①からの続きです。
宝福寺から了仙寺に向かって歩きます。了仙寺から左折し、しばらく行くと「ペリー艦隊上陸の地」があります。
嘉永7年(安政元年1854年)再来したペリーと幕府の間で持たれた4日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは、調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて、
安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たせている点にぺりーは、満足した。条約締結により即時開港となった下田にペリー艦隊が次々に入港した。
そしてペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として「上陸の碑」が建てられた。(案内文より)
上陸の碑の横には、「日米友好の火」があります。2004年日米友好150周年によせて、当時のジョージ・ブッシュアメリカ大統領からのメッセージも刻まれています。
約2000万年前、伊豆は本州から数百km南、現在の硫黄島付近の緯度にあった海底火山群でした。フィリピン海プレートの上にできた海底火山や火山島はプレートとともに北に移動し、
やがて本州に衝突して現在のような半島の形になりました。伊豆南部の広い地域は、噴火した海底火山や火山島によって作られた土地です。下田の市街地をとりまく二つの特徴的な山、寝姿山と下田富士は、かつて
火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿をさらした火山の根(火山岩頸)です。
開国記念館の前にある「下田小学校」が、明日(1/10)行われる下田水仙2DMのスタート地点です。
了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、1855年5月、日本側全権林大学頭等とペリーの間に和親条約付録下田条約がこの寺で調印されました。了仙寺は、玉泉寺と共に米人休息地となりました。
また、了仙寺では、ペリー艦隊の音楽隊が演奏を行い、これには、町民も見ることが許され、当日は、了仙寺の境内・周辺が人で埋まったと言われています。これが日本で最初の洋楽のコンサートです。
さて、幕末の下田で忘れてはいけないのが、「吉田松陰」。
安政元年(1854)、吉田松陰(当時25歳)は、足軽の金子重輔(24歳)とともに下田港に来航した米国ペリー艦隊を追って、下田に来ました。3月27日夜、弁天島近くから船を出して、米艦ポーハタン号に漕ぎ着け、熱心に便乗を
懇請しました。兵学者であった松陰は、欧米列強に対抗できる日本国家をいかにつくるかを探求し、米国に行って見聞を広めたい、その目的のために命を賭して密航を企てたのです。
名前も偽名(吉田松陰は、瓜中万二(くわのうちまんじ)、金子重輔は、(いさぎこうだ))を使いました。
然し、対応した通訳ウィリアムスは、政府の許可がない理由で便乗を拒否し、福浦海岸に送り返しました。事敗れた二人は、柿崎名主「増田平右衛門宅に自首。その後下田奉行所に連行され、一時長命寺に拘禁され、
更に平滑の獄に移されました。
下田獄のあと、金子は、病死しましたが、松陰は、江戸、萩(謹慎処分)、江戸と牢獄を転々として1859年安政の大獄で処刑されました。この間、萩では、近隣の青少年を集め、教育を始めました。
これが「松下村塾」です。この中から、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋、前原一誠、伊藤博文などの人物が巣立ちました。
吉田松陰拘禁の跡は、現在下田公民館になっています。句の意味は、「世間の人は、良くも悪くも言いたいように言えばいい。私の誠は、神が知っているのだから」。
尚、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」などを書いたイギリスの伝記作家、ロバート・L・スティーブンソンが、「YOSHIDA TORAJIROU」という本を書いているそうです。
また、今年から始まった大河ドラマ「花燃ゆ」では、1/25放送分でこの下田における松陰のことを放映するそうです。
再び町歩きをします。
町の一角になまこ壁の旅館があります。「松本旅館」です。建てられたのが安政2年(1855)、160年の歴史があります。ペリー来航の時期と重なります。この建物が、ペリー来航から現代にいたるまで下田の歴史を物語っているのでしょうね。
現在でも営業しているのかな???
町を歩くと、目につくのが「干物屋」さん。下田の金目鯛が並んでいました。他にもサンマの干物もありました。
今日の宿は、市街地から少し入った白浜海岸にあるホテル。
ホテルの窓からは、伊豆大島が見えました。
ホテルの夕食は、下田名物「金目鯛の煮つけ」「金目鯛の刺身」「伊勢海老」「アワビ」でした。中でも金目鯛は、この下田が水揚げ日本一だそうです。九州では、めったに食べることができません。
明日からのウオーキングに備えしっかりエネルギーを蓄えました。