌です。

    

  

善光寺を出て、一般道を走っていると、左側に「川中島古戦場跡」があります。

「川中島の戦い」とは、信濃北部で繰り広げられた越後・上杉謙信、甲斐・武田信玄、そして北信濃の人々を軸とした戦いの総称。通説では、天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの

12年間に5度の戦いが行われたといわれている。5度の戦いの中で、第4次とされる永禄4年9月10日の戦いは、千曲川と犀川に挟まれた川中島一帯で行われ、信玄・謙信の一騎打ちなど、

多くの伝説を残した激戦であった。(長野市観光振興課パンフより)

  

  

「川中島」というと、私が小学生時代、運動会のメインイベントで「川中島」という騎馬戦がありました。調べてみると運動会の騎馬戦を「川中島」というのは、福岡県内だそうです。

男子だけの競技でしたが、信玄側、謙信側の二手に分かれ、それぞれ歌を歌って入場します。競技は今の帽子をとるというやり方でなく、倒して勝負を決めるというやり方でした。

この川中島の歌は、もう忘れましたが、信玄側、謙信側それぞれ交互にうたっていたと記憶しています。

余談ですが、福岡県内の小学校の運動会では、「全体とまれ」→ →「1,2,3,4,5」と言って止まります。また、「休め」→ →「ヤアー」と言って座ります。これは、今も変わっていないと思います。

  

首塚】 永禄4年の合戦の後、武田方の海津城代高坂弾正が一帯に散乱する戦死者の遺体を敵味方の区別なく手厚く葬った塚とされる。これを知った謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む

武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが、乱世に咲いた美学と褒めたたえられ、

敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。

田中月亀翁父子歌碑】田中月亀翁は、本名亀太郎。松代藩主真田幸教に仕え、学問に熱心で歌道に長じ、その子亀作も亀守と号し、風雅の道で知られていた。

子の歌碑は、田中父子の和歌をしるしたもので表の和歌は、川中島の大激戦の様子を偲び、裏の和歌は、大合戦の終わった後のこの八幡原一帯をうたったものです。

<表> 「跡しのぶ 川中島の朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ 」  月廼亀麿

<裏> 「月影の入にし後も ほととぎす ひとこえ残す 小島田の里 」   月廼亀守   

三太刀七太刀之跡の碑】永禄4年の合戦の折、上杉謙信が単騎武田信玄本陣に切り込み、馬上から信玄目がけて三度にわたり斬りつけた。信玄はその太刀を軍配団扇で受け止めた。

軍配には、七箇所の刀傷が残っていたと伝えられる。

  

芭蕉句碑】 “十六夜(いざよい)も また更科の 郡かな”   (句意)十五夜は更科の里で姨捨の名月を見た。十六夜の今日もまだ去りがたく更科の郡のうちに留まっている。

執念の石】 信玄の助けに入った武田軍家臣・原大隅守が謙信を取り逃がした悔しさに、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる穴がある。

逆槐(さかさえんじゅ)】 伝承では、この八幡宮に信玄が本陣を構えた際、土塁の地固めに逆さに挿した槐がそのまま根付いて成長したものと伝えられる。(以上長野県観光振興課パンフより抜粋)

   

川中島古戦場跡を出ようとすると、FBのお友達「諏訪のアリババ」さんから「諏訪大社下宮秋宮で待っている」という連絡が入り、電話で時間を打ち合わせして諏訪大社に向かいました。

13時少し前に諏訪大社下社秋宮に到着。駐車場で探していると、「諏訪のアリババさん」とお会いできました。アリババさんの案内で諏訪大社へ。

諏訪大社は信濃国一の宮、分社に摂社、末社を加えると一万社を超えます。お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、諏訪湖を挟んで南に上社、北に下社があります。更に上社は、本宮(諏訪市)、

前宮(茅野市)、下社は、春宮、秋宮(下諏訪町)に分かれて鎮座しています。御祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)

です。その源は、狩猟時代にあるといわれているが、現在地に形作られたのは6世紀頃です。

諏訪大神は、武勇の神、武門武将の守護神として信仰され、古くは、神功皇后の三韓出兵、平安時代には、関東第一大軍神として、鎌倉以降は、源頼朝を始め、北条氏一門、足利尊氏、

武田信玄、徳川家康以下歴代将軍その他諸国の大名たちが武運の長久と国家の安泰を祈願しています。また、広くは雨・風の守り神で五穀の豊穣を祈りました。

  

 神楽殿の狛犬は、高さ1,7mもあるそうです。

  

諏訪大社で有名なお祭りが「御柱祭」。7年に一度、山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で

4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭である。この御柱祭りは7年目ごとに行われ、柱を更新する。氏子は、木遣りや喇叭に合わせて曳行する。

近年では、平成28年(2016)に行われました。その時の御柱が下記です。

    

諏訪大社を出ると、そこは、中山道、甲州街道(甲州道中)の分岐点になっています。甲州街道は、五街道の一つで、下諏訪から甲府を経て江戸日本橋までの53里(約210km)の区間です。

 

 

問屋場の隣には、明治6年(1873)創業の塩羊羹の新鶴本店があります。試食でいただくと、後になって甘さが出てくるような大変おいしい羊羹でした。

私達九州人としては、子供の頃、小城羊羹ばかり食べていましたので何だか新鮮な甘さを感じました。

   

このあと、アリババさんの案内で諏訪湖に行ってみました。諏訪盆地の真ん中に位置する諏訪湖は、海抜759m、湖周15,9km、面積13,3k㎥。長野県最大の湖です。

諏訪湖の山と山の間からうっすらとですが、富士山が見えます。カメラで撮ったのですが、映っていません。アップして撮ってみると、富士山らしい姿が見えます。

  

 別の場所のビューポイントからは、こちらもうっすらと見えました。天気が良ければこのような光景が見れたのでしょうね。

  

アリババさんとは、ここでお別れです。私達は、ここから高速道で飯田まで行きますが、伊那北ICまでの道を教えていただきました。岡谷ICに戻るよりは、早く着いたようです。

アリババさん、いろいろお世話になり有難うございました。

  

 飯田市内に入ったのが16:40。レンタカーを返却し、今日の宿に直行しました。今日の走行距離約300kmでした。

明日からは、「飯田やまびこマーチ」です。早めに就寝し明日に備えます。