よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

敦賀の町を歩いてみました。(福井県敦賀市)

2018-05-24 15:28:21 | ウォーキング

5/19 若狭・三方五湖を歩いた後、敦賀に戻り町を散策しました。

現在福井県では、南条郡から北を「嶺北地方」敦賀市から西を「嶺南地方」と呼んでいます。

この境界は、ほぼ山中峠~木の芽峠~栃ノ木峠を結ぶ稜線になり、北国街道の要衝だった木の芽峠(木嶺)を境に北部を木嶺北部、南部を木嶺南部と呼んでいたことに由来し、

いつしか省略され、嶺北、嶺南と呼ぶようになりました。文化圏は、北陸地方、中部地方になりますが、一部近畿地方に含まれる所もあります。

この「嶺南地方」の敦賀ですが、崇神天皇の時代に朝鮮半島から「都怒我阿羅斬等」(つぬがあらしと)がこの地に渡来したことで「角鹿」と呼ばれるようになり、和銅6年(713)

「敦賀」という字に改められました。(角川日本地名大辞典より)

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敦賀駅から歩いていると「松本零士」の宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999のモニュメントが建っています。あれっ、松本零士さんは、福岡・北九州の出身だったのですが・・・・・

敦賀は全国有数の鉄道と港のまち。明治時代に日本海側初の蒸気機関車が敦賀を走り始め、また、東京の新橋駅と敦賀の金ケ崎(かねがさき)駅を結ぶ欧亜国際連絡列車が運行。

ロシアのウラジオストクまでの直通定期船により、大陸に最も近い場所として栄えてきました。

そして平成11年(1999)に、敦賀港は開港100周年を迎え、開港を記念し、当時の敦賀市のイメージであった「科学都市」と歴史を引き継いだ「港」と「鉄道」に将来ビジョンを重ね合わせ、

『銀河鉄道999』と『宇宙戦艦ヤマト』の像を設置することになったそうです。

 

 

    

  

松本零士のモニュメントを見ながら、「気比(けひ)神宮」に着きました。

気比神宮の大鳥居は、高さ36尺(10,9m)、柱間24尺(7,2m)で広島の厳島神社、奈良の春日大社と並び、日本三大鳥居の一つです。

 

  

気比神社の御祭神は、

伊奢沙別命(いざさわけのみこと)    ※衣食住・海上安全・農漁業・交通安全
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)     ※無病息災・延命長寿・武運長久
神功皇后(じんぐうこうごう)      ※安産・農漁業・海上安全・無病息災・延命長寿・武運長久・音楽舞踊
応神天皇(おうじんてんのう)      ※海上安全・農漁業・無病息災・延命長寿・武運長久
日本武尊(やまとたけるのみこと)    ※武運長久・無病息災・延命長寿
玉姫命(たまひめのみこと)       ※音楽舞踊
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)※延命長寿・無病息災・武運長久

主祭神 伊奢沙別命は御食津大神(みけつおおかみ)とも称し食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められている。

神功皇后、応神天皇はまた漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願が行われ、現に農漁海運業者の崇信が極めて篤い。神功皇后は安産の神として霊験あらたかである。

仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神である。(気比神宮HPより)

境内を歩きましたが、広い敷地です。この日は平日でしかも夕方でしたので参拝客が少なかったけど、お正月なんかすごい人出でしょうね。

   

気比神宮から博物館の方に行くと「大和田荘七」の銅像があります。

北前船の船主大和田荘七は、敦賀旭町(現相生町)の薬種商「山本九郎左衛門」の二男として、安政4年(1857)2月11日に生まれ、幼名を亀次郎といい9人兄弟の末っ子であった。

幼少のころは勉強には背を向けていたが、あるとき学問の大切なことを諭され心機一転学に志し、17歳のとき開校したばかりの就将校に入学、8年の課程を1年半で修了した。

特に数学は指導にあたった教師の影響によって、特別に興味を持ち秀でた才能を発揮し、上京して数学の奥義を極め学者になりたいと希望を抱くようになった。

かねて彼の才能を見込んでいた初代大和田荘七が、どうしても養子に欲しいと日参して口説き落とし、明治11年(1878)に大和田家の養子に入った。...

彼の活躍についてはいまさら取り立てて述べる必要はないが、敦賀港の基盤確立とこれに関連する事業を私財を投入してまでも推進したことは余りにも有名で、知らない人はいないだろう。

彼は貿易・金融ばかりではなく町づくり・社会奉仕・災害救恤・荒廃防止植林事業等はもとより、教育の推進にも大きな貢献をしていることを忘れてはならない。

最初の教育との関わりは、明治24年(1891)1月に喜多村作平・打它弁次郎の二氏とともに小学校委員に就任したのが最初である。

以後永年にわたって敦賀の教育振興ばかりに留まらず、県内外の教育振興に再三にわたって私財を寄贈している。

敦賀においては校舎の建設に多額の寄付を惜しまず、またピアノがない小学校には購入寄贈し、市立敦賀文庫の開設にあたっては多数の図書の購入に協力している。

町立敦賀商業学校の商議員としては「ロシア語」教育の導入を提唱し、さらに文部省に敦賀商業学校の高等商業学校への昇格を働きかける一方、ロシア語を中心とする「外語学校」の新設を

要請するなど、敦賀の将来展望にたった教育の推進に努めた。

敦商の高商昇格や外語学校の新設は実らなかったが、大正7年(1918)4月には県立移管を実現し、同時に中等学校卒業程度の学力を有する者を対象とする「日露貿易専修科」の加設と、

校舎内に「対露貿易商品館」の開設実現に活躍した。さらには幼児教育の重要性にも着目し、大正5年(1916)2月早翠幼稚園の設立に必要な敷地と建設資金を提供した。

また、大正15年(1926)8月には敦賀託児所にも敷地の永久無償貸与を行い、開所資金も提供している。

こうして敦賀の発展のため活躍してきた彼も、晩年は別府に住居を移し、昭和22年(1947)1月30日90歳で永眠した。

彼の敦賀市民に残してくれた偉業と功績を讃え、市立博物館に石像が建てられている。(敦賀市教育史より)

彼が設立した「大和田銀行」は、1945年(昭和20年)三和銀行(現三菱UFJ銀行)に吸収合併された。

尚、子孫には、俳優の大和田伸也、大和田獏さんがいます。

 

大和田荘七の銅像の横には、松尾芭蕉の句碑が建てられています。芭蕉は、元禄2年(1659)8月に敦賀を訪れ、数々の句を残しています。

  “国々の 八景更に 気比の月”

意味は、近江八景などというように美しい景色を愛でる名所は山ほどあるが、ここ気比の月も加えなければいけない。

  

敦賀赤レンガ倉庫

福井県敦賀市は明治から昭和初期にかけてロシアを経由して大陸ヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄しました。その象徴である『敦賀赤レンガ倉庫』は、外国人技師の設計によって

1905年に石油貯蔵用の倉庫として建設され、途中、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用された福井県内でも有数のレンガ建築物です。2009年1月には、

北棟・南棟・煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録されました。現在では、オープンガーデン、レストラン街、ジオラマ館に分かれています。

ジオラマ館では、明治後期~昭和初期の敦賀の街並みを鉄道と港のジオラマで再現しています。ただ、閉館時間が近づいており、パスしました。

  

 敦賀鉄道資料館

敦賀港は古代より大陸に開かれた玄関口として重要な役割を果たしてきました。

 このことから、明治2(1869)年、日本初の鉄道となる4路線の一つとして、京都-敦賀間の鉄道建設が決定され、明治15(1882)年に日本海側初の線路が敦賀に敷かれました。

その後、明治45(1912)年に欧亜国際連絡列車の運行が始まり、新橋(東京)-金ケ崎(敦賀)間を直通列車が走り、敦賀港から連絡船でウラジオストク(ロシア)へ、

そこからシベリア鉄道でパリ(フランス)まで行くという路線が確立されました。

欧亜国際連絡列車なんてロマンがありますね。東京から、パリまでどのくらいに日数がかかったのでしょうか?

  

杉原千畝と命のビザ

第二次大戦中、ナチスの迫害から逃げようとしたポーランド系ユダヤ人に当時リトアニア領事代理の杉原千畝氏(1900~1986)は人道的立場から日本通過ビザを発給しました。

彼の行為により、約600人ものユダヤ人が救われたといわれています。難民の多くは、杉原氏の発給した「命のビザ」を使い、シベリア鉄道経由でウラジオストックに向かい、「ハルピン丸」や

「天草丸」などの客貨船で1940年8月から翌年6月までの間、数多くのユダヤ人難民が敦賀に降りたちました。彼等にとって敦賀は、初めて踏みしめた日本の地であり、自由と平和を

実感した所です。2001年千畝氏の奥様幸子さんを招き、リトアニアとの友好と交流を希望し、両国の桜と樫の木を植樹されたそうです。

この欧亜国際連絡列車を使ったのでしょうね。

   

萬象閣跡

ここは萬象閣の建っていた跡地です。萬象閣とは、明治19年(1886)6月から昭和20年(1945)5月まで、迎賓館兼会議場として使われた木造瓦葺2階建(72坪5合)の建物です。
当初有力商人32名が出資し、建設費1,100円で建てられ、明治20年から公営(連合町村役場が管理)となり、連合町村会、各種選挙、徴兵検査、町の行事やその他一般町民の会合などに盛んに
利用されました。明治41年(1908)には、隣に貴賓館が新築され、翌42年の大正天皇(当時皇太子)の行啓以後、皇族の御来敦の際の御休憩または御宿泊に充てられました。
昭和20年(1945)、本土空襲が激化し始めると、建物疎開政策が断行され、隣にあった市庁舎(昭和8年、当時敦賀町役場として竣工)を守るため、同年5月、遂に取り壊され60年に亘る幕を閉じました。(説明文より)

  

新内節の祖「鶴賀若狭掾」顕彰碑

新内節初代の鶴賀若狭掾(本名 高井庄兵衛)が、敦賀出身で、そこから江戸に出たそうです。

江戸時代に、官能的で退廃的な豊後系浄瑠璃が流行ったものの、心中が相次いだことが豊後系浄瑠璃と関係しているとされ、演奏も稽古も禁止されたことで、

そこから江戸浄瑠璃4派と呼ばれるものが派生しました。その中の1つが「新内節」です。

 

  

お砂持ち神事

正安3年(1301年)に、時宗2代目遊行上人他阿真教が諸国巡錫の砌、敦賀に滞在中、気比社の西門前の参道、その周辺が沼地(この時代には気比神宮のあたりまで入江であった)となって参拝者が難儀しているのを知り、浜から砂を運んで道を造ろうと上人自らが先頭に立ち、神官、僧侶、多くの信者等とともに改修にあたられたという故事に因み、「遊行上人のお砂持ち神事」として今日まで時宗の大本山遊行寺(藤沢市の清浄光寺)管長が交代した時にこの行事が行われている。
元禄2年、奥の細道紀行で敦賀を訪れた松尾芭蕉は「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んでいる。(説明文より)

  

福井の名物というと、おろし蕎麦、焼きサバ寿司とソースかつ丼ですね。

敦賀にもソースかつ丼の「ヨーロッパ軒」があるということを聞きましたので、早速行ってきました。

かつ丼の並を注文しましたが、結構ボリュームがあります。久しぶりにいただきました。

この2012年の「秘密のけんみんショー」が福井でロケ中、私達は、福井のヨーロッパ軒にいました。映っているかな?と思い、後日テレビを見ましたが映ってなかったです。(笑)

  

 駆け足で敦賀の町を歩きましたが、まだまだ見る所がたくさん残っています。またいつの日か訪ねてみたいと思っています。