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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

下田の町を散策①「唐人お吉編」(静岡県下田市)

2015-01-13 14:41:47 | 旅行

1/10~11に行われる「第17回下田水仙ツーデーマーチ」に参加するため、前日の9日から下田に入りました。

下田は、幕末(1854年)に締結された日米和親条約で箱館(函館)と共に開港されました。(下田は、即時開港、箱館は、翌年開港)

町を歩くと開港当時の遺跡が残っています。

  

伊豆急下田駅から歩き出すと、途中龍馬とお吉の看板が立っています。ここが「宝福寺」。どうも龍馬の顔は、大河ドラマの「福山雅治」さんに似ていますね。(笑)

嘉永7年(1854)日米和親条約締結にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれました。

また、文久3年(1863)、宝福寺に滞在中の土佐藩主「山内容堂」に勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許されました。

  

    

 

この宝福寺には、開国で自分の一生を棒にふるった一人の女性の物語があります。

「唐人お吉」(お吉物語)

     ♪  泣いて昔が返るなら

       なんで愚痴などいうものか

       花のいのちは一度だけ

       よしておくれよ気休めは 

この歌は、昭和35年ごろ天津羽衣さんが歌ってヒットした「お吉物語」です。今でも中村美津子さんなどがカバーされています。

私がまだ小学生のころだったかな?ラジオから流れる歌を聞いた覚えがあります。このお吉が「唐人お吉」とは、知りませんでした。

お吉(斉藤きち)は、天保12年(1841)愛知県知多郡内海で生まれ、4歳の時、船大工をしていた親と一緒に下田に移り住みました。14歳で芸者となり、その容姿から下田一の人気者となりました。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、

人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応年(1867年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、

既にアルコール使用障害となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、

哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる。

お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉」で広く知られることとなる。(wikipediaより)

お吉物語の歌の最後のセリフは、「ハリスさんも死んだ。鶴さんも死んだ。今の私には、穴の開いた三味線みたいなものなんだ。どんなにつくろってみたってもう昔の音なんか出やしない。・・・・お酒だよ、お酒おくれ・・・・」

宝福寺の中には、「お吉記念館」があります。この中には、お吉のお墓があり、お吉が使っていた衣装、器、ひな人形などが展示されています。

  

  

写真なんか見ていると、現代でも通用するような美貌の持ち主だったみたいですね。

   

了仙寺近くには、お吉が料理屋を経営していた「安直楼跡」がありました。案内板を見るとご自由に見学どうぞと書かれてましたが、お店は、閉まっており入ることができませんでした。

    

あのころ、真偽は定かではありませんが、お吉は、町の人に妬まれる存在だったと思います。それが、昭和3年発表の十一谷義三郎「唐人お吉」で脚光を浴び、映画や舞台、歌にまでなりました。

今では、観光の目玉として「お吉」を売り出しています。お吉が今、生きていたら、このようなことをどう思っているのでしょうか?

幕末に悲しい一生を送った女性のお話でした。

   辛い浮世の路地裏で

    毒と知りつつ呑むお酒

    下田港のお月様

    明かるすぎますお吉には~