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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥の細道鳥海ツーデーマーチ2日目20km「水と鳥海山麓、自然コース」(山形県遊佐町)

2017-09-09 16:32:29 | オールジャパンウオーキングカップ

9月3日 第25回奥の細道鳥海ツーデーマーチ2日目「水と鳥海山麓、自然コース」20km

今日も酒田発6:33の電車で遊佐に向かいます。2両編成の電車は、今日もウオーカーの方で満員です。

奥の細道鳥海ツーデーマーチ最終日のこの日の20kmコースは、30kコースと同時スタートがOKでしたので、スタートは、7:15です。

   

鳥海山に降る豊富な雨や雪は、遊佐町にたくさんの河川や湧水、井戸水をもたらしています。歩行中「丸勝の水」がありました。

 

 月光川河川公園は、2008年に公開され、日本アカデミー最優秀賞の映画「おくりびと」のロケ地にもなりました。

3kmぐらい歩いたところが、10kとの分岐点です。

   

しばらく歩くと「庄内おばこ発祥の地」の石碑が建っています。

説明板を見ると、「文政年間(1818~1829)の ある晩秋の嵐の夜,冷たい雨に うたれた旅の商人が,疲労して 一軒の農家に一夜の宿をとった。  

たまたま,この家に「梢」とい う娘がおり,板倉を仮の住まい とし,親切に看護したのが縁と なり愛し合うようになりました。 旅の商人が訪れるたびに,二人 は板倉や田んぼの外れで逢う 瀬を楽しんでいましたが,

梢の 両親は旅の商人との恋を許し ませんでした。このことを知った村人たびは

おばこいたかやと 裏の小窓からのぞいてみれば おばこいもぜで 用のない婆さまなど糸車」

とはやすように歌われたのが始 まりと伝えられております。 梢の生家(三郎兵エ)には 囲炉裏をきった板倉が有り ましたが,戦後の改築に逢 って今はない。

※「おばこ」とは、東北地方の方言で「娘さん」の意味。

庄内おばこのyoutubeは、こちら ↓ ↓ ↓

"https://www.youtube.com/embed/mtSKhGJ5NgE"

  

5km地点が30k、20kの分岐点。20kコースは、ここから上り坂になります。

  

金刀比羅神社は、祭神は、事代主命。

古四王(こしおう)神社:自然石をご神体として祀っており、このご神体を運び出して庭石としたところ、家人みんな耳が遠くなり、ご神体を元に戻したら耳が元通りになったという伝説がある。

町内には古四王神社がいくつもあるが、共通することはきかずさまとして呼ばれている。古い木のお椀が耳の形に似ていることからさげており、耳の神として多くの信仰をうけている。

   

 8,1km地点の「杉山比山伝承館」が最初のチェックポイント。この横には、「語り部の館」があります。約300年前(元禄16年)に建てられた平津榊原家(旧大組頭斎藤家)を解体し、

その部材を使って復原した建物です。町指定文化財。

   

杉沢熊野神社に来ました。

杉沢熊野神社には、鳥海山の山伏神楽で比山神楽と呼ばれ、熊野神社が鳥海山で修行する山伏の宿坊として栄えた鎌倉時代から伝わっていると言われています。

地域の住民が連綿と受け継ぎ、衣装、面、小道具なども、その時代時代に修復、新調しながら、ほぼオリジナルの形を継承していると言われています。

趣のある神社の境内で、夕刻からの暗がりの中で舞われる様は、観客を否応なしに幽玄の世界に誘います。国指定重要無形民俗文化財に指定されています。

    

    

   

13,9km地点が昼食会場の四季の森しらい自然館です。四季の森しらい自然館は、鳥海の自然に恵まれた遊佐町白井新田地区の高台にある交流体験型宿泊施設です。

鳥海山や日本海にしずむ夕陽、そして高瀬峡や二ノ滝渓谷などの渓谷美を四季折々楽しめます。キャンプも楽しめます。

ここでは、お吸い物の接待がありました。

   

  

しらい自然館の少し先には、旧庄内藩17代当主酒井忠明氏の歌碑が建っています。藤井新田開村200年を記念してこの地を訪れ、この詩を詠んだそうです。

   鳥海の山より高き 父母の恩忘るべからず 開村200年

   

  

飼料用のお米を栽培している田圃がありました。日本の環境や国土を守っている水田を減らさないよう、また、飼料の自給率を向上し、畜産物の安定供給を図る意味だそうです。

  

  

野沢公民館が最後のチェックポイント。ここまで17,7km。

  

 

道路を見ると、何か、フェンスみたいなものが立っています。これは、冬場地吹雪を遮るためのものです。今は閉じられていますが、地吹雪になると視界が1mぐらいしかなく、

これを下して使うそうです。九州では、見られない光景です。

遊佐高校前を通ると、ゴールの看板が・・・・・

 

11:40 無事ゴールしました。今日の20kmのコースは、実測21,4kmでした。

  

  

これでオールジャパン46県目をクリアしました。オールジャパン完歩まであと1県(秋田)。

 


奥の細道鳥海ツーデーマーチ1日目20km「緑と庄内砂丘、日本海コース」(山形県遊佐町)

2017-09-08 04:05:41 | オールジャパンウオーキングカップ

9月2日~3日まで山形県飽海(あくみ)郡遊佐(ゆざ)町で行われる「第25回奥の細道鳥海ツーデーマーチ」に参加しました。

宿泊先の酒田市のホテルから6時33分の電車で「遊佐駅」へ。電車の中は、この大会に参加するウオーカーでいっぱいです。

約15分で遊佐駅に到着。ここから会場の遊佐町民体育館まで徒歩で約10分です。

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遊佐町は鳥海山と繋がりの深い地域です。遊佐町には鳥海山山頂の大物忌神社本宮を始め、吹浦口之宮、蕨岡口之宮があり古来から信仰されてきました。特に鳥海山は活火山だった為、

たびたび噴火を繰り返し神の山として考えられ朝廷や幕府などの権力者からも崇敬されました。中世には神仏混合となり多くの修験者が遊佐町周辺に集まり、

杉沢熊野神社では「杉沢比山」と呼ばれる神楽を伝承するなど独自の文化が伝わっています。

又、遊佐町は古くから開けていた地域で、延喜式で記されている「駅」や「吹浦湊」があり出羽国府(城輪柵)と秋田城(秋田市寺内)を結ぶ重要な役割を持っていたと考えられています。

平安時代からは「遊佐荘」と呼ばれる荘園が置かれ延長5年(927)の記録では荘園主に遊佐太郎繁元、繁光の名前が記されています。

その後遊佐荘は平泉(岩手県平泉町)に本拠がある藤原基衛、久安4年(1148)には摂関家である藤原頼長へ所領が変わっています。江戸時代に入ると庄内藩に属し、

秋田から新潟にかけての羽州浜街道が整備されると藩境付近にあった女鹿集落に番所を置いて人や荷物の管理をしました。

松尾芭蕉も「奥の細道」行脚の際、遊佐町を通り象潟へ訪れていて元禄2年6月15日に吹浦に一泊し難所だった三崎峠で難儀したことが曽良日記に記されています。

戊辰戦争では庄内藩は奥羽越列藩同盟に組した為、政府側に回った秋田藩と矢島藩と交戦状態となり三崎峠は戦場となり双方に犠牲者がでています。 (遊佐町の歴史より)

   

会場へ着くと40kmコースの出発式が行われていました。何と「激」は、兵庫県高砂市のIさんが務めれれていました。

 

20kmのスタートは、8:30. 会場では、地元ラジオ局山形放送の方が参加者にインタビューをされていました。写真のこの方の前に、私の家内がインタビューを受けました。

私の風車と「福岡」からの参加ということでレポーターさんの目に入ったのでしょうね。家内は、私が美人だったからと言ってますが、さてさてどうでしょうか????(笑)

  

8時30分 20kmコーススタート。「激」は、地元中学生です。

 

歩いていると鳥海山が見えてきます。

鳥海山は、山形県と秋田県の県境にあって、日本海に面し、標高2,236メートル。またの名を出羽富士とも呼ばれ、山麓周辺の人々の守り神として、古くから崇められてきました。

気象変化は激しく、それだけに四季の彩りも鮮やかで、その自然の変化には目を見張るものがあります。降り積もった雪が豊富な沢水となり、幾条もの谷を刻んで広い山裾に流れ、

御水は水田を潤し稲を育ててきました。人々の生活の背景にはいつも鳥海山があり、信仰の山としての存在も大きく、その姿の美しさとともに心の支えとなっています。(遊佐町HPより)

  

9時20分5km通過。月光川沿いに歩きます。

  

最初のチェックポイントは、「高瀬まちづくりセンター」。給水所のお水は、鳥海山から何年もかけて湧き出た天然水。冷たくておいしかったです。

  

この高瀬まちづくりセンターの横には、「高瀬小学校前の水路はこのようにしてほしい」との思いを一枚の絵に託した一人の女の子の夢が叶えられて実現しました。

これが「美しき童の里」です。

  

田圃に「偶数」、「奇数」と書いた看板がありました。これは、月光川から水を引く日を書いてます。偶数=偶数日、奇数=奇数日。

田圃の中を電車が走っています。いつもは、2両編成なんですが、この電車は、4両編成です。

この日の10kmのコースは、遊佐駅から電車で吹浦(ふくら)駅に行き、そこからスタートします。この電車には、10kmの参加者で満員でしょう。

このあたりから、東京の「とほ娘」さんと一緒に歩きました。とほ娘さんとは、ムーンスターのSNS時代からの仲間です。

   

歩いていると、農家の方が何か用意されています。なんだろうとゆっくり歩いていると、スイカの差し入れでした。(私たちが一番目でした。赤いスイカは黒い種がありませんでした。新品種かな?)

このスイカ非常に甘くおいしいです。有難うございました。

  

羽越本線の踏切を渡ると吹浦です。踏切のすぐ向こう側は、地元の酒蔵「東北泉」です。

  

吹浦の街並みの真ん中あたりに「鳥海山大物忌(おおものいみ)神社吹浦口ノ宮」があります。

創祀は欽明天皇二十五年(1400年以上前)の御代と伝えられています。鳥海山に噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われました。

本社は山頂に鎮座し、麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ヶ所に鎮座しています。御祭神 大物忌大神 月山神。5月5日の例大祭と4日の前夜祭には吹浦田楽が奉納されます。(ウオーキングマップより)

大物忌神社を過ぎたあたりから上り坂になっています。勾配はそんなにきつくないのですが、距離が長いです。

   

左側には、吹浦小学校があります。敷地も広く、造りもモダンで目を引きます。

サンセット十六羅漢の所にきました。ここで10kmコースの人と合流しました。10kmコースは、地元の小学生・保護者が多く参加されているようです。

これから海岸の方に下りていきます。

 

地元遊佐出身「斎藤勇氏」の歌碑があります。  冬来れば 母川回帰の本能に 目覚めて愛し鮭ののぼりくる

意味は、先人たちの長年の人口孵化事業の辛苦のもと、月光川で生をうけた鮭の稚魚が遠く北洋の旅を終えて、母なる川月光川の清流を慕い帰ってくる姿を詠みあげました。

 

十六羅漢岩は、吹浦海禅寺第21代寛海和尚が、日本海の荒波で命を失った漁師諸霊の供養と海上安全を願って、明治元年(1867)、22体の磨岩物を完工しました。

16の羅漢に釈迦牟尼、文殊、普賢の両菩薩、観音、舎利仏、目蓮の像を合わせて22体あります。

  

飛島は、山形県唯一の離島です。酒田市に所属しています。

 

出羽二見岩は、海に浮かぶ二つの並んだ岩に注連縄が張られ、二見ヶ浦になぞらえて出羽二見と呼ばれています。 5月と8月頃に出羽二見の間に夕陽が沈みます。

出羽二見岩の所には、芭蕉の句碑が建っています。 あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み

※あつみ山(温海山)は、鶴岡市にある736mの山です。

この句の意味は、ここあつみ山から吹浦(海)を見下ろす。「あつみ山」と名前からして暑さを思わせる山から涼しい風を思わせる吹浦を見下ろすのは、しゃれた夕涼みだ。

     

  

 昼食会場は、西浜キャンプ場。ここでは、アオサの味噌汁が振る舞われました。

ここからゴールまではあと約10km。現在11時ちょうどです。ゴールは13時ごろかな??(寄り道をしなかったら)

  

再び歩き出します。鳥海温泉「遊楽里」の看板が見えてきました。歩友北九州のIさんは、ここに泊まっているそうです。また、FB仲間の埼玉・Oさんもここです。

今度参加するときは、ここを予約しようかな?(Iさんの話では、2月ごろに予約したそうです)

道の駅鳥海「ふらっと」に来ました。Iさんの情報では、店内で肉厚のカレイを焼いて食べさせてくれるそうで、それがおいしいとのこと。

食いしん坊の私たちですのでここは、寄り道をせざるをえません。ただ、ここの国道7号線、横断歩道がありません。仕方なく手を挙げて渡りました。(勿論、停まってくれた車に頭を下げました)

 

お魚の焼ける匂いこれもたまらないですね。カレイは身が厚く、脂ものっていましたのでおいしかった。

 

国道7号線を歩きます。前方には、風力発電用のたくさんの風車があります。このあたりは、風が強いところなんでしょうか?

  

2回目のチェックポイントが十里塚公民館です。ゴールまであと6、2km。現在12時丁度。ゴールは、13時15分ぐらいかな?

  

   

玉龍寺にやってきました。玉龍寺は、天保の国替事件をモデルにした、藤沢周平の「義民が掛ける」の舞台です。

天保の国替事件は、武蔵国川越藩主松平斉典を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を川越へ転封しようとしたもの。実現することはなかったが、

数ある三方領知替えの中で最も有名である。

第11代将軍徳川家斉の実子・斉省を養子にとった川越藩主松平斉典が、実高が多く裕福な 庄内藩領地を狙って幕閣に働きかけたものだったが、

庄内藩の士民を挙げた猛烈な抵抗にあい(天保義民事件)、翌年閏1月に家斉が没すると諸大名の間でもこの問題に対する不満が高まった。

同年7月に12代将軍徳川家慶の「天意人望」に従うとする判断によって沙汰やみになった

  

  

13:20 スタート会場の遊佐町民体育館にゴールしました。距離は、20kmでなく、22,9kmでした。

 

    

 

このあと、16:00からのウオーカーの集いに参加しますのでそれまで会場内を見て回りました。

 

 


第17回SUN-IN未来ウオーク2日目22km(鳥取県倉吉市)

2017-06-15 19:45:41 | オールジャパンウオーキングカップ

6/4(日)SUN-IN未来ウオーク2日目22km。「八幡往来・名探偵コナンコース」です。

倉吉パークスクエアから、シャトルバスで琴浦町役場に移動し、パークスクエアに戻るコースです。

  

   

8:30琴浦町役場前をスタート。琴浦町は、2004年、東伯町と赤碕町が合併してできた町です。

右側には、山陰のランドマーク「大山」が見えました

 

コースは、方見神社を通り、加勢蛇川に架かる宮橋に出ます。ここからは、日本海が見えてきます。

 

 

今歩いているコースは、昔「八橋(やばし)往来」と言って伯耆(ほうき)国の中心であった倉吉と出城があった八橋とを結ぶ奈良時代からの街道でした。

かの伊能忠敬もこの街道を実測しており当時の道筋が200年経った今でも残っています。伝馬跡、宿場跡等が現存しています。

  

この先には、「斉尾廃寺跡」があります。

奈良前期・白鳳時代の寺院跡で、法隆寺式伽藍配置をとった山陰で唯一の国指定特別史跡。東西160m南北250mの土地に

塔・金堂・講堂・中門・回廊・土堀の跡があり、基壇・礎石が当時の面影をしのばせます。金堂跡の周辺で多くの塑像片が出土

(琴浦町歴史民俗資料館蔵)し、その中に丈六の仏像と小さな塑像があり、金堂に安置されていたものと思われます。

仏頭は、高さが14cmと小さく表情は優雅で優しさをもつ小塑像で原品は、京都国立博物館に所蔵されています。(琴浦町HPより)

 

 

「鳥取芝発祥地」の石碑が建っています。鳥取県は、全国でも有数の芝の産地。1958年(昭和33年)にここ琴浦町で栽培されました。

 

鳥取県の日本海側は、風が強いからでしょうか、風力発電用の風車が建っています。

コースは、北栄町に入りました。北栄町は、2005年北条町と大栄町が合併してできました。

  

北栄町は、スイカの産地です。ビニールハウスには、出荷待ちのスイカがありました。マンホールにもスイカがデザインされています。

  

北栄町は「名探偵コナン」の作者「青山剛昌さん」の生誕地です。北栄町は、コナンで町おこしです。

  

由良駅は「コナン駅」

 

  

北栄町のスイカのオブジェもありました。

 

北栄町の由良は、江戸期には山陰道(伯耆街道)が東西に通り、伯耆街道より八橋で分岐して倉吉に向かう八橋往来も通る交通の要衝であり、

享保17年(1732)から宿駅に指定された。

由良が大きく発展したのは享保4年(1719)に由良宿内に藩蔵が建設されたことによる。藩主池田氏は由良が水陸交通の要地であることに着目し、

由良川左岸の微高地(現JR由良駅北方の海岸まで400m程のところ)に年貢米2200俵格納可能な13棟もの藩蔵を建築した。

藩蔵は東西50間・南北34間という大きなもので、これにより由良は港町・宿場町として大きく発展するのである。

藩蔵は明治4年まで約160年間も使用された。

伯耆街道を荷車が通れる広さに拡張整備し、藩蔵周辺の道路も整備して問屋や住民の移住を促し、蔵役人も移り住んできた。

寛永9年(1632)家数21・人数146、元文2年(1737)村分帳では家数90余り、明和4年(1767)家数144、天保11年(1840)240、

文久3年(1863)組合帳では243戸となり、江戸時代を通じて港町・宿場町として賑わっていた。

藩蔵正面から伸びる広い道を本町通りとし、そこに御蔵役人や米問屋が軒を並べ、年貢米の廻船業者も集住して在町の発達を促した。

そして天保初期から由良川水路開削が行われ、川船の運航を便利にし、藩蔵の所在地と宿駅であることも相まって、各地の物産の集散地となり

在町としても賑わいを見せ、鍛冶屋・紺屋・米屋・運送屋などもいた。(中国地方の古い町並みより抜粋)

 

また、由良には、「由良台場跡」がありました。江戸末期、文化5年(1808)のフェートン号事件、安政8年(1825)の異国船打払令など

諸外国との緊張が高まる中、沿岸警備のため築造されました。その設置場所も鳥取県海岸線東西160km(40里)の内、重要港湾を控えた

八か所(浦富、浜坂、賀露、橋津、由良、赤碕、境)に築造されました。

 

お台場公園を過ぎると「青山剛昌ふるさと館」があります。中に入ってみると、名探偵コナンのグッズでいっぱいです。

 

 

北栄町は、「長芋」の生産でも有名です。畑では、長芋の植え付け作業が行われていました。

 

 

コナン大橋を渡り、まっすぐ行くと「北栄町役場」です。

 

役場の横には、「豊田父子頌徳碑」があります。豊田太蔵(たぞう)、豊田収(おさむ)さん父子で、太蔵さんは、安政3年5月9日生まれ。

鳥取県会議員をつとめ,明治39年生地の鳥取県由良村(大栄町)に育英黌(いくえいこう)を創立。私財を投じて学校経営にあたり,

現在の県立由良育英高の基礎をつくりました。息子の収さんは、衆議院議員を6期務め、政務の傍ら、郷土における有為な人材育成を忘れず、

私学経営のみならず、各種育英、奨学事業に一生を捧げました。

由良育英高校は、2003年、赤碕高校と統合し、「鳥取県立鳥取中央育英高校」と名称が変わりました。

頌徳碑には、鳥取県知事石破二朗の名がありますが、現自民党の石破茂氏のお父上です。

   

六尾反射炉跡に立ち寄り再び先に進みます。この辺りの田んぼは、もう田植えが終わっています。お米は、「きぬむすめ」かな?

 

歩いていると子供たちが待っています。コナンのせんべいのお接待です。ちゃんとコナンの印も入っており、おいしかったです。

  

 

チェックポイントは、灘手公民館です。ここまで15,2km。接待では、メロンが振る舞われました。

  

和田橋、出口橋を渡ると倉吉の市街地です。

 

倉吉淀屋は、倉吉に現存する最古の町屋建物です。「淀屋」は、倉吉を代表する商家で、淀屋橋で有名な大阪の豪商「淀屋」と密接な関係を

持っていたといわれています。大都会大阪の中心に架かる「淀屋橋」の名前の元となった天下の豪商「淀屋辰五郎」は五代目のときに、

闕所・大坂処払いの極刑を受けて没落。しかしながら、先代の番頭であった「牧田仁右衛門」の徹底した陰働きによって、

「淀屋」は再興したのですが、実はこの「牧田仁右衛門」が、倉吉の出身で稲扱き千刃の発展普及に深く関与し、倉吉と大坂の橋渡しをし、

倉吉の産業発展の礎となった「淀屋清兵衛」の元祖だったのです。

 

河村郡は明治時代の呼び名、それから久米郡~東伯郡になり、倉吉市になりました。

豊田家住宅は、久米郡倉吉驛だった施設でした。驛とは街道に設けられ,宿泊施設・馬・舟・人夫その他を供給した場所のことで、

うまやとも言われます。なおこの豊田家は代々呉服屋だったそうです。

  

コースは、弁天参道を左折します。その先が「大連寺」。大連寺は、豪商淀屋清兵衛歴代の墓や武将脇屋義助所縁の寺として知られています。

 

倉吉のシンボル「白壁土蔵群」です。江戸、明治期に建てられたものです。

 

 

クラカフェが給水所です。冷たい胡瓜が出されました。ちょっと塩味でおいしくて塩分は控えなくてはいけませんが、2本いただきました。

 

滝沢馬琴「南総里見八犬伝」のモデルと伝われている、房総里見十代里見安房守忠義の無念の想い、江戸時代の初め頃、

幕府の陰謀によって国替となった里見忠義主従と8人の家臣は、ここ倉吉の地で終焉、東町にある古刹「大岳院」に静かに眠っています。

 

53代横綱琴桜(佐渡ヶ嶽親方)は、ここ倉吉の出身です。琴桜記念館もありました。

 

 

 大江磐代君誕生の地

倉吉の町娘“りん”と鳥取池田藩の家老荒尾志摩守の家臣“岩室常右衛門”との間に生まれた“つる”は、第119代光格天皇(明治天皇の曽祖父)の

御生母“大江磐代”なのです。   つる女9歳の時、父親とともに京の都へ上り、当時の女性として一流の教養・行儀作法を身につけ、

閑院宮家へ奉公。閑院宮典仁親王の目に留まり、後の光格天皇・祐宮師仁親王を生むことになりました。

  

13:08 2日目ゴールしました。2日目のコースは見どころがいっぱいで寄り道ばかりしましたので予定時間より遅くのゴールです。

 

ゴールすると、白バラ牛乳、ノンアルコールビールなどが配られました。

2日間の参加者は、約2700人でした。

   

ゴール後、本日の宿泊地、岡山・蒜山(ひるぜん)高原に向かいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


第17回SUN-IN未来ウオーク1日目22km(鳥取県倉吉市)

2017-06-07 17:50:22 | オールジャパンウオーキングカップ

6/3~6/4 鳥取県倉吉市で行われた「第17回SUN-IN未来ウオーク」に参加しました。

倉吉市を含む鳥取県中部地方は、昨年(2016年)10月21日、M6,6、最大震度6弱の鳥取県中部地震が発生しました。町を歩いていると、まだブルーシートで覆われた家が見られます。

今回の未来ウオークは、鳥取県中部地震復興祈念ウオークと称された大会です。

会場は、倉吉パークスクエア。来賓には、スキーで金メダルの萩原健司さんが来られていました。

       

9:00 22kmコーススタート。22kmコースは、天神川沿いに歩き、はわい温泉、東郷温泉を有する東郷湖畔、中国庭園「燕趙園」を通り、途中、伊能忠敬が訪れた「八橋往来」の現存する道を歩きます。

   

会場を出ると、すぐ旧JR倉吉線跡地を歩きます。JR倉吉線は、倉吉~関金の山守駅までの20kmの区間でした。1985年(昭和60年)に廃止されました。

 

天神川の倉吉大橋を渡り、コースは、天神川沿いの側道を歩きます。

  

東伯郡湯梨浜町に入りました。湯梨浜町は、2004年(平成16年)、羽合町、泊村、東郷町の3町村が合併して出来た町です。

温泉(湯)、二十世紀梨(梨)、砂浜(浜)とそれぞれの町の特徴を取って付けられたそうです。

湯梨浜町のマンホールは、梨、温泉、グランドゴルフ、海水浴がデザインされています。グランドゴルフは、旧泊村が発祥地だそうです。

   

田後区集会所の所に「道標」がありました。右、よなご、左、くらよし、東、一の宮?、北、とっとり、南、おかやま。ここは、「八橋(やばし)街道」だったのでしょうか?

コースは、東郷湖に向かいます。(旧東郷町)

    

東郷湖は、周囲12kmの汽水湖で、池の中央から温泉がわき出るという全国でも珍しい湖です。湖畔には、羽合(はわい)温泉、東郷温泉があります。また、ヤマトシジミの産地でもあります。

  

  

更に進むと、中国庭園を有する「燕趙園(えんちょうえん)」があります。これは、鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとして平成7年(1995)に建設されました。

 

 

 

四ツ手網は、網(一辺9m)の四隅に竹を張り湖岸の小屋から滑車で上げ下ろしが出来ます。目の細かい網を使い、エビやシラウオの漁をしていましたが、昨年の地震でいくつかの網が壊れたそうです。

    

松崎の所が折り返し地点です。これから松崎の町に向かいます。

  

しばらく歩くと松崎駅の手前が商店街になっています。ここでは、角を生やした女性軍が迎えてくれました。まるで鬼が島に来た感覚です。

商店街のご婦人達がもう一度活性化しようと「鬼が島プロジェクト」を立ち上げました。この女性軍を「鬼嫁」と呼ぶそうです。角が1本の女性は、鬼嫁予備軍だそうです。

鳥取県は、羽衣伝説の地でもありますし、「天女と鬼嫁」実にすばらしい組み合わせですね。(笑)

  

ここがチェックポイントになっており、お接待で東郷湖のシジミ汁が振る舞われました。

  

この松崎で13,8km。ゴールまであと9kmです。再び歩き出します。

 

北山古墳は、全長110m、後円部径70mの山陰地方最大の前方後円墳です。

羽衣石城は南条貞宗によって築かれた城です。「関ケ原の戦い」で西軍に味方しために領地没収となり廃城となるまでの約250年間、南条氏の拠点となっていました。

現在は山頂の本丸跡に模擬天守と「羽衣石城主南条公累代碑」が建てられています。

  

倉吉市に帰ってきました。天神川に架かる竹田橋を渡り、川沿いを歩きます。

  

倉吉東高校の所から会場の倉敷パークスクエアに向かいます。ゴールでは、スタッフの方が笑顔で迎えてくれました。

   

13:22 ゴール!距離は、22、8kmでした。

翌日(6/4)地元紙日本海新聞には、私達の写真が掲載されました。

6/3(土)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


九州国際スリーデーマーチ3日目20kmコース(熊本県八代市)

2017-05-17 17:01:18 | オールジャパンウオーキングカップ

昨日は、ゴール後ホテルに直行しましたが、疲れていたのかもう20時には、寝ていました。

今日は、20kmを歩きます。また、いつものように30kmと一緒にフライングスタート。

出発式では、八代の歩友Mさんがスタッフとして参加されています。

  

7:30スタート。今日は昨日に比べ参加者が多いみたいです。今日も長崎Sさんと一緒に歩きます。

新荻原橋を渡り、水無川を通ります。水無川の砥崎河原は、11月に行われる「妙見祭」の舞台になる所です。

  

3,2km地点が「八代神社(妙見宮)」です。八代神社のお祭り「妙見祭」は、昨年12月、九州では、博多山笠、戸畑祇園、日田祇園、唐津曳山などと一緒に「山・鉾・屋台」の部門で

ユネスコ世界文化遺産に登録されました。昨日と今日福岡の天神で「祭WITH KYUUSYU」と称し、九州のユネスコ登録祭りが行われています。妙見祭りの「亀蛇(きだ)」も参加しています。

  

そのお祭りの新聞です。

  

八代神社で御朱印をもらい、歩き出します。歩いていると晩白柚の花でしょうか、いい香りが漂ってきます。

東方公園です。ここには、777段の階段があります。10分ほどで登れるそうですが、ここは、スルーしました。

  

7,3kmの龍峯コミュニティセンターが最初のチェックポイント。デコポンを頂きました。八代・宇城地区は、柑橘類の栽培も盛んで「不知火」は、熊本で生まれました。

 

8,4km地点が30k、20kの分岐点。30kは、直進し宮原町の方に行きます。

八代は、い草の産地。畑には、い草が植えられています。我が家も4月に畳替えをしました。一部は、和紙の畳、もう一部は、い草にしました。

い草の畳部屋では、部屋を開けるとい草のいい香りがします。落ち着きますね。

  

岩崎神社が2回目のチェックポイントです。

岩崎神社は、今から約500年前(1505年)、八代市千丁町太牟田の上土(あげつち)城主 岩崎主馬(しゅめ)忠久公は、村の人々の生活が豊かに栄えるようにと初めてい草を植え、育てることを教えました。

その後、全国で天候が悪く人々が苦しむ中、太牟田の村人はい草からむしろを作り、この窮地を乗り越えました。このご恩に感謝して、岩崎公はい草の神様としてお奉りしてあります。

 

ここでは、おにぎりのお接待がありました。又、ここで三重県・津のKさんとばったり遭遇。Kさんとは、昨年青森の大会でご一緒しました。1年ぶりの再会です。

  

15kmを過ぎ、遠くに新八代駅が見えてきました。ふと、見るとSLが走っています。

これは、観光列車で土、日に熊本~人吉間を走っている「SLひとよし」です。

  

最後のチェックポイントは、新八代駅横の「松中信彦記念館」です。ここで約16km。

元ソフトバンクホークスの選手でした松中選手は、平成16年(2004)パリーグで三冠王を獲得されました。隣町の宮原町出身の秋山幸二元ホークス監督と共にホークスの黄金期を築かれました。

ここでは、お接待に「トマト」が出されました。昨日の40kmでは、トマトも楽しみにしていたのですが、お接待では出ませんでした。(20kコースでは出たそうです)

隣の八代よかとこ物産館で家内へのお土産にこのトマトをゲットしました。八代のトマトは甘くて本当においしいです。

  

熊本県八代総合庁舎を過ぎ、ゴールまであと2km。このあたりから10kmの方と合流しました。

  

八代市のマンホールです。晩白柚が描かれています。

11:40  ゴール!ゴールでは、「やっちろん戦隊ヤッチロイジャー」が迎えてくれました。

   

今日(5/14)20kmのGPSです。

ゴールの後、汗を流しに「日奈久温泉ばんぺい湯」へ。やはり温泉は気持ちがいいですね。

日奈久のお土産は、「ちくわ」です。

  

   


九州国際スリーデーマーチ2日目40kmコース(熊本県八代市)

2017-05-15 20:51:26 | オールジャパンウオーキングカップ

昨年は、熊本地震の影響で中止になりましたが、2年ぶりの大会です。今年は、「熊本地震復興祈願」というテーマで5/12~14までの3日間開催されました。

私は、2日目からの参加でしたが、1日目の初日は、雷雨の為、途中で中止と言うアクシデントがあったそうです。

そのせいか、初日に行われた地元八代出身の八代亜紀さんのミニコンサートでは、ヒット曲「雨の慕情」は歌われなかったそうです。(納得です)

マイカーで福岡を4:15に出て、会場に着いたのが6:30.前日の雨で会場内の芝生広場は、水溜りの状態。スタッフの方が水中ポンプや水かきドライヤーなどで懸命に作業されていました。

  

7:30 スタート。今日は、長崎からSさんが20kコースに参加されていましたので、40kと20kの分岐点まで一緒に歩きました。

  

コースは、南九州道とオレンジ鉄道の間を歩きます。山道では、前日の雨でしょうか、道一杯雨水が流れていて、川のようになっています。

  

3,8km地点に「平川瓦窯跡」がありました。南九州西回り自動車道建設工事に伴う発掘調査によって発見された「だるま窯」と呼ばれる瓦を焼いた窯跡の遺跡です。

ウオーキング会場近くには、昔(加藤清正時代)、麦島城があり、その城の瓦に使われたそうです。

  

最初のチェックポイントは、八代ふるさと物産村です。給水所がありましたが、ここはパスしました。

8,3km地点が40k、20kの分岐点です。ここでSさんと別れ、一人旅(家内は、今日から昔の職場の人とOB会の旅行に参加)です。

  

コースは、日奈久温泉に到着。ここが2回目のチェックポイントです。

日奈久温泉は、応永16年(1409年)浜田六郎が、父の刀傷を癒そうと神に祈り温泉を発見したと伝えられるところから孝行泉とも呼ばれています。

熊本県下で最も古い歴史を持つ温泉です。江戸初期に細川家の藩営温泉に指定され、八代城主や参勤途上の島津公も、よくここを利用しました。

昭和5年には漂白の俳人種田山頭火も日奈久温泉の織屋旅館に宿泊し、その日記の中に「温泉はよい、 ほんとうによい。ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、

いや一生動きたくないのだが・」と日奈久を称賛しております。(日奈久温泉HPより)

  

 

  

「官軍上陸の地」という石碑が建っています。明治10年(1877)3月西郷隆盛率いる薩軍は、熊本城の包囲や、田原坂の戦いで兵力をここに集中させていました。当時日奈久は、薩軍の糧食基地でしたが、

3月19日、日奈久南方河口から艦砲射撃などで官軍数百の兵が上陸し、八代での戦いに及んだそうです。

来年の大河ドラマ「西郷どん」ですが、この地もドラマに登場するでしょうか?

  

日奈久から海岸線に出て、国道3号線を南下します。海の向こうには、雲仙普賢岳も見えます。

薩摩街道は、筑前国(福岡県)山家宿をスタートして鹿児島までの街道です。

   

八代市二見の所に日奈久名物「日奈久ちくわセンター」があります。もう、約50年ぐらい前でしょうか、九州自動車道が開通する前までは、この国道3号線を走って鹿児島へ行っていました。

帰りもこの道を通って福岡に帰っていました。このちくわセンターでちくわを買って休憩するのが日課でした。高速道が開通し、この国道も車の通行が減り、いつの間にか、このちくわセンターも閉店するように

なりました。昔を知る者にとって懐かしいです。(現在日奈久のちくわは、高速道PAでも売られています)

 

15km地点の二見コミュニティセンターが接待場所になっています。お漬物やタケノコ、甘夏ジャムをつけたビスケットなどが振る舞われました。

    

  

再び歩き出します。遠くから保育園児の一行がやってきました。手作りの白い象さんの山車?を引いています。地元保育園児の「花祭り」だそうです。

可愛い園児たちとハイタッチをして別れました。(風車と鯉幟を付けていますので変なおじさんと思われたかな?)

  

このあたりから、緩やかですが、上り坂が続きます。

  

坂本町に入ってきました。八代市と合併するまでは、「坂本村」でした。まだ、坂本村の方が馴染んでいます。

「百済来(くだらぎ)」という珍しい地名があります。その昔、朝鮮の百済から来られた人がいるのかなと地元の方に聞きますが、そうではないとのこと。

ウィキペディアで調べてみると、

日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。

父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。

敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで

船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、

同年12月に百済人によって難波で暗殺された。物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたたとされる。

聖徳太子伝暦や今昔物語などでは、聖徳太子が師事した、百済の高僧であるとされている。

墓は父阿利斯登の縁の地である熊本県八代市坂本町百済来下馬場の百済来地蔵堂前に現存する 大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、磨崖仏を建立し、

坊津にその名称の起源となった龍厳寺(後の真言宗一乗院)3坊を創建したとされている

この百済来地蔵堂から地名になったのでは、ないでしょうか?また熊本葦北郡には、白木という地名もあります。新羅のことでしょうか? 

昨年埼玉・飯能を歩いた時、「高麗神社」がありました。ここは、高句麗の王様を祀った神社です。このように古来から朝鮮半島と日本は結びついていたのですね。調べてみればもっとあるかもしれません。

   

  

百済来湧水公園が3回目のチェックポイント。ここが昼食会場になっています。私も昨日福岡で買ったパンを頂きました。

 

パンを食べ終わり、歩きだそうとすると、地元のケーブルテレビの方からインタビューを受けました。残念ながら八代区域だけの放映だそうです。

   

球磨川に架かる「葉木橋」を渡ります。球磨川は、日本三大急流の一つで昨日からの雨で水嵩が増しています。

 

荒瀬ダムは、昭和30年(1955)に完成しましたが、2012年より解体工事が行われています。

  

球磨川沿いに歩きます。坂本駅、グリーンパーク坂本と、町の中心部を歩きます。

     

30km地点。このころから蒸し暑くなり、しきりに水を飲みますが、喉の渇きは一向に収まりません。

  

九州自動車道の高架下を通ります。

  

  

肥薩線段駅

  

歩いていると後ろから列車が通り過ぎて行きました。見ると、「かわせみ、やませみ」です。慌ててカメラを向けますが、後ろの方しか、撮れませんでした。

遠くに新萩原橋が見えてきました。ここからが長いです。疲れもピークに達しています。

  

新萩原橋を渡るとゴールはすぐそこです。ですが、この橋、1kmぐらいあるのでしょうか、長いです。

15:20 どうにかゴールしました。

  

5/13 40kmコース(実際は41,3km)GPSです。

 

 


第31回飯田やまびこマーチ2日目20kmコース(長野県飯田市)

2017-05-01 16:09:06 | オールジャパンウオーキングカップ

4/23(日)第31回飯田やまびこマーチ2日目。今日は、朝が寒いです。放射冷却のせいか、朝5時の気温は3度です。

気温はこれから徐々に上がって20度ぐらいまでにはなるそうです。

 

今日は、「野底山森林公園から元善光寺を抜け田園地帯を巡るコース20km」に参加します。

  

今日も30k、20k同時スタートです。

スタートの時には、「長野県民の歌 信濃の国」が流れてきます。長野県民は、皆さん歌えるそうです。 信濃の国は、十州に 境つらぬる国にして・・・・・・ 

この信濃の歌は、福岡では、ラジオで信濃観光PRのCMで時々流れています。力強い歌が印象に残っています。

長野県民の歌 信濃の国はこちらです。  

https://www.youtube.com/watch?v=F-VWrBooua8

  

大宮諏訪神社を通り、中央道のガードを潜り、風越高校付近から坂道になります。

  

  

  

約5km地点の山田公民館が最初のチェックポイント。中学生がボランティアでチェックのスタンプを押してくれました。

気温もだいぶん上がって、暑くなりました。出発式の時に着ていたジャンバーをここで脱ぎます。

 

この近くには、野底山森林公園になっており、キャンプなどが楽しめます。また、日本固有の「モリアオガエル」の生息する場所としても知られています。

  

少し休憩して再び歩き出します。真っ青な空、桜、リンゴの花など楽しみながら歩きます。途中、「熊出没注意」の看板を発見!

   

浅間塚(せんげんつか)の一本杉です。樹高22m、胸高周囲4,2m、樹齢600年以上で飯田市の天然記念物に指定されています。

コースは、段々山の中に入って行きます。

  

「ふるさと大橋」では、ウオーキング会場近くにあった人形とけい塔と同じ人形がありました。

ここからは、南アルプス「仙丈ケ岳」(3032m)が見られます。 

   

下伊那郡高森町に来ました。高森町のマンホールは、不動の滝、瑠璃寺、市田柿、天竜を下るカヌーなどが描かれています。

干し柿のブランド名「市田柿」も高森町生まれだそうです。

 

     

更に先へ進むと、20k、30kの分岐点です。分岐点から中央道を潜ると、桜の綺麗な神社があります。「牛牧神社」です。

牛牧神社の沿革によれば、永享十二年(1440)次郎城主牛牧氏は信濃守護小笠原政康に従い下総国結城城攻略の戦役の従軍のおり武人の守護神たる八幡宮を祭祀した。

その後何時の世か諏訪明神を合祀し今日に至っている。

神社境内には、樹高32m、幹周り5,5mの大杉がまっすぐ一直線に立っています。樹齢600年とか。

  

このあたりが、南アルプスのビューポイントです。

拡大すると、

  

このうち、「北岳」は、あまり知られていませんが、日本で富士山に次ぐ2番目の高さを誇っています。(日本で2番目に高い山はどこか?とクイズ番組でよく出題されます)

間ノ岳は、日本で4番目です。このように、3000m級の山々が連なっています。

  

高森町の松源寺は、大河ドラマ「おんな城主直虎」ゆかりの地です。

松源寺の案内看板を見ると、松源寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、永正8年(1511年)~永正10年(1513年)頃、松岡城主伊予守貞昌によって創建されました。

開山の文叔瑞郁禅師は、京都妙心寺の24世住持になられた名僧で、井伊家の菩提寺である龍潭寺を開山した黙宗瑞淵禅師は、文叔瑞郁禅師の弟子になることから、文叔瑞郁禅師を

龍潭寺拝請開山に迎えています。

 天文4年(1545年)、直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)は、今川義元に命を狙われたため、この法縁により、信州・市田郷の松源寺に逃れました。そして弘治元年(1555年)に井伊谷に戻る迄の

10年余をこの市田郷で過ごしました。

 現在の松源寺は、江戸時代(寛文6年(1666年)とされる)に現在地(松岡城西総構跡)に再興されたもので。亀之丞が逃れた当時は、ここから西方2kmほどの地、牛牧の「寺山」地籍にありました。

3月に浜松の井伊谷に行きましたが、井伊谷から高森町まで直線距離で120km。今でこそ車でしたら2時間半ぐらいで行けますが、当時は、山をいくつも越さないと行けません。

少年期病弱だった亀之丞が、よくここまで歩いて逃がれて行きましたね。

    

春は、桜の名所としても知られています。

  

松源寺の朱印には、「望郷」と書かれています。この地から井伊谷を思いながら「青葉の笛」を奏でていたのでしょうか? 

    

松源寺を出ると、「松岡城址」です。

平安末期から天正16年(1588年)、徳川家康により改易されるまでおよそ500年間に渡り、この地を支配した松岡氏の居城で、高森町史跡に指定されています。

段上の突端に位置し、西北は、自然の深谷に、東側は、急峻な傾斜地で、まさに自然の城壁といえます。更に多くの空堀や土塁などが施され、防備を強固にしています。

  

 

松岡城址を下りていくと、急な坂道です。これは、「帯曲輪(おびくるわ)」と言って城の山腹に設けられた帯状の細長い曲輪のことで、斜面を急にして敵が攻め上るのを困難にすることを目的に築かれました。

  

  

どうにか、降りてきました。高森町のマンホールは、「市田柿」がデザインされたものもありました。しばらく歩くと、「元善光寺」です。ここの花桃も綺麗です。

  

元善光寺は、推古天皇十年に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、

難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。

その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との

御誓願を残されました。そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。

御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。(元善光寺HPより)

  

    

元善光寺の横の坂を上って行くと、「麻績(おみ)の里」です。ここが2回目のチェックポイント。

  

麻績神社は、一村一社として長年受け継がれています。

座光寺地区の約1400戸が氏子となり、毎年、元旦祭、春祭り、秋祭り、勤労感謝祭の4大祭を開催しています。

麻績という言葉は、麻を積むというところから来ていて、麻を作ることができる豊かな場所という意味で、飯田市松尾から松川町までを指します。

元々は八幡社とだけ呼ばれていましたが、座光寺地区の大地主で、有力者であった、北原稲雄氏が"麻績"という言葉を大変気に入り、明治6年から神社の名称に使うようになり、現在に至っています。(信州JAより)

 

旧座光寺小学校(麻績学校)は、歌舞伎舞台と学校が一体となった珍しい建物です。

この麻績学校の前にあるのが、舞台桜です。普通の枝垂れ桜は、花弁が5枚ですが、舞台桜は、半八重紅彼岸枝垂れという、希少種で花弁が5枚~10枚までの咲き分けで

様々な数の花びらを持つ枝垂れ桜で、全国でもここだけしかないそうです。

  

飯田の市街地に戻ってきました今日は、リンゴ並木を会場に、各地のゆるキャラが飯田に集合しているそうです。歩いている時もいろいろなゆるキャラに出会いました。

   

   

11:25 ゴール  

   

3月の倉敷ツーデーマーチから始めました「日本マーチングリーグ(JML)」、久留米、飯田と、3回完歩しましたので「銅メダル」を頂きました。

お腹もすいたので会場のスタッフさんにお薦めのお店を聞くと、「上海楼」を紹介してくれました。

    

先ずは、ビールです。キリン「信州に乾杯」。

中華そばは、(並)を注文しましたが、麺の多さが凄いです。博多でラーメンを替え玉するより多いみたいです。今まで豚骨ばかり食べていましたので新鮮な味がしました。

  

今日(4/23)のGPSです。

これでオールジャパン達成まであと3県になりました。


第31回飯田やまびこマーチ1日目「天竜川舟下りコース21km」(長野県飯田市)

2017-04-27 10:42:36 | オールジャパンウオーキングカップ

第31回 飯田やまびこマーチ」1日目。

コースは、「名勝天竜峡までの起伏に富んだ市内一周コース」40km、「ウオーキング途中で天竜舟下りを楽しめる特別コース」舟下り21km、鳩打林道の豊かな自然と南アルプスを望む大平コース22km、

南アルプスを正面に河岸段丘を下るコース20km、自然に親しむ公園巡りコース10km、赤石コース5kmの6コースです。

私達は、「天竜舟下りコース」にエントリーしました。7:00 40k,大平コース、舟下りコース同時スタート。

   

スタートして舟下りコースは、すぐ右折します。しばらく歩くとリンゴの木が見えてきます。そういえば、飯田市のマンホールのデザインは、「リンゴ」です。

   

村の守り神の「道祖神」です。信州には、この横に石仏があるのですが、ここにはありませんでした。

飯田の人は、花が好きな方が多いみたいです。家の前には、花がたくさんありました。

 

約1時間ぐらいで天竜川舟下りの「弁天港」に到着。ここが最初のチェックポイントです。

  

港内で救命具の説明を受け、いよいよ乗船です。私達は1号舟をゲットしました。

  

天竜川は、流路213km。日本第9位の長河です。諏訪湖から発した水が伊那谷を経て遠州灘に曲りくねった激流で進む様を天に昇る龍の如しと例えられて命名された川です。

舟下りは、弁天港から時又港まで距離にして6キロをおよそ35分かけて下ります。今日は、数日前の雨で水嵩も増しており、少し早くなるかもしれません。

  

舟の中では、昔、市丸さんが歌った民謡「天竜下れば」が流れています。歌詞は、下記です。

https://www.youtube.com/watch?v=3QikVA6WAUM

  

 この舟下りをYoutubeに投稿しました。こちらです。  

https://youtu.be/wJJT1ufLe0E

    

下船後、天竜川沿いに歩きます。

  

  

遠くの山々を見ると、まだ冠雪しています。これが「南アルプス」です。

 ※ 日本アルプスは、3つに分かれています。北アルプス(飛騨山脈)・・・・富山・岐阜・長野・新潟の4県にまたがる山脈。中央アルプス(木曽山脈)・・・・長野県に存在する山脈。南アルプス(赤石山脈)・・・・長野・山梨・静岡の3県にまたがる山脈。

  

 

天竜峡の所では、地元の「昭和乙女の会」の皆様による接待がありました。注連縄は、龍の形をしています。

  

天竜峡の橋を渡ると「天竜ライン下り」があります。これは、天竜川舟下りとは、別で、天竜峡から唐笠港まで下るコースです。

  

   

天竜川沿いには、「天竜峡桜街道」があります。天竜橋までの2kmの中に、約200本の桜が植えられています。枝垂れ桜、八重桜・・・・・・

桜の種類も多く、いろんな花が楽しめます。今日は天気も良く、ロケーションもOK、絶好のウオーキング日和です。

  

  

途中、「トン汁のサービス」という看板を見つけ、行ってみると、リンゴの入ったトン汁でした。

リンゴの入ったトン汁は、初めてです。何という贅沢でしょうか・・・・・(中に入っているリンゴの種類は、「ふじ」だそうです)

アツアツで本当においしかった。今田平様有難うございました。

  

  

桜街道は、まだまだ続きます。桜の木には、桜の名前の入ったプレートが掲げられており、なんという桜か、すぐわかるようになっています。

 

  

約200本の桜を終え、天竜橋を渡ります。橋から下を見ると、川下りの舟が急流を下って行きます。これを私達も下ってきました。こんなに急だったのですね。

橋の上から大きく手を振ると、応えてくれました。

  

  

橋を渡り、時又の町中へ。道が狭くなっており、車に気をつけて歩きます。民家の庭先には、リンゴの花が咲いていました。因みに飯田市の市木は、リンゴの木だそうです。

 

 

大きな病院の横を通り、再び天竜川に出てきます。このあたりの花桃の花が綺麗です。

   

2回目のチェックポイントは、松尾公民館。ここまで約17km。中学生のボランティアの方からチェックを受けました。

ここでもいろいろな接待がありました。冷凍ブドウ、お漬物、珍しいものと言えば、イチジクの煮たもの。これは、美味しかったです。

  

  

双体道祖神を見つけました。長野県には、このような双体道祖神が多いそうです。

  

コースは、飯田市街地に入りました。ゴールまであと1,5kmぐらいです。

天空の城という温泉施設があります。かつて、ここに飯田城があった所です。

ここからは、まむし坂と言って、急坂です。ここを越えるとゴールはすぐそこです。

 

まむし坂をどうにか、休まずに登ってきました。登った所の左側が、飯田市美術博物館、右側が、一見昔の警視庁を思わせるような建物が「追手町小学校」です。

1929年(昭和4年)建設ですので約90年の歴史を持っています。

  

リンゴ並木通りに入りました。飯田市のリンゴ並木をパンフで見ると、、1947年(昭和22年)4月に発生した「飯田の大火」は、城下町の古い面影を残す市街地の3分2を焼き尽くしました。

復興に向け、防火用道路として「裏界線」が設けられ、防火帯道路の中央には、「自分たちの手で美しい町をつくろう」と地元中学生の発案に基づいてリンゴの木が植えられました。

札幌の街路樹の美しさを校長から聞いた飯田東中学校の生徒たちは、飯田にも美しい「実の成る街路樹を」と考え、1953年(昭和28年)、40本のリンゴの苗木が生徒たちによって植えられました。

春は、可憐な白い花が並木を彩り、秋には真っ赤に実ったリンゴが行き交う人の目を楽しませます。リンゴの木の手入れは、現在でも飯田東中学校の生徒たちが行っています。

周囲には、各種店舗が並び、定期的にイベントも行われ、市のまちづくりの象徴としても欠かせない存在です。(飯田市観光協会 丘の上散策マップより引用)

  

12:28 舟下りコース21kmゴール

  

このあと、16:00からのウェルカムパーティ参加の為、市内をブラブラ散策しました。(つづく)

4/22舟下りコースGPS.弁天港から時又港まで舟下りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第20回久留米ツツジマーチ2日目20km日本三大火祭り鬼夜・大善寺コース

2017-04-19 05:04:54 | オールジャパンウオーキングカップ

4/16 第20回久留米ツツジマーチ2日目。

2日目は、40k「酒蔵と伝統工芸城島コース」、20k「日本三大火祭 鬼・大善寺コース」、10k「久留米城下町シティプラザコース」、5k「甍が連なる寺町1万歩コース」です。

私達は、今日も20kmコース。スタートは、40kmコースの人とフライングスタートします。

7:30スタート。

  

先ず、筑後川に出ます。

筑後川は、流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートルの河川で規模としては九州地方最大の河川です。

利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれています。

  

1,8km地点は、5kmコースのチェックポイント。給水所でもありますが、ここは、スルーします。

  

久留米大学医学部を通り、ブリジストン通り~篠山城址を通ります。篠山城は、有馬氏の居城。15代当主有馬頼寧氏が日本競馬競走会理事長の時、競馬の「有馬記念」が出来ました。

  

JR久留米駅。ここには、直径4m、重量5tの世界最大級のタイヤが展示されています。

また、駅前には、久留米出身のからくり儀右衛門(田中久重からくり太鼓時計があります。

日本の近代技術の発展に大きく貢献した、郷土の偉人「からくり儀右衛門」こと田中久重が製作した「太鼓時計」をモチーフに、平成11年に設置されました。

8:00~19:00の間の毎正時毎に、時計盤が回転し、儀右衛門人形が現れ、「赤いスイートピー」や「涙のリクエスト」、「上を向いて歩こう」「筑後川」など久留米市出身やゆかりの方々の音楽(BGM)が流れる中、

無尽灯、弓曳童子、童子盃台、万年時計などの発明品を紹介します。その後、からくり儀右衛門(田中久重)は、明治8年(1875)東京・銀座に工場兼店舗を構えました。

これが、株式会社東芝の創業です。

現在、新聞紙上を賑わせている東芝ですが、創業者のからくり儀右衛門(田中久重)が、この現況をみたらどう思うでしょうか?

   

JR久留米駅から構内を通り、坂本繁二郎旧家を通ります。

坂本繁二郎は、「放牧三馬」「帽子を持てる女」など、数多くの作品を制作し、74歳で文化勲章を受章した近代洋画家の巨匠、坂本繁二郎は、明治15年(1882年)、旧久留米藩士の子として、

市内の京町に生まれました。この繁二郎の生家は、幕末から明治初期にかけて建てられて、その後、増改築が行われています。また、久留米市に残っている唯一の武家屋敷であり、

平成15年7月には 久留米市指定有形文化財 になっています。

市では、老朽化が進んでいた生家を昔の姿に戻すべく、平成18年度から平成21年度にかけて解体復原工事を行い、平成22年5月1日から一般公開をして周知活用に努めています。

復原にあたっては、古い部材を極力使用し、伝統的な工法で、繁二郎が上京して実家を離れた20歳の時、明治35年(1902)頃の姿に建て直しています。また、生家には、

繁二郎の高等小学校時代からの親友、青木繁が居候した茶室も復原し、彼らが描いたといわれる複製の襖絵も展示しています。(久留米市HPより)

  

5,3km地点が水天宮給水所。全国水天宮の本宮です。明治維新の中心的人物の真木和泉守は、この水天宮の22代宮司でした。

  

ここから、玉垂宮までは、ビュースポットもなく、ちょっと急ぎ足になります。

  

11,5km地点が、大善寺玉垂宮。最初のチェックポイントです。日本三大火祭りの一つに数えられる「大善寺玉垂宮の鬼夜」は、大晦日の夜から正月7日まで行われる「鬼会(オニエ)」の

最終日に行われる行事で、1600年余りの伝統があり、日本三大火祭りの一つに数えられるとともに、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

仁徳天皇56年(368)1月7日、勅命により藤大臣が、当地を荒し人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪を、闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取って焼却したのが始まりだと言われています。

  

 

玉垂宮が20k、40kの分岐点。ここでハプニングが・・・・・・一緒に歩いていた家内が体調の不良を訴えましたので、係りの方に西鉄大善寺駅までの道順を教えてもらい、そこまでは歩けると言いますので

電車で西鉄久留米まで行き、西鉄久留米駅からタクシーで会場に戻るように指示しました。

  

玉垂宮を出て、独り歩きになりました。このコース何回も歩いていますので大体の地図は頭に入っています。少し、スピードを上げます。

コースは、田んぼ道を通り、国道209号線へ。

  

国道209号十二軒屋信号から右折。久留米市立久留米商業高校が最後のチェックポイント。

久留米商業高硬式野球部は、春5回、夏4回の甲子園出場を誇り、福岡県南部の強豪校です。

ここで自分の孫みたいな高校生とツーショットを撮りました。ゴールまであと4km。

   

ただ今、10時45分。この調子だと11時15分~20分でゴールできます。

ここでもう会場に戻ったであろう「家内」にメールしますが、応答がありません。どうしたのだろう・・・・・・・・・????

3号線諏訪野町の歩道橋から西国分小学校の校庭を通り、諏訪野公園へ。ここには、もう鯉幟が泳いでいました。

  

あと2kmの地点で家内からメールの返答。今、ゴールしたそうです。

11:20 私もゴール 

今日は、日中の気温が25度ぐらいまで上がり暑かった・・・・15時ぐらいには、28度まで上がるとの予報。

ゴールしていただいた、アイスが非常においしかった。生き返ります。

  

ゴールして帰り道、久しぶりに久留米・宮の陣のラーメン屋さんに立ち寄りました。

今週22日から長野県飯田へ遠征。長野県は、私生まれて〇〇年、一度も行ったことがありません。楽しみです。

今日、21,8kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第20回久留米ツツジマーチ1日目20km(福岡県久留米市)

2017-04-18 15:11:14 | オールジャパンウオーキングカップ

4/15~16 第20回久留米ツツジマーチに参加しました。

昨年は、この大会開始前に熊本地震が発生し、急遽中止になり、2年ぶりの開催です。今年は、20回の記念大会と言うことで記念品には「Tシャツ」が配られました。

ツツジマーチ20年の歴史の冊子も配られました。

  

1日目の15日は、40km「歴史の道 草野・善導寺コース」、20km「大パノラマ 森林つつじ公園コース」、10km「久留米市美術館 石橋文化センターコース」、5km「つつじ祭り1万歩コース」です。

私は20kmにエントリー。いつものように40kmコースと一緒にフライングスタートします。

  

会場を出ると、いつもは、花水木の花が綺麗ですが、今年は花が遅れているみたいです。

 

石橋文化センターの先から右折、高良川沿いを歩きます。このあたり、道幅が狭いです。

  

5,3km地点が高良台給水所。ここには、「名物男」とつけた元気のよいおじさんがハイタッチで迎えてくれました。

  

給水所を過ぎるとこのコース最大の難所の山登りが待っています。

 

例年このあたりに来ると、満開のツツジが迎えてくれるのですが、今年はまだ蕾が多く、全体でみれば、2分咲きぐらいでしょうか?

2年前の写真も用意しました。

  

9,4km地点 森林ツツジ公園が最初のチェックポイントです。ここでは、久留米で作られている「黒棒」を頂きました。

 

  

ツツジ公園からは、下り坂になります。道の両側には、野の花が咲いています。

  

20k、と40kの分岐点に来ました。40kは、ここから善導寺、浅井の一本松を廻って行きます。20kは、山川小学校に向かいます。

フライングスタートしたせいか、20kコースの人は、少なくなってきました。このあたりも野の花が咲いていました。

  

  

15,3km地点、山川小学校が2回目のチェックポイント。地元の皆さんから、白玉ぜんざい、お味噌汁が振る舞われました。

 

  

20分ぐらい休憩し、再びスタート。あと7km。現在10:30。ールは、12時ぐらいかな?

  

JR久留米大学前あたりは、御井校区と呼ばれています。御井校区は筑後川と共に久留米のシンボルである高良山を控え、筑後国の中心であった国府が所在した町として府中の名を残し、

高良大社とその神宮寺である高隆寺の門前町として、又、宿場町としても栄えた歴史を持っています。 主な遺跡・文化財を列記するだけでも、国の史跡に指定された高良山神籠石を始めとして、

祇園山古墳に代表される山麓の古墳群、平安時代末頃の政治などの中心であった筑後国府跡と推定される横道遺跡跡、南北朝時代の懐良親王親王や菊池氏戦国時代の大友氏や豊臣秀吉が陣を敷いた

毘沙門嶽城や吉見嶽城などの山城跡、全山に広がる社寺遺跡や、府中宿本陣跡など久留米の歴史を語る上で欠かせない奇矯な遺跡・文化財が並ぶ、市内でも有数の校区です。(久留米市教育委員会HPより)

   

百年公園に来ました。ここからゴールまでは、すぐ近くです。公園内では、まだ花見をされている方がいます。

  

11:55 ゴール 

  

ゴール後の抽選会は、シューズを狙っていましたが、ハズレでした。 

このあと、2日前の新聞に「浅井の一本桜」が綺麗ということで、車を走らせました。

会場から約20分で浅井の一本桜に到着。40kmコースは、ここがコースに組み込まれているのですね。何人かのウオーカーの方を見かけました。

  

浅井の一本桜は、樹齢100年の大木です。台風などで幹が折れたり、空洞化になったりで、鉄パイプの補強が行われています。

     

1日目21,8kmのGPSです。