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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「多々良川河川敷と陣の越道を歩く」(福岡市東区)

2025-05-26 16:10:15 | ふくおかウォーキング協会

5/14(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「多々良川河川敷と陣の越道を歩く」でした。

陣の越道」とは、鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の親政が実現したのが建武元年(1334)のいわゆる「建武の新政」である。

足利尊氏は、「建武の新政」第一の功臣であったが、不満の武士に担がれ、後醍醐天皇に反旗を翻す。建武3年(1336)足利尊氏は、新田義貞や北畠顕家の軍に京都で破れ、弟・直義とともに

九州に逃れてきた。ここで一発逆転、奇跡の巻き返しに成功する。これが世にいう「多々良浜の合戦」である。

肥後の武将・菊池武敏の大軍(4~5万)が多々良浜に陣を敷いたのが建武三年(1336)三月二日であった。これに対し、陣の越に本陣を構えた足利尊氏の方は、三百であったと太平記に

書かれている。尊氏は、ここ越の陣から菊池方の大軍を遠望し、敗戦を覚悟し、自決も考えたとある。実際は、定かでないが、尊氏方が劣勢であったことは間違いないようである。

しかし、足利勢の士気、気象条件、地元豪族の寝返りなどによって、この戦で足利尊氏は勝利を収める。

その後、尊氏は、東上し、兵庫の湊川の戦いで新田義貞を破り、楠木正成を自害させ、再び京へ戻り、南北朝を開き、室町幕府の礎を築いた。

ここ「越の陣」は、日本史のターニングポイントともいえるところである。(説明看板より)

今日のウォーキングは、この「陣の越道」を歩いて訪ねようというものです。

集合場所は、JR千早駅、参加者は、36名。

今日のマップ

9:30スタート

 

千早陸橋の模型。千早陸橋は、香椎操車場と若宮方面を結んでいた陸橋です。道幅が狭く離合にもひどく神経を使ったと記憶しています。

 

 

この民家にもバラが植えられています。

 

多々良川河川敷にやってきました。

 

 

多々良川河川敷から松崎へ

 

陣の越道は松崎中学校の裏手の方です。ここから上り坂です。かなりしんどいです。

 

 

若宮公民館で休憩。陣の越道はこの公民館の山手の方にあります。公民館を過ぎてから下り坂です。

 

今日は、バラの鑑賞ウォークも兼ねています。このあたりは、お花が好きな方が多いのでしょうね。きれいなバラにうっとりします。

 

 

JR香椎線の踏切を超え「香椎宮」へ

 

香椎宮は、

『古事記』『日本書紀』で、この地で崩御したと伝えられる仲哀天皇を祀り、古代から朝廷に崇敬された神社で、一説に200年代の建立と伝えらます。江戸時代に再建された「香椎造り」と呼ばれる本殿の様式は、全国でもここだけで、国の重要文化財に指定されています。香椎の地名の由来になった御神木があり、神社創建の地でもある古宮や、神功皇后が朝廷の鎮護を願って植えたといわれる綾杉など、見どころが多い香椎宮。
宝物館には古代瓦、古文書、絵馬などが展示。歴代天皇の使者が参拝したという参道には、約800mにわたってクス並木が続きます。「不老水」が湧くことでも知られます。

 

香椎宮からゴールのJR香椎駅に向かいます。

 

香椎高校は、チューリップ財津和夫さんの母校です。

 

12:00 香椎駅にゴールしました。

 

 


ビワイチ徒歩の旅「番外編」比叡山延暦寺へ(滋賀県大津市)

2025-05-25 04:07:24 | 琵琶湖一周徒歩の旅

ケーブル坂本駅から乗車します。

このケーブルは、昭和2年(1927)開業、もうすぐ100年迎えます。

坂本から比叡山延暦寺までの2025mを約11分で結ぶ日本一長いケーブルカーです。

  

ケーブル延暦寺駅

 

今日は、少しかすんでいますが、延暦寺駅からの琵琶湖です。

ここから延暦寺まで上っていきます。延暦寺まではそんなに勾配がきついわけではありませんが、初日の長命寺の808段の石段、2日目の近江八幡から堅田まで25km、

そして今日の堅田~坂本まで10kmと足に疲れが残っているのか、思うように足が進みません。

  

元亀2年(1571年)信長が比叡山焼き討ちを行いましたが、この時はまだケーブルもない時代、兵は、坂本から重装備をして徒歩で(いや駆け足でかな?)比叡山を登ってきたのでしょうか?

 

延暦寺に到着。

延暦寺は、比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。平成6年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を

結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開宗してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の

地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、

法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を

輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、

山門と呼ばれています。杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に

大別されており、山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社だった

日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。戦国時代に織田信長(1534-82)によって、一山焼き討ちに遭いましたが、豊臣秀吉(1536-98)・徳川家康(1541-1616)の手によって復興された

諸堂は、数多く国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目を見はる物ばかりです。

 

初めて延暦寺に行きましたが、広い敷地に東塔・西塔・横川とまさに寺院のアミューズメントです。

ここで私の足に異変が・・・・疲れでもう歩けなくなりました。

折角ですので東塔だけでも見ておこうとまず大講堂へ

 

 

根本本堂は、工事中のため、シートの間から入っていきます。

 

 

古今和歌集の紀貫之のお墓は、比叡山中腹にあります。

 

東塔を見てから来た道を比叡山駅の方に戻ります。

ケーブルの時間があったので駅の上にある展望台に行きました。

比叡山坂本駅から京都へ。京都駅から新幹線で博多に戻りました。

次回は、坂本から大津まで約10kmを歩いてビワイチのゴールにしたいと思っています。秋の紅葉見学を兼ねて行こうかな~

 

 


ビワイチと徒歩の旅「番外編」坂本歴史の町 (滋賀県大津市)

2025-05-24 15:22:21 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/12(火) 坂本駅に到着後、比叡山延暦寺に向かいました。

バスでケーブルカー乗り場まで行こうかと思いましたが、坂本の門前町の地図を見ると、歩いていきたくなりました。

坂本は比叡山に抱かれた扇状地。比叡山に源を発する大宮川や藤木川(権現川)が琵琶湖に注ぎ込み、目前には銀色に輝く琵琶湖が広がっています。

比叡山を挟んで京都市の東隣に位置し、琵琶湖に面していたことから、かつては東国や北陸からの物資運搬の重要幹線として大変重要な役割を果たした港町でもありました。

現在では世界文化遺産の比叡山延暦寺をはじめ日吉大社、西教寺を擁する門前町として、また延暦寺の里坊のまちとして、その歴史的価値が再評価されています。

     

お昼時ですが、中高生が下校しています。このあたりに学校があるのでしょうか?

   

     

公人屋敷(旧岡本邸)は、江戸時代に延暦寺の僧侶でありながら妻帯(さいたい)と名字帯刀(みょうじたいとう)を認められた「公人(くにん)」が住んでいた住居のひとつです。

内部が原型をとどめないほど改装されている住居が多い中、岡本家の家屋は全体に公人屋敷としての旧状をよくとどめた社寺関係大型民家の特徴を示す住宅として残されてきました。

  

1636年6月1日三代将軍徳川家光は、600年ぶりに新しい統一通貨をつくるよう幕府に命じました。

江戸の芝、浅草とここ近江坂本の三か所が銭造地に選ばれました。

 

平安の昔、最澄(伝教大師)が延暦二四年(805年)中国浙江省天台山から持ち帰った一握りの茶種。
比叡山の麓、大津の里に蒔かれ育ったのが日本茶の祖と謂われています。
平安時代初期に編纂された勅撰史書「日本後記」には「815年4月15日唐崎行幸の途中、嵯峨天皇が梵釈寺(大津市滋賀里)を過ぎたところで、永忠(えいちゅう)から茶のもてなしを受けた」と記述されており、これが、文献に残る日本での喫茶記録第一号となっています。この出来事は最澄上人がここ日吉茶園にお茶を植えてから、10年後だったそうです。

そういえば、福岡博多の崇福寺には、栄西禅師が中国(南宋)よりお茶の種子を請来し、茶樹の栽培、喫茶の方法を伝え、その普及に大いに貢献し、後に茶祖と称されました。

栄西禅師が京、栂尾高山寺の明恵上人に茶の種を分けてあげた話は有名な事です。

 

   

歩いていると、石積みが多いことに気づきます。延暦寺のふもと坂本町穴太(あのう)に残る石垣集団「穴太衆」があります。

穴太とは、大津市坂本付近に今も残る地名。室町時代の末頃、この地に居住し、延暦寺の土木営繕的な御用を勤めていた人々は「穴太衆」(あのうしゅう)と呼ばれ、織田信長の安土城を始め、

江戸時代初期、各地の石垣普請に従事した。大小の整形していない自然石を巧みに積み上げたもので、堅固に積むことから、城の石垣などに利用されたという。延暦寺の門前に開けた坂本の町には、

同寺の里坊が点在しているが、その町並み景観を特色付けているのが、この穴太衆積み石垣である。市指定史跡。

 

 

旧竹林院は、庭園が見事です。

 

福岡にも山王という地名に「日吉神社」がありますが、この日吉大社が本宮だったのですね。

日吉大社は、全国各地にある3,800余りの「山王(さんのう)さん」の総本宮。比叡山連峰 八王子山(牛尾山・378m)の麓に広がり、延暦寺の門前町坂本の鎮守神。

「山王七社」「山王二十一社」ともいわれ、摂社・末社が多くあります。創祀は古事記に記されるほど古く、地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)とその妻、

鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祀ったのが始まりです。その後、延暦寺の発展とともに整備されました。

境内は、東本宮と西本宮の2区域からなります。東本宮は神体山の八王子山(378m)に鎮座する大山咋神を祀ったものです。山頂付近には金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる大きな

磐座(いわくら)や迫力ある懸造りの奥宮などがあります。

中世には、織田信長公の焼き討ちによって以前の構造物は、すべて灰燼に帰しましたが、その後復興によって今日の姿となっています。

西本宮は大津京遷都にあたって奈良県の三輪山より大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請したもので、宇佐神宮の姫神をまつる宇佐宮、加賀国一宮である白山比咩神社から勧請した白山宮などが

あります。東本宮・西本宮ともに本殿は日吉造(ひえづくり)といわれる特殊な建築で、国宝です。

このほか、石の橋で重要文化財に指定されたのは珍しいといわれる日吉三橋(ひよしさんきょう)、猿の彫刻がある朱色の西本宮楼門、山王の「山」という文字を表した山王鳥居など、

重要文化財が多くあります。ご社殿の大半は織田信長による比叡山焼き討ち以後、江戸時代初期に再建、建立されたものです。

大宮川の渓流が流れる清風の森に、見事な建築美を誇る数多くの社殿が点在し、特に秋は周囲の紅葉に壮麗な社殿が映えてさらに美しい眺めになります。

また、「山王さん」と呼ばれて広く親しまれている例祭(山王祭)は、湖国三大祭の1つです。3月の第1日曜・27日・30日、4月3日・12日から15日に行われ、特に、4月13日の宵宮落し神事は

期間中最も勇壮な神事です。

〈国宝〉西本宮本殿 東本宮本殿
〈重文〉西本宮拝殿 東本宮拝殿 摂社樹下宮本殿及び拝殿 摂社宇佐宮本殿及び拝殿 摂社白山宮本殿及び拝殿 摂社牛尾宮本殿及び拝殿 摂社三宮宮本殿及び拝殿 西本宮楼門 日吉三橋 

 東本宮楼門 山王金銅装御輿   〈史跡・名勝〉日吉大社境内               

 

 

今回は、時間がないので日吉神社見学はスルーしますが、いつか時間があるときに特に秋口に行ってみたいですね。

 

求法寺(ぐぼうじ)走井堂

 

学生さんの姿が多かったのは、ここに学校があったのですね。

 

ケーブルカー乗り場にやってきました。

 

運賃は、片道870円に値上がりしていました。

現在、気温は20度ですが、比叡山は16度と4度も低いです。

  

                                                                          (比叡山延暦寺へ続く)

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅(13日目)「堅田駅~比叡山坂本駅」(滋賀県大津市)

2025-05-22 05:00:00 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/13(火)ビワイチ徒歩の旅13日目「堅田~比叡山坂本」。いよいよ私のビワイチ徒歩の旅も終盤を迎えました。

京都駅発湖西線で前日ゴールの堅田駅へ。

今日のマップです。(堅田~衣川)

8:20 堅田駅スタート

 

本堅田信号を左折

堅田の町を歩いてすぐ気づいたことは、古い家並みが多い。調べてみると、堅田は、琵琶湖の北湖と分ける狭くなった西岸に位置し、海上要衝でした。

堅田は古くから琵琶湖舟運の盛んな地域で、その利権にを巡り何度も争いが起っています。中世に入ると一時、地侍と民衆からなる惣組織(堅田衆)が形成され、権力者からの支配から脱却し、

琵琶湖周辺にある舟運の拠点に大きな影響力を持ちました。室町時代に入ると比叡山延暦寺と対立した蓮如が堅田に逃れると、多くの民衆がこれに賛同し「堅田門徒」と呼ばれる

強固な宗教集団が生まれました。しかし、延暦寺と堅田門徒との間に対立が深まり応永2年(1468)に堅田大責が行われ、殆んどの町並みや集落、関係寺院が焼き討ちにあいます。

応永4年(1470)、延暦寺と坂本との抗争が起き、坂本が勝利、堅田の再興が許され堅田門徒も復活しましたが後年になり本願寺と対立したことで次第に衰微します。

その後、織田信長の近江侵攻により形式的には従属するものの舟運の特権は保護され経済的繁栄は江戸時代を通して維持されました。元禄11年(1698)、堀田正高が1万石で入封し

堅田藩を立藩、文政9年(1826)に加増され下野佐野藩に陣屋を移すまで堀田家が藩主を歴任しています。

 

しばらく歩くと居初(いそめ)氏の庭園「天然図画亭」の石碑が見えてきます。居初(いそめ)という名前は、難解苗字ですね。

天然図画亭は、堅田の郷士居初家にある庭園。
芭蕉と同じ時代に活躍した茶人藤村庸軒と堅田郷士の北村幽安の合作江戸時代初期の作庭。国指定名勝に指定。
庭に面した縁がある萱葺入母屋造の茶室「天然図画亭」からの眺めは、琵琶湖と対岸の湖東の山並みの雄大な景観を借景としている。

入ろうとしましたが、今日は休館日でした。仕方ないので裏側に回りました。ここからは、琵琶湖が一望できます。

 

 

先へ進みます。

 

伊豆神社の横には、江戸時代堅田陣屋があった所です。祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)。中世、琵琶湖の水運に絶大な特権をもっていた堅田の総鎮守。
室町時代には堅田大宮と呼ばれ、神社を中心とする地域組織「宮座」も存在していた。

 

 

伊豆神社から「浮御堂」へ

 

浮御堂は、平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖の湖上安全と衆生済度のため、湖中に仏閣を建立したとされている。臨済宗大徳寺派の寺院(満月寺)。現在の建物は、昭和9年の室戸台風で倒壊して

しまった後、昭和12年に再建されたもの。柱は鉄筋コンクリートとなったが、昔の情緒をそのまま残している。
湖中に浮かぶお堂の景観の素晴らしさは、近江八景「堅田の落雁」で名高く、松尾芭蕉はじめ多くの人々に愛され続けてきた。

 

 

ここの松も素晴らしいです。満月寺境内には、枝が長く伸びています。

また、浮御堂の松もいい雰囲気を出しています。

 

阿波野青畝の句碑「五月雨の 雨垂ばかり 浮御堂

近江八景は、近衛信尹が選じた琵琶湖岸の8つの風景地のひとつで、ここ「堅田の落雁」も八景の一つです。琵琶湖西岸に位置する浮御堂及び松樹に彩られた満月寺境内を中心に、中天から

一群の雁の群れが舞い降りる情景を主題とする。中国の「瀟湘八景」に描く各々の情景と結びつくことにより、近世から近代にかけて多くの旅行者や行楽・参詣の人々が訪れる一群の名所へと

発展を遂げた。

  

湖族の郷資料館は、10時からですのでまだ閉まっています。

湖族の郷資料館は、歴史上特筆される堅田の歴史、文化を築いた堅田衆をはじめとする堅田ゆかりの先人の足跡をたどる資料等が展示されています。
 「文学と堅田」、「堅田の変遷」、「豪族の民具」、「芭蕉と堅田の門人たち」、「志賀廼家淡海」等、テーマ毎に資料展示されています。

 

本福寺

 

堅田の旧家

 

妙盛寺

 

堅田は、お寺が多い町ですね。調べてみると、平安時代から京の外港として重要な役割を担った堅田は、湖上のあらゆる権利を独占支配する湖族(堅田衆)によって築かれた地域です。

多くの人や物資が行き交うことにより各地の文化が入り南北2km湖畔には6社10箇寺が現存。

 

【仰木口~那波加神社~比叡山坂本駅】

仰木口信号から県道558号に出ます。このあたりは、車関係のお店が立ち並んでいます。

 

雄琴に入りました。

雄琴というと、コロナ前まで「おごと温泉・びわ湖パノラマウォーク」(2013年~2021年)という大会が行われていましたが、2021年から中止になりました。

やはり、コロナの影響でしょうか?

 

京都まで22km、浜大津まで10km。おごと温泉観光公園で休憩。

  

足湯もありましたが、先客がおられたので遠慮しました。

おごと温泉の由来は、「この地域にある法光寺は、最澄大師によって開かれた天台宗の古刹。

その境内の蛇ヶ谷という所に念仏池と呼ばれる池があって、この水を飲むと難病が治ったとか、この池の泥を塗ると皮膚病にきいたという言い伝えがあり、近代になってこの水を分析したところ、

温泉であることがわかったそうです。

休憩後再スタート

 

難解な地名があります。「苗鹿」(のうか)と呼ぶそうです。由来は、この先の「那波加(なほか)神社」にありました。

 

那波加神社の縁起には、祭神の天太玉命が、稲の苗を背負った鹿に導かれるという記載があります。苗鹿(のうか)の地名は、この伝承によるものといわれ、

「のうか」の読みは、社名の那波加が転訛したものとされています。

 

11:15 今日の目的地「比叡山坂本駅」に到着。

 

ビワイチ徒歩の旅もあと1日で大津にゴールできそうです。(10km弱かな?)

次回は、紅葉見学も兼ね、秋口に行いたいと思っています。

 

折角ですので、このあと、比叡山延暦寺に行ってみます。

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅(12日目)「近江八幡~大津・堅田」(近江八幡市~大津市堅田)

2025-05-19 07:18:51 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/12(月)~13日 この2日間でビワイチを歩きます。

5/12は、近江八幡市~大津市堅田まで歩きます。コースは、近江八幡駅~湖岸白鳥川~岡山公園~日野川大橋~家棟川大橋~中州大橋~マリオットホテル~琵琶湖大橋~堅田駅、約20km。

【マップ1近江八幡駅~堅田全体図】

京都発琵琶湖線7:52で近江八幡駅へ。到着後、ビワイチスタート。

 

近江八幡駅前から直進し、市役所の交差点を左折、白鳥川に向かいます。

白鳥川では、「白鳥川の景観を良くする会」の方が鯉のぼりの川渡りということで川一面に鯉のぼりが泳いでいます。

 

ここは、桜の名所でもあります。樹齢20年ぐらいの桜の木が遊歩道に植えられています。桜の季節の時は、人が多いでしょうね。

  

田んぼには、もう田植えが行われていました。ここのお米は「近江米」かな?

 

白鳥川の遊歩道は、土田橋から湖岸白鳥川まで約3,5kmあります。

 

岡山園地

ここからの道は、「さざなみ街道」です。

 

【マップ2 岡山園地~中州大橋】

琵琶湖が見えてきました。

 

中央に見えるのは、「沖島」です。琵琶湖の島で唯一人が住んでいます。約250人ぐらいかな??

 

日野川大橋

 

家棟(やなむね)川大橋手前から「野洲市」に入ります。

 

     

途中、紫式部の歌碑があります。「おいつ島 しまもるる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦

沖の島(沖島)は、古くから人の心をとらえていた島で、歌に詠まれたり文字の中にその名をとどめている。この歌は、紫式部が沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から

遠く沖の島を望んで詠んだものです。

 

マイアミランドという看板があります。マップをみると「マイアミ浜」と書かれています。

  

ここで休憩します。浜に出てみるときれいな砂浜です。

どうして「マイアミ」か、気になって調べました。「昭和25年(1950)頃、戦後の復興に必死になって働いている人々に安らぎと保養の場を提供できれば・・・

世界的リゾート地であるアメリカフロリダ州マイアミビーチのように・・・というのが命名の由来だそうです。

 

琵琶湖には、びわ湖フローティングスクール「うみねこ」が航海していました。

 

アヤメが植えられていました。この地は、「あやめ」という地名だそうです。

 

歩いていて琵琶湖の方を見ると、琵琶湖大橋が見えてきました。今日のコースは、あの琵琶湖大橋を渡り、堅田駅までです。

 

「かねふくめんたいパーク」が左側に見えてきました。「かねふく」というと、福岡に本社がある明太子の会社です。確か福岡市東区にあったと思います。

調べてみると、かねふくは、全国6か所に「めんたいパーク」を展開しています。(群馬・神戸・伊豆・常滑・大洗そして琵琶湖)

 

中州大橋の手前から「守山市」です。

守山市の「マリオットホテル」で休憩。ここで持ってきたパンで軽い食事をします。

   

【マリオットホテルから堅田駅】

マリオットホテルで休憩後再スタート。疲れているのか、座って立ち上がろうとすると、ついつい「よっこいしょ」という言葉が出てきます。歳のせいかな???

なぎさ公園です。23年1月にここを通った時には、一面の菜の花でしたが現在は何もありません。幟には「はまひるがお」と書かれていました。

   

2023年1月17日撮影 ↓ ↓ ↓

なぎさ公園から琵琶湖大橋(1400m)へ

  

2年前通った時は、左側歩道でしたが、今回は歩道幅が広い右側車線を通ります。

 

橋の中心が守山市と大津市の境界

 

14:50 JR堅田駅にゴールしました。

スマートウォッチのGPSを見ると25kmを指していました。

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅【番外編その2長命寺】(滋賀県近江八幡市長命寺)

2025-05-18 05:33:21 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/11(日)豊郷駅から近江鉄道八日市乗り換えで近江八幡駅にやってきました。

駅前のバス停から長命寺に向かいます。

今回のビワイチのルートには、長命寺を入れていませんので「番外編」として行きます。

長命寺は、

近江八幡市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある寺院。西国三十三カ所第31番札所で、「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、

「寿命長遠」の御利益があるとされています。3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。
平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・

護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立しました。現在の社殿は戦国時代中期に兵火で焼失したあと再建されたものです。
湖岸のそばから808段といわれる長い石段を登ると、諸堂の屋根の線が美しく重なりあっています。千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が

安置されており、その他、建造物のすべてが県あるいは市の指定文化財になっているという由緒ある寺院です。四季を通じて多くの参詣者が全国から訪れ、湖辺近くの山腹風景も美しいです。

近江八幡駅前から約25分で長命寺港に到着。

これから808段の石段を登り、長命寺境内に向かいます。ガイドブックには普通の方で約20分で登られると書いてましたが、何せこちらは高齢者、30分はかかるのでは???

   

     

808段の石段を歩きます。この石は、自然石ですので非常に歩きにくいです。

   

5分ぐらい登ったところで家内がリタイア。ここからは一人で登ります。

     

これは、鳥居でしょうか?

 

 

聖徳太子礼拝石

 

あと少し

  

25分かけて登ってきました。もう汗だくだくです。

   

長命寺は、琵琶湖周航の歌6番に挿入されています。水森かおりさんの歌です。Bing 動画

右の写真は、6番の歌詞の説明ですが、文字が薄くて読みにくいですね。

で、ここで疑問に思うのは、長命寺は西国31番札所ですが、歌詞には、西国10番と歌われています。

調べてみると、「ちなみに西国三十三箇所の十番札所は三室戸寺である。「西国十番長命寺」と歌われている理由については、「西国三十一番長命寺」では長すぎるためメロディに収まり切れず、

また、巡り方によっては長命寺が十番札所となる場合もあるからだ、と作詞の小口太郎本人が語ったとされている。」

  

本堂

 

 

三重塔と鐘楼

 

権現堂

  

三佛堂

 

長命寺は、紫陽花寺としても有名です。福岡ではもう紫陽花の花が咲いているところがありますが、長命寺では、まだまだのようです。

一通り見回り、下山します。

上るより下りる方が気を使います。約15分で下りてきました。

下りてきてリタイアした家内と合流します。

 

 


ビワイチ徒歩の旅【番外編その1豊郷町】(滋賀県犬上郡豊郷町)

2025-05-16 16:40:48 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/11(日)~5/13(火)まで旅行社のお得なチケットを利用し滋賀県に行ってきました。

5/11は、琵琶湖のルートには入ってない「豊郷(とよさと)町」、「長命寺(ちょうめいじ)」を電車やバスで行ってきました。

その1【豊郷町】

7:36 博多発のぞみで京都へ、京都から琵琶湖線で彦根へ、彦根から近江鉄道本線で豊郷駅に着いたのが12:15。

近江鉄道の電車は初めて乗りましたが、連結分の所なんか、揺れがひどく、あわや電車酔い??になりそうでした。

豊郷駅は、無人駅ですが、駅の裏には東海道新幹線の高架です。近江電車の本数よりも新幹線の本数の方が多いです。

  

豊郷町は、伊藤忠兵衛をはじめ、近江商人の町としても知られています。

豊郷町に行った目的は、マンホールカードをゲットするためでしたが、訪問するにあたり「豊郷」を調べましたら、何と総合商社「伊藤忠商事」「丸紅」創業者、「伊藤忠兵衛」の出身地でした。

伊藤忠兵衛に関しては、後で述べますが、先ずマンホールカードをゲットするために「旧豊郷小学校群」へ。

途中の豊郷病院(伊藤長兵衛寄進の病院)では、「ウサギと亀のモニュメント」があります。

どうしてウサギと亀かな????

  

豊郷小学校旧校舎群は、昭和12年に近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎氏によって寄贈され、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられました。

当時は、「白亜の教育殿堂」「東洋一の小学校」といわれ、平成25年には国の登録有形文化財に登録されました。 現在は、町立図書館や子育て支援センターなど町の複合施設として

利用されており、校舎のご見学も自由にしていただけます。(旧豊郷小学校群HPより)

校舎内の階段には、ウサギと亀の真鍮像があります。これは、寄贈者の古川氏にまつわる逸話として、子供のころいろいろなことがうまくできなくて当時の小学校の先生が

コツコツ頑張れ!」とうさぎと亀の話を引き合いに励まし、ゆくゆくは学校を寄付するまでに立身出世したというものがあり、建築家のヴォーリズは、このウサギと亀のモニュメントを

階段に設置したそうです。豊郷病院のウサギと亀のモニュメントも意味が分かりますね。

     

 

 

  

旧豊郷小学校から伊藤忠兵衛記念館に向かいます。

 

豊郷町は、旧中山道間の宿です。石畑の一里塚もあります。

 

豊郷町役場

 

紅公園には、「伊藤忠兵衛翁碑」があります。

 

 

伊藤忠兵衛記念館

 

伊藤忠兵衛記念館は、近江商人発祥の地である滋賀県にあります。
初代伊藤忠兵衛の百回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれた滋賀県犬上郡豊郷町にある旧邸(1984年に伊藤家より公益財団法人 豊郷済美会に寄贈)を整備し、

2002年4月14日(日)より一般開放されることとなりました。

初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が展示され、繊維卸商から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。

私、豊郷町を訪問するにあたり、下調べをしましたが、総合商社「伊藤忠商事」と「丸紅」、「呉羽紡績(現在呉羽化学)」は伊藤忠兵衛が創業したのですね。

知りませんでした。

伊藤忠兵衛に関しては、峠越えの道|伊藤忠商事株式会社

   

 

 

  

 

 

 

 

近江商人には、「三方よし」という言葉があります。三方よしとは「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三方が満足している状態を指します。
売り手だけが儲けを得るのではなく、買い手にとっても満足があり、最終的には事業を通じて地域社会の発展に貢献するのが目指すべき商売の形であるという考え方です。

ここ豊郷町でも豊郷病院や、学校、公民館を建てたりして地域に貢献してきました。まさに地域に還元するやり方です。

 

豊郷町は、滋賀県の民謡「江州音頭」発祥の地と言われています。※滋賀県は近江の国または江州(ごうしゅう)と呼ばれていた。

江州音頭(ごうしゅうおんど)

 

江州音頭は、近江商人が目的地までの道中、全国各地で歌ったことから別名「商い音頭」と呼ばれるようになりました。

特に大阪では、江州音頭がとても流行り、河内音頭が江州音頭の影響を受けて現在の形に発展しました。

私も、江州音頭をネットで聞きましたが、かなり河内音頭に似ていますね。

  

豊郷駅に戻ってきました。電車は1時間に1本です。

時間があったので喫茶店やコンビニを探しますが、どこにもありません。昔は活気があったかもしれませんが、現在は長閑な町になっています。

14:34の電車で次の目的地近江八幡に向かいました。

 

 

 

 


5月例会「空港ウォーク・駕与丁のバラ見学」(福岡県粕屋町)

2025-05-15 14:06:33 | ふくおかウォーキング協会

5/10(土)ふくおかウォーキング協会5月例会は、「空港ウォーク・駕与丁のバラ見学」でした。

集合場所は、地下鉄福岡空港4番出入り口から少し入ったところの下臼井公園。

2週間前に地元新聞の掲示板に例会のお誘いをしましたので一般の参加者が16人でした。合計54人です。

今日のマップです。

9:30スタート

 

 

志免鉄道記念公園で休憩

 

休憩後再スタート

 

イオンモール福岡を通り酒殿(さかど)駅へ

 

 

駕与丁(かよいちょう)公園に到着

駕与丁公園がある「粕屋町」は、1985年(昭和60年)町花を優美・華麗な「バラ」と清楚・可憐なコスモスと制定しました。

また、全国29自治体で構成する「バラサミット」に加盟し、これを機に駕与丁公園にバラ園を整備し、今では、180種類・2400株のバラが植えられています。

 

 

  

 

 

今日は、昼から所要があり、駆け足でのバラ鑑賞でした。

 

5月11日には、バラ祭りも行われるそうで、JR九州のウォーキングも開催されます。

帰り道立ち寄った「粕屋町役場」でもきれいなバラが植えられています。

 

長者原駅発12:40の電車で帰宅しました。

 

 

 

 


優しいウォーク「福岡市の庭園新緑巡り」(福岡市博多区~南区)

2025-05-10 07:08:51 | ふくおかウォーキング協会

5/8(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「福岡市内庭園新緑巡り」でした。

集合場所は、博多駅近くの音羽公園、参加者26名。

今日のマップ

9:30スタート

  

先ずは「楽水園

明治39年(1906年)に博多商人、下澤善右衛門親正が住吉別荘を建てた跡地となります。

親正は、父尚正と親子二代にわたり、家業と並んで福博の発展に貢献した人物で、「楽水」とは、親正の雅号です。

戦後は、旅館「楽水荘」として使用され、平成7年(1995年)に福岡市が池泉回遊式の日本庭園として整備、開園しました。その際に、本園の名称もその由来を受け継ぎ「楽水園」と

名付けられています。

 

イロハモミジのプロペラの部分は、「翼果(よくが)」と呼ばれ、中央に丸い玉があるのが種です。

 

楽水園から電気ビルに向かいます。

 

三光園は、1926年(昭和元年)創業の料亭です。コロナ禍で2020年(令和2年)10月廃業しました。

 

 

 

九州電力の本社がある電気ビル共創館で休憩

共創館の裏手には、庭園があります。

 

 

 

休憩後再スタート

花屋さんで見つけたアジサイとカーネーション

そういえば、今週日曜日は母の日ですね。

 

高宮公民館で休憩

 

休憩後再スタート

 

福岡市立高宮中学校

今の若い福岡市民はわかりませんが、僕らの年代だと初めてあった人に「あんたどこ中?」とよく聞かれたり聞いたりします。

これは、出身の中学校名を聞いているのですが、福岡市民はこれでコミュニケーションをとっているのでしょうか?

でも聞くことによって(聞かれることによって)仲間意識が生まれることもあります。

私は、福岡市といっても田舎の中学校ですので高宮中学など都心の学校には憧れがありました。

ところで「高宮中学校」は有名人が多く卒業しています。タモリ・森口博子・博多華丸・氷川きよし・高橋真梨子・・・・・

この方たちも「あんたどこ中?」「お前どこ中?」と聞いてコミュニケーションをとったのでしょうか?

   

高宮中学~福岡大学高宮グラウンドを過ぎたとたん、参加者の一人がマンホールの段差につまずき転んでしまいました。

見ると鼻の下から出血しています。手も切り傷があり、みんなで消毒薬・救急絆創膏やシップ薬などを持ち寄り応急処置をいたしました。

本人には、帰って医者に行くように勧めました。

それで今日のウォーキングはあと1,5kmぐらい残っていますが、ここで中止としました。

大事にならなければいいのですが・・・・

 

 

 


楽しいウォーク「花いっぱい花畑園芸公園の眺望」(福岡市南区)

2025-05-09 19:12:56 | ふくおかウォーキング協会

5/7(水)大型連休後のふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「花いっぱい花畑園芸公園の眺望」でした。

集合場所は、地下鉄七隈線「七隈駅」近くの菊池神社。GWで疲れが出たのか、参加者は24名とやや少なめです。

今日のマップです。

9:30スタート

 

すぐ、城南区市民センターでトイレ休憩。

 

城南区市民センターの所の西ノ堤池には、ベニバナトチノキの花が咲いています。

 

休憩後再スタート

 

島廻橋交差点から一本松川緑地に向かいます。

今日は、日差しが強く、木陰を歩きます。

 

東油山公園で休憩。

東油山公園には、球場があり、若いころ(今でも若いと思っていますが)ここで草野球の試合をしたことがあります。

 

休憩後再スタート、花畑園芸公園に向かいます。

何と!今日は休園日ではないですか???

普通、福岡市の施設は月曜日が定休日ですが、GW期間中は開園していたのでGW明けの今日が定休日になっていました。

  

花畑園芸公園をスルーし、桧原運動公園に向かいます。

 

 

太平寺観音というのがあります。

大平寺古墳は6世紀末から7世紀初頭の古墳群で7基が確認されています。うち3基は消滅し、現在4基を見ることができます。この6号墳は残存部からの推定で直径約15m、高さ約3.4mの円墳で、

南西方向に石室が開口しています。

入口の天井石には、石材を割るための矢穴が残っており、これは、江戸時代に古墳から石を抜き去ったという話が伝わっていることから、その痕跡と考えられます。

内部には、後世に地域の人たちによって観音様が祭られ、信仰の対象となっています。

また、源蔵池の南西部岸辺には、鉄滓(とけた不純物の塊)や製鉄炉の破片が散布していることから、古代の製鉄所があったのではないかと推測されています。

 

穴の中に入った人の感想では、中に地蔵尊が二体あるそうです。

昔は、太平寺というお寺があったそうですが、江戸時代に廃寺になっているそうです。

11:40 西鉄バス桧原営業所にゴールしました。