OB選手たちの現在――佐々木竜太(元鹿島)「「選手時代は恩返しができなかった。鹿島には、サッカーの仕事をしているうちに恩返ししたいですね」
[Jリーグサッカーキング10月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、地元・鹿嶋市のシンボルである鹿島アントラーズを始め、湘南ベルマーレ、栃木SCと3クラブを渡り歩いたストライカー、佐々木竜太さん。昨シーズン限りでピッチを退いた男は今、どんな未来像を描いているのか。始まったばかりのセカンドキャリアを力強く歩く25歳の彼に、7年間の現役時代の記憶とこれから先の未来、さらに鹿島への想いを聞いた。
文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=堀口 優
鹿嶋に生まれ、鹿島で育ったアントラーズの“生え抜き”
東京都港区にあるJFC株式会社は、フットサル施設やスポーツスクールの運営、イベントの企画、サッカー及びフットサル用品の販売など、“フットボール”に関連する業務を幅広く手がける企業である。この会社に今年4月から籍を置く佐々木竜太は、昨シーズン終了をもって現役を退いたばかりのルーキー。選手時代とは大きく異なる生活スタイルに最初は戸惑ったが、社会人としての新たな一歩を踏み出してからの4カ月余りでそれも板についた。ある夜、すっかりビジネスマンの風格を漂わせた彼と都内で待ち合わせた。「今は本当に、とにかく一生懸命に勉強しているところです。サッカーとフットサルに関連する事業を幅広く手がけている会社なので、毎日同じ仕事をすることがほとんどないんですよ。社会人チームや大学生の指導をしたり、子供たちのスクールを手伝ったり、フットサル場の運営もやりますし、一般の人が個人で参加する“個サル”を仕切ったり……それから、『JOGABOLA』というアパレルブランドも展開しているので、その営業活動に同行したりすることもあるんです」
自分にできることなら、何でもやる。社会人1年目の今年はそう自分に言い聞かせて、あらゆる事業に積極的に顔を出すようにしているという。「まだ引退して間もないのに、ちゃんと頭を切り替えて頑張っているんですね」。そう問いかけると、佐々木は笑いながらこう答えた。「ものすごく仕事ができる厳しい上司に叩きこまれているので。僕は他の人よりスタートが遅かったので、それを取り返すために必死なんです。だから、自分にできることがあれば何でもやりたい。だって、いつかは“指示する側”の人間になりたいじゃないですか(笑)」
社会人1年目。今はまだこの世界に飛び込んだばかりで落ち着く暇もないが、それでもその状況が佐々木にとっては楽しくて仕方ないらしい。
1988年2月7日、茨城県鹿嶋市に生まれた佐々木は、Jリーグ開幕と同時に地元のシンボルとなった鹿島アントラーズとともに成長した。ジュニアユースからユースへの昇格はかなわなかったものの、地元の名門・鹿島学園高での活躍が認められて06年にプロ契約。再びアントラーズ・ファミリーの一員となり、エンジのユニフォームに袖を通した。「正直、高校サッカー選手権で活躍することができたことで拾ってもらったという印象だったので、自分の中では他の選手よりも頑張らないとダメだなと思っていました」
当時の鹿島は攻撃陣にそうそうたるタレントを抱えていた。柳沢敦(現ベガルタ仙台)、アレックス・ミネイロ、田代有三(現ヴィッセル神戸)、興梠慎三(現浦和レッズ)、深井正樹(現ジェフユナイテッド千葉)……高卒ルーキーのストライカーがレギュラー争いに挑むには、あまりにも高い壁が立ちはだかっていた。「あの頃はモトさん(本山雅志)も野沢(拓也)さんもFWだったんですよ。本当にレベルが高くてどうしようもないという感じでした。1年目はベンチにも入れなかったので、本気で『やっていけない』と思いましたね。ただ、3年契約だったので、とりあえず3年は頑張ろうと」
ライバルたちと比較して、自分には特筆すべき能力がない。新人選手の指導役であった岩政大樹には「特長なんてなくてもいい。とにかく点を取ればいい」と発破を掛けられたが、それでも「いつか通用するようになる」という自信を持つことはできなかった。「ゲーム形式の練習になると、僕だけミスばかりするんです。で、岩政さんに言われたとおり、何とか1点取ってミスをチャラにしてもらうというか……そういうバランスの取り方をしないとやっていけなかったですね。1年目や2年目はよく『パスを出せ!』って怒られましたよ。でも、僕に言わせれば、レベルが違いすぎて出したくても出せないんですよね(笑)。いつも自分が一番下手という思いでやってましたから」
MLSへの挑戦失敗を機にセカンドキャリアへ前進
2年目の07シーズンは8試合に出場して1得点。主力選手の移籍や故障離脱によってチャンスが巡ってきた。3年目以降は「とにかくゴールに向かう」という自分のスタイルが周囲にも理解され、ルーキー時分に覚えた「やっていけない」という感覚は薄れていった。しかし、選手層の厚い鹿島ではそう簡単にレギュラーの座を確保することはできない。チームは07シーズンからJリーグを3連覇。黄金期を迎えたチームにあって、しかし佐々木はある決断を下す。「チームの強化部に『移籍したい』とお願いしたんですが、鹿島の強化部はとっくに僕の気持ちを理解してくれていて、すぐに移籍先を探してくれました」
プロ6年目の11年は、湘南ベルマーレの背番号17を背負った。舞台はJ2だったが、とにかく試合に出場したいという気持ちが上回った。結果は31試合に出場して3得点。佐々木はレギュラーとして奮闘したが、チームをJ1昇格に導くことはできなかった。「かなり不甲斐なかったですね。自分を使ってくれた監督のソリさん(反町康治)に申し訳ないという気持ちしかありませんでした。順応性のなさ……ピッチ内における鹿島とのギャップを最後までうまく埋められなかったんです」「一番下手」だった鹿島では、自分ができない部分をチームメートが補っていた。しかし湘南では、プレーの幅を広げてチームメートを助けることも求められた。佐々木が言う「ギャップ」とは、自分に与えられた役割の変化である。
続く12年は鹿島にカムバック。湘南でコンスタントにピッチに立ち、試合勘を取り戻した佐々木は初めて「やれる」という自信を持って鹿島のユニフォームを着た。しかし、開幕から3カ月が経過しても満足な出場機会を与えられることはなかった。「正直、どうして使ってもらえないんだろうという思いはありました。湘南では不甲斐ない結果に終わったんですが、試るかもしれない。日本代表で活躍して、海外でプレーできる可能性だってないわけじゃないですよね。でも、選手としての自分の可能性を考えると、その可能性は低い。やっぱり、サッカーの世界だけでずっと生きていける人って本当にごくわずかだと思うんです。アントラーズで言えば、(大岩)剛さんのようなキャリアが理想的ですよね。でも、僕は同じようにはなれない」
サッカー選手としての自分の可能性を冷静に見極めながら、努めて静かに決断した。「だから、少しでも早く社会に出て勉強したかったんです。みんなより早くセカンドキャリアのスタートを切ることができたと考えることもできるので、その決断については後悔していません」
知人に相談を持ちかける中で出会ったのが、現在佐々木が勤めるJFC(株)である。「サッカーをやりながら仕事をして、サッカーがやりたくなったらまたやればいい」
そう声を掛けられて入社を決意した。同社が運営する社会人チーム、東京都2部リーグに所属する「HBO東京」には選手兼コーチとして加入することになった。
元選手だからこそできることがある
入社から約4カ月、1年目の佐々木の毎日はもちろん多忙を極めている。「現役時代と比較すると、やっぱり自由な時間がかなり少なくなってしまいますよね。選手は休養も仕事ですけど、社会人にとっての休養は仕事じゃないので(笑)。そう考えると時間の使い方が全く違います。最初はキツかったですよ。でも、僕は割と朝が強いほうなので、生活スタイルの変化には比較的スムーズに対応できた気がします」
冒頭で紹介したとおり、仕事場所は毎日のように異なる。自分に何ができるかを考えて現場に出向き、空き時間を見つけてはフットサル事業における新企画を考えたりもする。アイデアがひらめけば、迷うことなく上司に相談を持ちかけてみる。「さっきも言ったとおり、日々勉強です。上司には『この1年でしっかり勉強しろ』と言ってもらっているので、思い切りやりたいなと。会社のオーナーも元Jリーグ選手なので、僕のことを気にかけてもらっているのが分かるんです」
元Jリーグ選手という肩書は、セカンドキャリアにおいてプラスに作用するのだろうか、それともマイナスに作用するのだろうか。佐々木の見解はこうだ。「自分から言うことはほとんどないですね。ただ、よく考えれば、これほど武器になることはないんじゃないかなとも思います。たぶん、年齢を重ねていけば元選手という肩書も自然に消えてしまいますよね。いつまでもそれでやっていけるわけじゃない。だから、その価値を使えるうちにしっかり使いながら、同時に社会人としての実力をしっかりつけたい」
アントラーズ時代には特別な「武器」を持たない自分に負い目を感じたこともあった。しかし今は、そうした状況の中で必死にもがいてきたプロ選手としての7年間が、自分にとっての「武器」になる可能性を秘めている。そうした不思議な現象を日々の仕事の中で感じている。「“個サル”を仕切っている時に仕事の難しさを感じるんです。お互いに知らない人たちに指示を出しながら円滑に進めることはすごく難しい。でも、お客さんと自分の距離が近いのですぐに仲良くなれるし、僕のことを知ってくれている人もいて、一気に人の輪が広がるというか。そうやって知り合った人たちと仕事の話をしたり、一緒にメシを食べたりするのが楽しくて仕方ないですね。実は、ここのオーナーさんとも“個サル”を通じて知り合ったんですよ」
池袋にある飲食店「まはろは」のオーナーは、社会人ルーキーの佐々木にとって大切なお客様であり、プロの世界を離れて知り合った友人でもある。そうした繋がりを持てることが楽しくて仕方ない。「仕事は難しいですよ。何が?
そうですね……ニーズを見極めて、それを確保することですよね。この企画はどんなニーズがあるのか、事業として成り立つのか。そういうことをお客さんの目線に立って考えるのが難しい。僕、今までそんなことを考えたことがなかったので(笑)」
インタビューから数日後、写真撮影のために東京・八王子市にある創価大学を訪れた。佐々木は3日前とは全く違う表情で、学生たちと向き合っていた。指導者の道にも興味があるのかと問いかけると、首を振ってこう即答した。「今のところはないですね。僕、ビジネスマンになりたいので(笑)。でも、そうなるためには何でも知ってなきゃいけないと思うし、何をやっても勉強になるんです。だから頑張ります」
佐々木にとって直属の上司であり、JFC(株)の執行役員である山形伸之に佐々木についての印象を聞くと、こんな言葉が返ってきた。「仕事はよくやってくれていますよ。まだ引退したばかりなのに、頭をしっかり切り替えて、積極的に取り組んでくれている。竜太のことを知っている人なら分かると思うんですが、とにかくアイツは誰からも可愛がられるタイプなんですよね。それって人としてものすごく大切なことで、きっとアイツの人間的な魅力がそうさせているんだと思います」
確かに彼と接していると、山形の言うことが理解できる。だから佐々木は、鹿島のサポーターにも愛されたのだろう。「クラブには本当に感謝しています。僕は地元が鹿嶋だし、小学生の頃からずっとお世話になっていたので。選手時代はなかなか恩返しができなかったから、サッカーの仕事をしているうちに恩返ししたいですね。もちろんビジネスとして。サポーターの皆さんにも感謝してますよ。地元出身ということで、他の人にはない特別な声援をいただいているといつも感じていました。サポーターの皆さんには、どうやって恩返ししようかな……これは検討中です(笑)」
理想のセカンドキャリア像も頭の中に描いている。「元選手だからと言って、できなくて当たり前と思われるのは嫌ですよね。元選手だからできることもある。とにかく頑張って、自分より早く社会に飛び込んだ人たちを追い抜きたいんです。まずは、それが目標。その後のことはやりながら考えますよ。とにかく今、必死ですから」
JFC(株)はフットサル場「フットサルポイント」を全国に展開しており、佐々木はこの夏にオープンした「フットサルポイント両国インドアFコート」で9月からスタートするジュニアスクールの指導を任されている。
働き盛りの25歳。ピッチを舞台とするプロの世界から離れても、彼はまた別の世界でプロになろうとしている。
Jリーグサッカーキング10月号掲載の佐々木竜太の今である。
現役時代の苦悩を経て、引退、そして新たな人生について大きく語らっておる。
誰もが早すぎる引退と思ったが、本人の中では別の考えがあった模様。
そして、別の世界にてプロとして歩む佐々木竜太を誇らしく思う。
第二の人生を謳歌して欲しい。
応援しておる。
[Jリーグサッカーキング10月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、地元・鹿嶋市のシンボルである鹿島アントラーズを始め、湘南ベルマーレ、栃木SCと3クラブを渡り歩いたストライカー、佐々木竜太さん。昨シーズン限りでピッチを退いた男は今、どんな未来像を描いているのか。始まったばかりのセカンドキャリアを力強く歩く25歳の彼に、7年間の現役時代の記憶とこれから先の未来、さらに鹿島への想いを聞いた。
文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=堀口 優
鹿嶋に生まれ、鹿島で育ったアントラーズの“生え抜き”
東京都港区にあるJFC株式会社は、フットサル施設やスポーツスクールの運営、イベントの企画、サッカー及びフットサル用品の販売など、“フットボール”に関連する業務を幅広く手がける企業である。この会社に今年4月から籍を置く佐々木竜太は、昨シーズン終了をもって現役を退いたばかりのルーキー。選手時代とは大きく異なる生活スタイルに最初は戸惑ったが、社会人としての新たな一歩を踏み出してからの4カ月余りでそれも板についた。ある夜、すっかりビジネスマンの風格を漂わせた彼と都内で待ち合わせた。「今は本当に、とにかく一生懸命に勉強しているところです。サッカーとフットサルに関連する事業を幅広く手がけている会社なので、毎日同じ仕事をすることがほとんどないんですよ。社会人チームや大学生の指導をしたり、子供たちのスクールを手伝ったり、フットサル場の運営もやりますし、一般の人が個人で参加する“個サル”を仕切ったり……それから、『JOGABOLA』というアパレルブランドも展開しているので、その営業活動に同行したりすることもあるんです」
自分にできることなら、何でもやる。社会人1年目の今年はそう自分に言い聞かせて、あらゆる事業に積極的に顔を出すようにしているという。「まだ引退して間もないのに、ちゃんと頭を切り替えて頑張っているんですね」。そう問いかけると、佐々木は笑いながらこう答えた。「ものすごく仕事ができる厳しい上司に叩きこまれているので。僕は他の人よりスタートが遅かったので、それを取り返すために必死なんです。だから、自分にできることがあれば何でもやりたい。だって、いつかは“指示する側”の人間になりたいじゃないですか(笑)」
社会人1年目。今はまだこの世界に飛び込んだばかりで落ち着く暇もないが、それでもその状況が佐々木にとっては楽しくて仕方ないらしい。
1988年2月7日、茨城県鹿嶋市に生まれた佐々木は、Jリーグ開幕と同時に地元のシンボルとなった鹿島アントラーズとともに成長した。ジュニアユースからユースへの昇格はかなわなかったものの、地元の名門・鹿島学園高での活躍が認められて06年にプロ契約。再びアントラーズ・ファミリーの一員となり、エンジのユニフォームに袖を通した。「正直、高校サッカー選手権で活躍することができたことで拾ってもらったという印象だったので、自分の中では他の選手よりも頑張らないとダメだなと思っていました」
当時の鹿島は攻撃陣にそうそうたるタレントを抱えていた。柳沢敦(現ベガルタ仙台)、アレックス・ミネイロ、田代有三(現ヴィッセル神戸)、興梠慎三(現浦和レッズ)、深井正樹(現ジェフユナイテッド千葉)……高卒ルーキーのストライカーがレギュラー争いに挑むには、あまりにも高い壁が立ちはだかっていた。「あの頃はモトさん(本山雅志)も野沢(拓也)さんもFWだったんですよ。本当にレベルが高くてどうしようもないという感じでした。1年目はベンチにも入れなかったので、本気で『やっていけない』と思いましたね。ただ、3年契約だったので、とりあえず3年は頑張ろうと」
ライバルたちと比較して、自分には特筆すべき能力がない。新人選手の指導役であった岩政大樹には「特長なんてなくてもいい。とにかく点を取ればいい」と発破を掛けられたが、それでも「いつか通用するようになる」という自信を持つことはできなかった。「ゲーム形式の練習になると、僕だけミスばかりするんです。で、岩政さんに言われたとおり、何とか1点取ってミスをチャラにしてもらうというか……そういうバランスの取り方をしないとやっていけなかったですね。1年目や2年目はよく『パスを出せ!』って怒られましたよ。でも、僕に言わせれば、レベルが違いすぎて出したくても出せないんですよね(笑)。いつも自分が一番下手という思いでやってましたから」
MLSへの挑戦失敗を機にセカンドキャリアへ前進
2年目の07シーズンは8試合に出場して1得点。主力選手の移籍や故障離脱によってチャンスが巡ってきた。3年目以降は「とにかくゴールに向かう」という自分のスタイルが周囲にも理解され、ルーキー時分に覚えた「やっていけない」という感覚は薄れていった。しかし、選手層の厚い鹿島ではそう簡単にレギュラーの座を確保することはできない。チームは07シーズンからJリーグを3連覇。黄金期を迎えたチームにあって、しかし佐々木はある決断を下す。「チームの強化部に『移籍したい』とお願いしたんですが、鹿島の強化部はとっくに僕の気持ちを理解してくれていて、すぐに移籍先を探してくれました」
プロ6年目の11年は、湘南ベルマーレの背番号17を背負った。舞台はJ2だったが、とにかく試合に出場したいという気持ちが上回った。結果は31試合に出場して3得点。佐々木はレギュラーとして奮闘したが、チームをJ1昇格に導くことはできなかった。「かなり不甲斐なかったですね。自分を使ってくれた監督のソリさん(反町康治)に申し訳ないという気持ちしかありませんでした。順応性のなさ……ピッチ内における鹿島とのギャップを最後までうまく埋められなかったんです」「一番下手」だった鹿島では、自分ができない部分をチームメートが補っていた。しかし湘南では、プレーの幅を広げてチームメートを助けることも求められた。佐々木が言う「ギャップ」とは、自分に与えられた役割の変化である。
続く12年は鹿島にカムバック。湘南でコンスタントにピッチに立ち、試合勘を取り戻した佐々木は初めて「やれる」という自信を持って鹿島のユニフォームを着た。しかし、開幕から3カ月が経過しても満足な出場機会を与えられることはなかった。「正直、どうして使ってもらえないんだろうという思いはありました。湘南では不甲斐ない結果に終わったんですが、試るかもしれない。日本代表で活躍して、海外でプレーできる可能性だってないわけじゃないですよね。でも、選手としての自分の可能性を考えると、その可能性は低い。やっぱり、サッカーの世界だけでずっと生きていける人って本当にごくわずかだと思うんです。アントラーズで言えば、(大岩)剛さんのようなキャリアが理想的ですよね。でも、僕は同じようにはなれない」
サッカー選手としての自分の可能性を冷静に見極めながら、努めて静かに決断した。「だから、少しでも早く社会に出て勉強したかったんです。みんなより早くセカンドキャリアのスタートを切ることができたと考えることもできるので、その決断については後悔していません」
知人に相談を持ちかける中で出会ったのが、現在佐々木が勤めるJFC(株)である。「サッカーをやりながら仕事をして、サッカーがやりたくなったらまたやればいい」
そう声を掛けられて入社を決意した。同社が運営する社会人チーム、東京都2部リーグに所属する「HBO東京」には選手兼コーチとして加入することになった。
元選手だからこそできることがある
入社から約4カ月、1年目の佐々木の毎日はもちろん多忙を極めている。「現役時代と比較すると、やっぱり自由な時間がかなり少なくなってしまいますよね。選手は休養も仕事ですけど、社会人にとっての休養は仕事じゃないので(笑)。そう考えると時間の使い方が全く違います。最初はキツかったですよ。でも、僕は割と朝が強いほうなので、生活スタイルの変化には比較的スムーズに対応できた気がします」
冒頭で紹介したとおり、仕事場所は毎日のように異なる。自分に何ができるかを考えて現場に出向き、空き時間を見つけてはフットサル事業における新企画を考えたりもする。アイデアがひらめけば、迷うことなく上司に相談を持ちかけてみる。「さっきも言ったとおり、日々勉強です。上司には『この1年でしっかり勉強しろ』と言ってもらっているので、思い切りやりたいなと。会社のオーナーも元Jリーグ選手なので、僕のことを気にかけてもらっているのが分かるんです」
元Jリーグ選手という肩書は、セカンドキャリアにおいてプラスに作用するのだろうか、それともマイナスに作用するのだろうか。佐々木の見解はこうだ。「自分から言うことはほとんどないですね。ただ、よく考えれば、これほど武器になることはないんじゃないかなとも思います。たぶん、年齢を重ねていけば元選手という肩書も自然に消えてしまいますよね。いつまでもそれでやっていけるわけじゃない。だから、その価値を使えるうちにしっかり使いながら、同時に社会人としての実力をしっかりつけたい」
アントラーズ時代には特別な「武器」を持たない自分に負い目を感じたこともあった。しかし今は、そうした状況の中で必死にもがいてきたプロ選手としての7年間が、自分にとっての「武器」になる可能性を秘めている。そうした不思議な現象を日々の仕事の中で感じている。「“個サル”を仕切っている時に仕事の難しさを感じるんです。お互いに知らない人たちに指示を出しながら円滑に進めることはすごく難しい。でも、お客さんと自分の距離が近いのですぐに仲良くなれるし、僕のことを知ってくれている人もいて、一気に人の輪が広がるというか。そうやって知り合った人たちと仕事の話をしたり、一緒にメシを食べたりするのが楽しくて仕方ないですね。実は、ここのオーナーさんとも“個サル”を通じて知り合ったんですよ」
池袋にある飲食店「まはろは」のオーナーは、社会人ルーキーの佐々木にとって大切なお客様であり、プロの世界を離れて知り合った友人でもある。そうした繋がりを持てることが楽しくて仕方ない。「仕事は難しいですよ。何が?
そうですね……ニーズを見極めて、それを確保することですよね。この企画はどんなニーズがあるのか、事業として成り立つのか。そういうことをお客さんの目線に立って考えるのが難しい。僕、今までそんなことを考えたことがなかったので(笑)」
インタビューから数日後、写真撮影のために東京・八王子市にある創価大学を訪れた。佐々木は3日前とは全く違う表情で、学生たちと向き合っていた。指導者の道にも興味があるのかと問いかけると、首を振ってこう即答した。「今のところはないですね。僕、ビジネスマンになりたいので(笑)。でも、そうなるためには何でも知ってなきゃいけないと思うし、何をやっても勉強になるんです。だから頑張ります」
佐々木にとって直属の上司であり、JFC(株)の執行役員である山形伸之に佐々木についての印象を聞くと、こんな言葉が返ってきた。「仕事はよくやってくれていますよ。まだ引退したばかりなのに、頭をしっかり切り替えて、積極的に取り組んでくれている。竜太のことを知っている人なら分かると思うんですが、とにかくアイツは誰からも可愛がられるタイプなんですよね。それって人としてものすごく大切なことで、きっとアイツの人間的な魅力がそうさせているんだと思います」
確かに彼と接していると、山形の言うことが理解できる。だから佐々木は、鹿島のサポーターにも愛されたのだろう。「クラブには本当に感謝しています。僕は地元が鹿嶋だし、小学生の頃からずっとお世話になっていたので。選手時代はなかなか恩返しができなかったから、サッカーの仕事をしているうちに恩返ししたいですね。もちろんビジネスとして。サポーターの皆さんにも感謝してますよ。地元出身ということで、他の人にはない特別な声援をいただいているといつも感じていました。サポーターの皆さんには、どうやって恩返ししようかな……これは検討中です(笑)」
理想のセカンドキャリア像も頭の中に描いている。「元選手だからと言って、できなくて当たり前と思われるのは嫌ですよね。元選手だからできることもある。とにかく頑張って、自分より早く社会に飛び込んだ人たちを追い抜きたいんです。まずは、それが目標。その後のことはやりながら考えますよ。とにかく今、必死ですから」
JFC(株)はフットサル場「フットサルポイント」を全国に展開しており、佐々木はこの夏にオープンした「フットサルポイント両国インドアFコート」で9月からスタートするジュニアスクールの指導を任されている。
働き盛りの25歳。ピッチを舞台とするプロの世界から離れても、彼はまた別の世界でプロになろうとしている。
Jリーグサッカーキング10月号掲載の佐々木竜太の今である。
現役時代の苦悩を経て、引退、そして新たな人生について大きく語らっておる。
誰もが早すぎる引退と思ったが、本人の中では別の考えがあった模様。
そして、別の世界にてプロとして歩む佐々木竜太を誇らしく思う。
第二の人生を謳歌して欲しい。
応援しておる。
佐々木選手にはまだまだアントラーズで活躍して欲しかったです。でも厳しいプロの世界、仕方ないですね。
佐々木選手のいつも諦めない、体を張る一生懸命な姿に我々サポーターは特別な応援をしていたのではないでしょうか?鹿嶋出身だからというわけでは無く、その強い姿勢を見せてもらえただけで我々は本当に満足です。
佐々木選手の高校での活躍以降、茨城の高校が全国でも強豪と認められるようになり、またアントラーズに入団してくれて本当に嬉しかったです。
第二の人生を精一杯、頑張ってください。社会人としてもパワフルで一生懸命な佐々木選手を応援しています。
日本人には少ないパワフルな突進は見るものを惹きつけました。
あのガムシャラにボールを追いかけるスタイルが大好きでした。
今は新しい目標に向かって頑張っているようですね。
僕も社会人なのでライバルかな。
本当に頑張って欲しいな。
良い記事をありがとうございます。
本当に凄いと思う
真剣で前向きでしっかりと行動を伴っている
尊敬するし、自分も頑張ろうって思わせてくれました
「サッカー、忘れられない光景」の中の一つに入っているぞ~。