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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

『天領日田のお雛祭り』(大分県日田市)

2015-02-23 22:48:57 | 旅行

アクティブ65を使い、別府~大分~由布院~日田と鉄道の旅を楽しみました。由布院から日田へは、あの人気電車「 ゆふいんの森」号に乗りました。

 日田市豆田地区は、江戸時代以降に建てられた建築群が現存し、「歴史的町並みが評価され、平成16年に「重要伝統的建築物群保存地区」として国の選定をうけました。

江戸幕府の直轄地(天領)として栄えた日田市には、莫大な財をなした豪商たちが京都や大阪などで買い集めた爛漫豪華なひな人形が現存しており、中には京都屈指の人形師の手による品々も残っています。     

次に行ったのは、日田醤油の雛御殿。

こちらには、江戸時代からの三千体の古いひな人形が飾られています。

また、民家の軒先には、このような「しめ縄?」が掲げられています。これは、当地、祇園神社のお守りだそうです。

   

日田、豆田町のひな人形の写真を整理しましたが、あまりにも多く、どの写真も捨てがたいので、デジブックにしました。

こちらです。↓ ↓  ↓

 

デジブック 『天領日田のお雛祭り』


JR九州アクティブ65(1日目)

2015-02-21 20:31:18 | 旅行

JR九州の「アクティブ65」を使い、鉄道の旅を楽しみました。

アクティブ65は、JR九州管内の新幹線、特急、普通電車が3日間乗り放題で、北部九州用(@8230)と全九州用(@15430 )があります。

【第一日目】

◎博多発6:23 ソニック1号で別府へ。別府着8:32.

   

別府では、大正時代から続いているパン屋さん「友永パン屋」さんに行ってきました。ここの名物「アンパン」は、何か懐かしい味がします。お値段も良心的で1個90円だったかな?

入って右側に整理券があり、その番号を呼ばれるまで待ちます。

  

時間があったので別府駅前の「駅前高等温泉」に行きました。料金は、@200で「熱い湯」と「ぬるい湯」があり、ぬるい湯の方に入りました。ぬるい湯の方は、浴槽が2つあり、1つは、ぬるい湯、もう1つは、43℃~45℃ぐらいの

熱い湯でした。先に、ぬるい湯に入り、それからちょっと熱い方に入りました。朝から温泉なんて贅沢ですね。

   

◎別府発10:14 ソニック5号で大分へ。大分着10:24。大分(10:49)から久大線普通電車で由布院(11:52)へ。この車内で、先ほど別府で食べたアンパンをいただきました。美味しかったです。

 由布院(12:09)からは、「ゆふいんの森2号」で日田へ。日田着13:04。ゆふいんの森号は、外国の方が多く、ほとんど満員状態です。速めに指定席を購入してよかったです。

   

  

  

 日田では、「日田雛祭り」を見て回りました。(後日ブログアップ予定)。

◎日田発(15:17)特急ゆふ4号で筑後吉井(15:38)へ。この電車は、満員で日田から吉井までの21k間、立っていました。

  

  

 吉井は、白壁の町。ここでも「吉井雛飾り」が行われていました。(この分も後日ブログアップ)

◎筑後吉井発(17:13)の久大線普通電車で久留米へ(17:46)。久留米(18:05)からは、九州新幹線つばめ336号で博多(18:24)へ。

 

  

乗換7回、総行程約415km、乗車時間330分(5時間半)の旅でした。(疲れました)

 

 

 


下田の町を散策②「吉田松陰編」(静岡県下田市)

2015-01-14 05:19:52 | 旅行

①からの続きです。 

宝福寺から了仙寺に向かって歩きます。了仙寺から左折し、しばらく行くと「ペリー艦隊上陸の地」があります。

  

嘉永7年(安政元年1854年)再来したペリーと幕府の間で持たれた4日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは、調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて、

安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たせている点にぺりーは、満足した。条約締結により即時開港となった下田にペリー艦隊が次々に入港した。

そしてペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として「上陸の碑」が建てられた。(案内文より)

上陸の碑の横には、「日米友好の火」があります。2004年日米友好150周年によせて、当時のジョージ・ブッシュアメリカ大統領からのメッセージも刻まれています。

 約2000万年前、伊豆は本州から数百km南、現在の硫黄島付近の緯度にあった海底火山群でした。フィリピン海プレートの上にできた海底火山や火山島はプレートとともに北に移動し、

やがて本州に衝突して現在のような半島の形になりました。伊豆南部の広い地域は、噴火した海底火山や火山島によって作られた土地です。下田の市街地をとりまく二つの特徴的な山、寝姿山と下田富士は、かつて

火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿をさらした火山の根(火山岩頸)です。

   

開国記念館の前にある「下田小学校」が、明日(1/10)行われる下田水仙2DMのスタート地点です。

了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、1855年5月、日本側全権林大学頭等とペリーの間に和親条約付録下田条約がこの寺で調印されました。了仙寺は、玉泉寺と共に米人休息地となりました。

また、了仙寺では、ペリー艦隊の音楽隊が演奏を行い、これには、町民も見ることが許され、当日は、了仙寺の境内・周辺が人で埋まったと言われています。これが日本で最初の洋楽のコンサートです。

 

   

さて、幕末の下田で忘れてはいけないのが「吉田松陰」。

安政元年(1854)、吉田松陰(当時25歳)は、足軽の金子重輔(24歳)とともに下田港に来航した米国ペリー艦隊を追って、下田に来ました。3月27日夜、弁天島近くから船を出して、米艦ポーハタン号に漕ぎ着け、熱心に便乗を

懇請しました。兵学者であった松陰は、欧米列強に対抗できる日本国家をいかにつくるかを探求し、米国に行って見聞を広めたい、その目的のために命を賭して密航を企てたのです。

名前も偽名(吉田松陰は、瓜中万二(くわのうちまんじ)、金子重輔は、(いさぎこうだ))を使いました。

然し、対応した通訳ウィリアムスは、政府の許可がない理由で便乗を拒否し、福浦海岸に送り返しました。事敗れた二人は、柿崎名主「増田平右衛門宅に自首。その後下田奉行所に連行され、一時長命寺に拘禁され、

更に平滑の獄に移されました。

下田獄のあと、金子は、病死しましたが、松陰は、江戸、萩(謹慎処分)、江戸と牢獄を転々として1859年安政の大獄で処刑されました。この間、萩では、近隣の青少年を集め、教育を始めました。

これが「松下村塾」です。この中から、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋、前原一誠、伊藤博文などの人物が巣立ちました。

   

 

    

吉田松陰拘禁の跡は、現在下田公民館になっています。句の意味は、「世間の人は、良くも悪くも言いたいように言えばいい。私の誠は、神が知っているのだから」。

尚、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」などを書いたイギリスの伝記作家、ロバート・L・スティーブンソンが、「YOSHIDA TORAJIROU」という本を書いているそうです。

また、今年から始まった大河ドラマ「花燃ゆ」では、1/25放送分でこの下田における松陰のことを放映するそうです。

再び町歩きをします。

町の一角になまこ壁の旅館があります。「松本旅館」です。建てられたのが安政2年(1855)、160年の歴史があります。ペリー来航の時期と重なります。この建物が、ペリー来航から現代にいたるまで下田の歴史を物語っているのでしょうね。

現在でも営業しているのかな???

町を歩くと、目につくのが「干物屋」さん。下田の金目鯛が並んでいました。他にもサンマの干物もありました。

 

  

今日の宿は、市街地から少し入った白浜海岸にあるホテル。

ホテルの窓からは、伊豆大島が見えました。

ホテルの夕食は、下田名物「金目鯛の煮つけ」「金目鯛の刺身」「伊勢海老」「アワビ」でした。中でも金目鯛は、この下田が水揚げ日本一だそうです。九州では、めったに食べることができません。

明日からのウオーキングに備えしっかりエネルギーを蓄えました。

  

 

 

 

 

 

 

 


下田の町を散策①「唐人お吉編」(静岡県下田市)

2015-01-13 14:41:47 | 旅行

1/10~11に行われる「第17回下田水仙ツーデーマーチ」に参加するため、前日の9日から下田に入りました。

下田は、幕末(1854年)に締結された日米和親条約で箱館(函館)と共に開港されました。(下田は、即時開港、箱館は、翌年開港)

町を歩くと開港当時の遺跡が残っています。

  

伊豆急下田駅から歩き出すと、途中龍馬とお吉の看板が立っています。ここが「宝福寺」。どうも龍馬の顔は、大河ドラマの「福山雅治」さんに似ていますね。(笑)

嘉永7年(1854)日米和親条約締結にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれました。

また、文久3年(1863)、宝福寺に滞在中の土佐藩主「山内容堂」に勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許されました。

  

    

 

この宝福寺には、開国で自分の一生を棒にふるった一人の女性の物語があります。

「唐人お吉」(お吉物語)

     ♪  泣いて昔が返るなら

       なんで愚痴などいうものか

       花のいのちは一度だけ

       よしておくれよ気休めは 

この歌は、昭和35年ごろ天津羽衣さんが歌ってヒットした「お吉物語」です。今でも中村美津子さんなどがカバーされています。

私がまだ小学生のころだったかな?ラジオから流れる歌を聞いた覚えがあります。このお吉が「唐人お吉」とは、知りませんでした。

お吉(斉藤きち)は、天保12年(1841)愛知県知多郡内海で生まれ、4歳の時、船大工をしていた親と一緒に下田に移り住みました。14歳で芸者となり、その容姿から下田一の人気者となりました。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、

人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応年(1867年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、

既にアルコール使用障害となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、

哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる。

お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉」で広く知られることとなる。(wikipediaより)

お吉物語の歌の最後のセリフは、「ハリスさんも死んだ。鶴さんも死んだ。今の私には、穴の開いた三味線みたいなものなんだ。どんなにつくろってみたってもう昔の音なんか出やしない。・・・・お酒だよ、お酒おくれ・・・・」

宝福寺の中には、「お吉記念館」があります。この中には、お吉のお墓があり、お吉が使っていた衣装、器、ひな人形などが展示されています。

  

  

写真なんか見ていると、現代でも通用するような美貌の持ち主だったみたいですね。

   

了仙寺近くには、お吉が料理屋を経営していた「安直楼跡」がありました。案内板を見るとご自由に見学どうぞと書かれてましたが、お店は、閉まっており入ることができませんでした。

    

あのころ、真偽は定かではありませんが、お吉は、町の人に妬まれる存在だったと思います。それが、昭和3年発表の十一谷義三郎「唐人お吉」で脚光を浴び、映画や舞台、歌にまでなりました。

今では、観光の目玉として「お吉」を売り出しています。お吉が今、生きていたら、このようなことをどう思っているのでしょうか?

幕末に悲しい一生を送った女性のお話でした。

   辛い浮世の路地裏で

    毒と知りつつ呑むお酒

    下田港のお月様

    明かるすぎますお吉には~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


『京の紅葉2014③』哲学の道を通り「銀閣寺」~「清水寺」

2014-12-04 21:04:21 | 旅行

南禅寺をあとに哲学の道を通り、銀閣寺へ行こうと思います。

途中、東山高校の近くの「永観堂禅林寺」の紅葉が綺麗ですので覗いてみます。

  

  

見事な紅葉ですね  

哲学の道に入りました。「哲学の道」は、哲学者西田幾多郎が散策、思索にふけっていたからこの名がついたそうです。

2年前の3月、京都ウオークでこの道を歩きましたが、桜並木がたくさんあり、桜が咲いたら綺麗だろうな・・・・などと思ってましたが、この道も紅葉が綺麗です。

着物を着た女性に逢いました。てっきり日本人と思ってましたら、外国(中国か韓国)の言葉を話されています。京都では、着物を着て散策するサービスがあります。外国の方も日本旅行の記念になるでしょうね。

    

  

銀閣寺参道に来ました。銀閣寺(ぎんかくじ)は金閣寺と並ぶ京都楼閣建築の代表寺院ですが、正式名称を慈照寺(じしょうじ)といいます。銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政で祖父である

足利義満が建てた北山山荘(金閣寺)を参考に、東山文化の代表東山山荘を造営しました。東山山荘の楼閣建物を「銀閣」と呼ぶことから、寺院全体が銀閣寺と称されています。

  

   

銀閣寺のあとは、バスで清水寺へ。

ここも観光客でいっぱいです。参道を観光客で埋め尽くしています。この人出では、境内に入るのに時間がかかるので清水寺の外側を散策しました。

   

今日(11/24)は、朝から駆け足で京都の紅葉を見てきました。福岡で紅葉の写真を何枚か撮ってきましたが、やはり紅葉の質が違います。

京都の紅葉は最高です。

 

銀閣寺、清水寺の写真をデジブックにしました。こちらです。

 

デジブック 『京の紅葉2014③』


『京の紅葉2014②』南禅寺、

2014-12-03 12:05:15 | 旅行

嵐山のあと、嵯峨野線で三条に行き、それから地下鉄で「蹴上駅」へ。蹴上駅から「南禅寺」までの道路は、紅葉見学の方でいっぱいになっていました。

  

   

奥の方に行ってみると、何やら煉瓦造りの建物が・・・・・

これは、「水路閣」といって琵琶湖の水を疎水させるためのものです。

   

その横には、南禅院の庭園があります。ここの庭園の紅葉は、見事でした。

  

  

    

 この南禅寺の紅葉をデジブックにしました。こちらです。 

 

デジブック 『京の紅葉2014②』


『京の紅葉2014』嵐山編

2014-12-02 05:03:50 | 旅行

11/24は、京都の紅葉見学に出かけました。

人が多いだろうと思い、大阪のホテルを早めにスタートしましたが、人気のトロッコ列車には、もう長蛇の列です。

  

町には、観光用に人力車も走っています。先ず、「天龍寺」に行きましたが、朝早いため開いておらず、外からの観賞です。外からでも見事な紅葉ですね。

   

それから、「宝厳院」。こちらもまだ開いておらず外からの観賞です。

   

嵐山」に着きました。嵐山というと、紅葉ですね。山々が赤く輝いています。陽が射せば、素晴らしい光景でしょうね。

渡月橋を渡ります。この時は、朝早いのでお客さんもまばらでしたが、このあと、渡月橋を渡るだけで40分かかったそうです。

  

この嵐山の紅葉を「デジブック」にしてみました。こちらです。 ↓ ↓

デジブック 『京の紅葉2014』


初めての福井(その3)

2014-09-17 16:08:30 | 旅行

 

以前所属していたSNSに福井・鯖江のYさんがおられました。

彼が紹介したのが、「橘 曙覧(たちばな あけみ)」。

橘 曙覧(1812~1868)は、幕末の福井に生まれた歌人、国学者です。心豊かな歌を詠み、「橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集」を残しています。 

歌の中で最も親しまれているのが、「独楽吟(どくらくぎん)」52首の連作。生活の中にある素朴な「たのしみ」を読み込んだ歌は、多くの人の共感を得ています。

 ガイドブックを見ていたら、「橘曙覧記念文学館」があるそうで、ここに行ってみました。

九十九橋を渡り、愛宕坂を上っていくとこの記念館がありました。

 

      

入場料は、100円ですが、JAFカードを提示すると半額の50円です。残念ながら館内は撮影禁止です。 

独楽吟

たのしみは 草のいほりの筵(むしろ)(しき)ひとりこゝろを靜めをるとき

たのしみは すびつのもとにうち倒れゆすり起
(おこ)すも知らで寝し時

たのしみは 珍しき書
(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時

たのしみは 紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時

たのしみは 百日
(ももか)ひねれど成らぬ歌のふとおもしろく出(いで)きぬる時

たのしみは 妻子
(めこ)むつまじくうちつどひ頭(かしら)ならべて物をくふ時

たのしみは 物をかゝせて善き價惜
(をし)みげもなく人のくれし時

たのしみは 空暖
(あたた)かにうち(はれ)
し春秋の日に出でありく時

たのしみは 朝おきいでゝ昨日まで無
(なか)りし花の咲ける見る時

たのしみは 心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草
(たばこ)すふとき

たのしみは 意
(こころ)にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき

たのしみは 尋常
(よのつね)ならぬ書(ふみ)に畫(ゑ)にうちひろげつゝ見もてゆく時

たのしみは 常に見なれぬ鳥の來て軒遠からぬ樹に鳴(なき)しとき

たのしみは あき米櫃に米いでき今一月はよしといふとき

たのしみは 物識人
(ものしりびと)に稀にあひて古(いに)しへ今を語りあふとき

たのしみは 門
(かど)賣りありく魚買(かひ)て煮(に)る鐺(なべ)の香を鼻に嗅ぐ時

たのしみは まれに魚煮て兒等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時

たのしみは そゞろ讀(よみ)ゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時

たのしみは 雪ふるよさり酒の糟あぶりて食(くひ)て火にあたる時

たのしみは 書よみ倦(うめ)るをりしもあれ聲知る人の門たゝく時

たのしみは 世に解(とき)がたくする書の心をひとりさとり得し時

たのしみは 錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時

たのしみは 炭さしすてゝおきし火の紅(あか)くなりきて湯の煮(にゆ)る時

たのしみは 心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき

たのしみは 晝寝せしまに庭ぬらしふりたる雨をさめてしる時

たのしみは 晝寝目ざむる枕べにことことと湯の煮(にえ)てある時

たのしみは 湯わかしわかし埋火(うづみび)を中にさし置(おき)て人とかたる時

たのしみは とぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時

たのしみは 客人(まらうど)えたる折しもあれ瓢(ひさご)に酒のありあへる時

たのしみは 家内(やうち)五人(いつたり)五たりが風だにひかでありあへる時

たのしみは 機(はた)おりたてゝ新しきころもを縫(ぬひ)て妻が着する時

たのしみは 三人の兒どもすくすくと大きくなれる姿みる時

たのしみは 人も訪ひこず事もなく心をいれて書(ふみ)を見る時

たのしみは 明日物くるといふ占(うら)を咲くともし火の花にみる時

たのしみは たのむをよびて門
(かど)あけて物もて來つる使(つかひ)えし時

たのしみは 木芽
(きのめ)(にや)して大きなる饅頭(まんぢゆう)を一つほゝばりしとき

たのしみは つねに好める燒豆腐うまく煮
(に)たてゝ食(くは)せけるとき

たのしみは 小豆の飯の冷(ひえ)たるを茶漬(ちやづけ)てふ物になしてくふ時

たのしみは いやなる人の來たりしが長くもをらでかへりけるとき

たのしみは 田づらに行(ゆき)しわらは等が耒(すき)(くは)とりて歸りくる時

たのしみは 衾(ふすま)かづきて物がたりいひをるうちに寝入(ねいり)たるとき

たのしみは わらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時

たのしみは 好き筆をえて先
(まづ)水にひたしねぶりて試(こころみ)るとき

たのしみは 庭にうゑたる春秋の花のさかりにあへる時々

たのしみは ほしかりし物錢ぶくろうちかたぶけてかひえたるとき

たのしみは 神の御國の民として神の(をしへ)をふかくおもふとき

たのしみは 戎夷(えみし)よろこぶ世の中に皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき

たのしみは 鈴屋大人(すすのやうし)の後(のち)に生れその御諭(みさとし)をうくる思ふ時

たのしみは 數ある書(ふみ)を辛くしてうつし竟(をへ)つゝとぢて見るとき

たのしみは 野寺山里日をくらしやどれといはれやどりけるとき

たのしみは 野山のさとに人遇(あひ)て我を見しりてあるじするとき

たのしみは ふと見てほしくおもふ物辛くはかりて手にいれしとき

1994年6月、今上天皇、皇后がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を

引用してスピーチをしたことで、その名と歌は再び脚光を浴びることになりました。

曙覧は、家族を大事にしていました。歌にもその思いが表れています。庭園に入ると幼くして亡くした三女健子との仲むつましい姿が銅像になっています。

曙覧は、この自分の家を「藁屋」と称しました。その藁屋に、彼の学を伝え聞いて1865年福井藩主「松平春嶽」が家老の「中根雪江」を案内に出仕を求めに

やってきました。春嶽は、いい人材をどんどん活用してきた方です。他にも熊本藩「横井小楠」を政治顧問として迎えたり、土佐の脱藩浪士「坂本龍馬」と接したり身分などもろとも

しませんでした。今日、学力テストが小、中学校で行われていますが、福井県は常に上位クラスです。このような春嶽の教えが現代にも活きているのでは、ないでしょうか?

因みに我が福岡県は、全国36位でした。

  

橘 曙覧記念文学館を出て、さらに愛宕坂を上ります。

5分ぐらいの所に「足羽(あすわ)神社」があります。この神社は、「継体天皇」をお祀りしています。

継体天皇は、応神天皇五世皇孫で越前の治水事業を行い、平野を開き諸産業を興された男大迹王(すおのみこと)が越前から第26代天皇として即位され

発たれる時に「末永くこの国の守り神とならん」と自ら生き御霊を鎮めて旅立たれました。それより継体天皇が主祭神として祀られています。

境内には、見事な樹齢360年の「しだれ桜」と参道の「タカオモミジ」は、天然記念物になっています。

   

足羽神社を上っていくと「継体天皇の像」があると聞き、また坂を上りました。(結構この坂はきついです)

長い階段を上り詰めた所に継体天皇像がありました。天皇は、越前平野の方を見られているそうです。また、山頂には古墳もありました。

  

足羽山を下りていくと「百坂」というのがあります。勾配がきつくゆっくり下りないと足を踏み外しそうです。

百坂を下りた森の中の左内公園内に「橋本左内の像」がありました。

橋本左内は、幕末の歴史物には、よく出てきます。実家は医者でしたが、のちに松平春嶽の側近として活躍し、将軍の後継問題では、一橋慶喜を推しましたが、

時の大老「井伊直助」らが推す紀州、徳川慶福(のちの家茂)と対立しました。(安政の大獄)

安政の大獄後、左内は捕えられ、斬首されました。時に26歳でした。左内や、龍馬などが生きていたら日本もまた違う行き方をしていたかもしれません。

  

駆け足で福井の町を見て廻りましたが、まだまだ見るべきところがあります。また次回福井に行ったときにでも訪ねたいと思います。

【追記】ホテルで地元の新聞を見ていますとこんな記事がありました。

福井にもクマがいるんですね。知りませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 


初めての福井(その2)

2014-09-16 19:26:03 | 旅行

北ノ庄城跡見学のあと、デパートに立ち寄りました。トマトの「越のルビー」や「鯖のへしこ」、「小鯛の笹漬け」などどれも福井を代表する食べ物ですね。

    

一乗谷朝倉氏遺跡」は、今から500年以上前の戦国時代、朝倉氏が5代103年間にわたって越前を支配した城下町跡です。

最盛期には、1万を超える人口を有し、雄大な城下町とみやびやかな文化の華を咲かせましたが、1573年織田信長によって跡形もなく焼き払われ滅ぼされました。

遺跡の発掘調査は、昭和42年から進められ昭和46年には国の特別史跡に指定され、平成3年には諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、義景館跡庭園、南陽寺跡庭園が特別名勝に指定されました。

平成19年、朝倉氏遺跡出土品のうち、2343点が重要文化財指定を受け、全国でも5例目となる(特別史跡、特別名勝、重要文化財)となりました。

復原町並みでは、塀に囲まれた重臣の屋敷が山際に並び、計画的に造られた道路を挟んで武家屋敷や庶民の町家が形成されていた様子がリアルに再現されています。(大会誌より)

   

500年前の城下町を見事に復元されていました。各コーナーには、ガイドさんも待機され詳しく説明されています。

ただ、欲を言うなら、道路が黒のアスファルト舗装というのは、どうもしっくりいきません。昔の道だと車いすが動けないとか、ハイヒールの方が歩きにくいという難がありますが、

今はカラー舗装もありますのでその点をもう少し考えて欲しかった。

   

 

   

    

 一乗谷川を渡ると「朝倉氏館跡」があります。

   

朝倉氏館は、朝倉家当主が居住した館である。東側後背に山城があり、西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいる。

三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。

館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。

建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かったとされる。(ウィキペディアより)

     

 

一乗谷城は、この山頂にあったそうです。この朝倉氏の遺跡、本当に見事でした。

朝倉氏遺跡を後にし、次は、私の福井で行ってみたい所№2「芦原温泉(あわら)」に向かいました。

福井ICから北陸道を通り、丸岡で降りて15分ぐらいでつきました。入った温泉は、「セントピアあわら」。入浴料を払おうとするとJAF会員には割引があるそうです。

500円→400円でした。

芦原温泉は、1883年明治16年)開湯。一帯はこれといった作物も育たない湿地帯であり、農地の灌漑工事を行っている最中に噴出した。しかし、風景が平凡であるために、

各旅館はこぞって京都から職人を招き、庭園美を競うようになった。また、それに見合った建築、露天風呂などを設え、風情のあるものに仕立て上げた。その後は、落ち着いたたたずまいが人気を呼び、

また永平寺の精進落としの湯、はたまた関西地方の奥座敷として発展を遂げていくが、1956年(昭和31年)に大火に見舞われ、温泉街は烏有に帰す。

その後、新たな都市計画の元に碁盤目上に区画された温泉街が作られた。(ウィキペディアより)

  

お湯もよく、ゆったりした気分になれました。芦原(あわら)は、金津町と合併し、現在「あわら市」になっています。

さて、今晩の夕食は、「越前おろしそば」です。福井県は、そばの生産量が全国5位です。そばに大根おろしをのせて出汁をかけたり、大根おろしに出汁を加えてつけツユにして食べるなど

大根おろしを利用することから「おろしそば」と呼ばれています。

  

先ずは、ビールで。

  

焼きサバ寿司も厚みのある鯖を使ってあり、大変おいしくいただきました。

福井は、2018年国体が開催されるそうです。通りには、国体の垂れ幕がありました。

福井市のマンホール。空襲や地震、水害などから不死鳥のごとく復興したことから福井市のマンホールには、不死鳥が使われています。

  

 

 

 

 

   

  

 


初めての福井(その1)

2014-09-15 17:04:46 | 旅行

「越前、日本海ハイウオーク」に参加するため、初めて福井市に行きました 博多発6:05発ののぞみで新大阪へ。新大阪からは、サンダーバードに乗り換えて福井へ。約5時間の旅でした。

  

 

福井駅でレンタカーを借り福井市内散策です。

福井は、初めてで知らないことばかり。福井に来る前に少し勉強してきました。 昔は、若狭から山形・荘内地方の一部までを「越(こし)の国」と呼んでいました。

福井が、「越前」石川、富山が「越中」、新潟が「越後」。のちに越中が、「能登」と「加賀」に分かれます。

その越前「福井」は、北陸街道の難所である「木の芽峠」「栃ノ木峠」(北陸トンネルの所)を境に「嶺南」「嶺北」の分かれます。これは、木の芽峠が通称「木嶺」と呼ばれたことに起因します。

京に近い方が「嶺南」(敦賀、若狭方面)、「嶺北」は、越前、鯖江、福井、坂井などを指します。

「福井市」は、人口約263000人(福井県総人口約79万人)。戦国時代には、朝倉氏、柴田氏が支配し、江戸初期には、結城秀康(徳川家康の二男)を中心に68万石の城下町でした。

お城は、もうありませんが、福井駅から5分ぐらいの所に「福井城址」があります。

  

福井城址には、現在福井県庁がありますが、ところどころにお城の面影が残っています。天守閣跡の近くには、「福井」の地名の由来になった「福の井」があります。

案内板によれば、井戸の底部まで5,7m、水深1,9m。

  

お城址を散策していると、2018年福井国体のキャラクター「はぴりゅう」に会いました。「はぴ」は、ハピネス、「りゅう」は、福井の恐竜を意味しています。

福井城址の横の公園には、1936年の2・26事件で負傷した福井出身の元首相「岡田啓介」の銅像が建っています。

    

さて、お腹もすいてきましたので、昼食にしようと思います。これも事前に調べましたヨーロッパ軒の「ソースかつ丼」。地元の方に聞いてやっとたどり着いたヨーロッパ軒。

お昼時で多いかな?と思いましたが、すぐ座られました。

   

普通「かつ丼」というと揚げたとんかつに卵をとじているのですが、ここのかつ丼は、揚げたとんかつに独特のソースをかけたものです。

とんかつも一般的には、脂身の入った1cmぐらいの肉ですが、このソースかつ丼は、脂身をとったやや薄いお肉です。御飯にソースをかけるなんて、辛いのでは?と思いますが、なんのなんの決して辛くありません。

隣の席では、日本テレビ系の「けんみんショー」の録画が行われていました。隣に座っていたので少しぐらい映っていたかもしれません。放映は、10/16だそうです。

   

お腹もいっぱいになり、北ノ庄公園に行きます。

この北ノ庄城址は、柴田勝家が、福井を治めた時、北ノ庄城というお城があった所です。案内パンフを見ると、北ノ庄城は、天正3年(1575)に築城が始まり、織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ、9層の天守閣を持つ

日本最大級の城だったそうです。天正11年(1583)羽柴秀吉に攻められ落城。城もわずか8年で「幻の名城」となりました。現在は、勝家とお市(信長の妹)を祀る「柴田神社」、茶々、初、江を祀る「三姉妹神社」があります。

  

 信長亡き後、天正11年(1583)4月、賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いで羽柴秀吉に敗れた勝家は、妻の お市の方(織田信長の妹で絶世の美人と言われ、政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ1男3女をもうけた。

天正10年(1582)10月3人の娘を連れて柴田勝家の許に嫁ぐ)に3人の娘と共に城を出るように諭したが、お市は、3人の娘を秀吉の陣におくったのち、勝家と共に城内で自害した。

残された3人の娘の長女「茶々(淀姫)」は、秀吉の側室となり寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1615)家康軍と交戦することになり、翌元和元年5月、秀頼と共に大阪城中で自害した。

次女「お初」は、従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いののち若狭国小浜城主となる。

三女「お江」は、豊富秀勝などと再婚を重ねた後、徳川二代将軍秀忠の正室になる。

 

   

北ノ庄城址からしばらく市内を歩きます。大手町の所には、大きな神社があります。

これは、「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)」といって、徳川家康、松平秀康(結城秀康)、松平慶永(春嶽)をお祭りしています。別称「越前東照宮」ともよばれています。

大手町の道路を見ると路面電車が走っています。これは、福井鉄道といって、福井から武生(たけふ)までの約21kmを走っています。

  

このあと、レンタカーで一乗谷に行きました。(続く)