11/23福山駅発7:46で昨日のゴール地松永駅へ。。8:00から歩き出します。 松永駅の構内には松永が塩田で栄えた頃のオブジェがあります。
万治3年(1660)福山藩家老本庄重政が神村、柳津村沖の干拓に着手し、寛文7年(1667)塩田築調工事は完成し製塩が始まった。
この年に幕府の許可を得て「松永」と 命名した。この松永は神村の松崎の地先に造成され重政は松に因んで中国の吉祥句「松寿永年」から
土地の繁栄を祈って松永と名付けられた。
松永の塩田の規模は、古検(水野検地)では39町6反余(約39.6ヘクタール)、元禄(げんろく)13年(1700)の備前検地では56町4反余(約56.4ヘクタール)であった。
この頃の軒数は50前後が記されている。当時としては最新の入浜(いりはま)塩田の技術によったので生産性が高かった。
販路は北国筋が中心であった。明治11年(1878)の場合、松永塩の販売高83466石余の約9割にあたる7600石余を北国筋へ積出している。
松永塩田は、昭和34年(1959)に流下式(りゅうかしき)に転換したが、翌年は廃止された。
一方の松永の下駄は
明治10年代、塩田に潮を引き入れる入り江のそば、下駄屋の主人丸山茂助が、塩を運ぶ船の帰路の空荷に着目したところから始まった。 この片荷に山陰の雑木アブラギリを乗せて格安に仕入れ、入り江に筏(いかだ)に組んで貯木し、入用な分だけ製材して桐(きり)下駄に替えたのである。 まさに塩が松永下駄を生んだといえよう。 そして原木の製材から下駄への小割りに至るまで、早くから機械化したことで、大量生産が可能となり、仕上げだけが手仕事だが、加工も分業化した。 これに応じて、工場が塩田の入り江の周辺に立ち並び、ついに下駄の町松永を形成したのである。 雑木による格安の大衆下駄の生産を図り全国に売り出した。 |
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(以上ひろしま文化大百科より)
松永駅そばには、「日本はきもの博物館」がありますが、残念なことに今年11/24に閉館することになったそうです。
入ってみようと思いましたが、開館時間は9:00からですので残念ながらパスしました。今でも松永には歩道には「下駄」のブロックがついています。
松永駅前を通り街道へ。神村の信号では交通少年団の子供たちから「頑張って」と声をかけられました。
2号線と松永道路が交差する所に「今伊勢宮」があります。山陽本線の線路を横切って行くと前方に長い階段が・・・・・・数えてみますと199段ありました。(他の記事によれば208段とか)
伊勢神宮をお祀りしているそうで内宮、外宮がありました。
再び街道に戻ります。松永バイパス手前のガソリンスタンドの所から左に曲がります。歩いていると松永バイパスの拡幅工事でしょうか橋脚工事が行われていました。
地域の集会所には神村二区と書いてありますが、ここに「金毘羅宮の常夜灯」があります。先を歩くといくつもこの常夜灯があります。大きいものもあれば小さいものも。
また、所々には「地神(ちじん)様」もあります。
調べてみますと、金毘羅信仰は一般には四国の金比羅宮、即ち金毘羅大権現を尊崇しています。
金毘羅はインド仏教の仏教の「クンビーラ」に由来し鰐を意味し水に関係します。江戸時代になると金毘羅さんに祈願するとなんでも願いが叶えられるという信仰が
広がり漁業者や水運関係者の尊崇を集め、また水にかかわることから農業神として信仰されました。
「地神」は農地に宿り農作物を豊かに実らせてくれる神のこと。春・秋の社日には農作業を休み地神に感謝する祭りをした。
今は、この一帯住宅地が広がっていますが、昔は田んぼや畑が広がってこの金毘羅様や地神の信仰が広がっていたのでしょうね。
スベリ石古墳徒歩10分という看板があり行ってみますが、どこにあるかわからず断念しました。
済美中学から国道を渡ると「イコーカ山古墳」があります。案内板を見ると
赤坂の平野部の北縁部、津之郷町加屋から南に派生する丘陵の先端部に構築された古墳である。墳丘は径約10mの円墳で、外部施設として円筒埴輪を二重にめぐらせている。
内部主体は未発掘のため明らかでない。周囲はかなり削りとられているので、旧来の景観は変容しているが、南西に続く丘陵には、4基で構成される池下山古墳群が存在していた。
なお、西裾には相輪を欠くが、室町期と考えられる宝篋印塔(ほうきょういいんとう)がある。
スベリ石古墳にしろこのあたりは昔から人が住んでいたのでしょうね。
山陽新幹線のガードを潜り川を渡り谷尻バス停を左折します。津之郷小学校の近くのこの川には交通安全の面白い標語が書いてあります。
川沿いに歩くと田邊寺(でんぺいじ)です。
奈良から平安時代の養老5年(721)に創建された和光寺の中心塔石が残されています。
秀吉が九州征伐に向かう途中、備後・津之郷に居住していた足利義昭とここ田邊寺で会っています。
織田信長から京都を追われた室町幕府15代将軍足利義昭は、中国の毛利家を頼ってきたのが福山の鞆の浦。その後熊野町常国寺に移ったあと、ここ津之郷に住み
やがて京都に戻っていったといわれ、天正13年(1585)~15年(1587)まで実際に居住していたそうです。ここ「惣堂神社」は祭神は猿田彦命ですが備陽六郡誌には
将軍足利義昭と載せています。かつて義昭に仕え追放後信長の許へ下った細川幽斎も九州からの帰途に立ち寄ったとも言われています。
この津之郷ですがいろいろ歴史的には見るべきものがたくさんあります。時間があればゆっくり廻りたかったです。
惣堂神社を下り再び山陽道に戻ります。しばらく行くと酒屋さんの角に道標があります。左 大坂、右 福山。
更に先を歩くと右側に大きな榎木があります。ここが「山手一里塚跡」。
街道を進みますと芦田川に差し掛かります。山陽道は国道378号線から左の脇道に入ります。
しばらく歩くと採石場があります。地図ではここを通るようになっていますが、どうも民間地みたいですので少し迂回します。
山陽自動車道郷分トンネルの所に高い岩の上に朱色の神社が見えてきます。これが「郷分八幡神社」。
その下の街道沿いには首塚があります。これは「宮入道光音の首塚」です。
志川滝山城主だった宮入道光音は天文21年(1552)毛利軍に滝山城を落とされてここで討ち取られました。その首がここに葬られました。
山陽自動車道のガードを潜ると右側の道へ。しばらく歩くと国道378号の大渡橋に合流。橋を渡り左折します。その先の「正善寺」から右折。
この辺りに「中津原一里塚跡」があるそうですが、探しても見つかりません。多分この辺ではないでしょうか?
新茶屋の信号を右折、芦田川支流の高屋川にかかる鶴ヶ橋を渡ります。昔はここに「鶴ヶ渡し」があったそうです。
時間も13時を過ぎてきました。この間食べる所を探しましたが一向に見つかりません。
やっと見つかったのが神辺ゴルフ練習場近くのラーメン屋さん。ここで遅い昼食を食べ再び出発します。
NHKかいどうてくてく旅の原田早穂さんがゴルフの打ちっぱなしをした神辺ゴルフ練習場を通りますといよいよ神辺宿に入ります。
神辺宿は広島県内で唯一本陣が残っていて御子孫の方も現在住まわれています。また町並みもきれいに整備されています。
神辺の本陣は、西本陣が尾道菅波家、東本陣が本荘屋菅波家が当主。残念ながら東本陣は残っていません。
西本陣を見学しているとボランティアのガイドさんが詳しく説明してくれた。
部屋数27、畳は200畳、大名と付添い70名が収容できる。宿札を見ると「筑前少将宿」「松平下野守」と主に筑前黒田藩が良く使っていたそうです。
そういえば屋根には黒田家の紋がつけられています。現在も敷地の奥に菅波家の子孫の方が生活されています。
途中、菅波歯科医院という古い建物がありましたのでこの本陣の菅波家と関係があるのかと質問すると関係ないそうです。菅波歯科医院の建物も立派だった。
西本陣の先を行くと「廉(れん)塾 菅茶山(かんちゃざん)旧宅」があります。ここでもガイドさんの説明がありました。
菅茶山は酒造業で東本陣主人も勤めた菅波樗平の長男として延享5年(1748)に安那郡川北村(現在の神辺町川北)で生まれ、19歳の時京都に遊学し天明元年(1781)頃神辺に戻り
私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。寛政8年(1796)に福山藩の郷校となり「神辺学問所」「廉塾」とも呼ばれた。
塾では菅茶山とともに藤井暮庵、頼山陽、北条霞亭など塾頭による四書五経を中心とした講釈がなされ寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの階層に渡る塾生が
2~3年にわたって学んでいます。建物の中に方円の手水鉢がありますが、
方円の手水鉢は丸と四角に掘られています。水は入れ物によってどのようにでも形が変わる。人も同様で教育によってよくも悪くもなると教えています。
時間も4時近くなってきました。今日は高屋まで歩く予定でしたがこの状態では夕方になってきますので今日はここまでとします。
すぐ福塩線神辺駅の時刻表を調べると4:05発があります。このまま急いで駅に行きかえしました。
4:30ごろ福山駅に到着。そのあと福山駅北口にある「福山城」に行ってきました。
今日(23日)のGPSです。