鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

2012シーズン、低迷の理由は

2013年02月09日 | Weblog
【Jリーグ】2012年シーズン、「王者」鹿島はなぜ低迷したのか
2013.02.09
内田知宏(報知新聞社)●文 text by Uchida Tomohiro(The Hochi Shimbun) 山添敏央●撮影 photo by Yamazoe Toshio



鹿島で結果を残すことができなかったジョルジーニョ監督。

2013年Jリーグ「王座奪還」
鹿島アントラーズ編(1)

 2012年シーズン、鹿島アントラーズはリーグ戦でクラブ史上最低順位となる11位に終わった。開幕から3連敗を喫し、5試合未勝利(1分け4敗)と初めての最下位も経験した。序盤で勝敗を左右する誤審を被(こうむ)ったことは決して見逃せない。そこで、チームの勢いが完全に削がれ、終始黒星先行の戦いを強いられて、第33節までJ1残留が決まらないという低空飛行のままシーズンを終えた。その結果は、常勝軍団の歴史に間違いなく暗い影を落とした。
 異変を感じたのは、2月の宮崎合宿だった。
 指揮は、オズワルド・オリヴェイラ監督からジョルジーニョ監督に移り、練習メニューも大きく変わった。筋力強化を好み、毎日のようにウェートトレーニングを選手に課した。走りについては、短い距離をこなすメニューを多く取り入れた。ピッチでボールを使ったフィジカルトレーニング、相撲など対人で体を鍛え、長い距離をよく走らせた前任者の手法とは、対照的だった。
 合宿開始から1週間。筋肉痛でロボットのようにぎこちない動きをする選手たちが、苦笑いを浮かべていた。ある主力選手が「ぜんぜん(体を)追い込めている感じがしない。負荷がかかっていない」と言えば、別の中堅選手は「練習時間が短い気がする。それはうれしいところもあるけど、本当にこれでいいの? という感じもする」と、不安めいた言葉を次々に漏らした。
 シーズンが開幕しても、2月の合宿からの不安は消えないままだった。コンディション調整のための居残り練習は禁止。「もっと体を動かしたいので、個人的に練習をしてもいいですか?」と申し出た選手の意見は、厳しい叱責(しっせき)をもって却下された。体を動かしたい選手は、監督の目が届かない場所でトレーニングを積まなければいけない。不平、不満を口にする選手はひとりもいなかったが、チーム内にはぎこちない雰囲気が漂っていた。

 そして、トレーニング方法に逆行するようなメンバー編成も、低空飛行の要因になった。流動的な中盤を支えていた野沢拓也がヴィッセル神戸に移籍。2列目は、シーズン途中から加入したドゥトラと、プロ6年目の遠藤康が務めた。ドゥトラの持ち味は、ドリブルによる推進力。パスを回しながら、相手の穴を作り出す伝統のポゼッションサッカーは、カウンター主体に変わった。
 カウンター攻撃は上下動が激しく、体力が消耗しやすい。ボールの失い方が悪ければ、失点のリスクが生まれる。安定しそうで、安定しないのがカウンターである。鹿島の場合、メンバー構成、トレーニング方法、試合で見せるサッカーのどれもがかみ合わない、という現象が起こってしまった。
 そのため、試合終盤、敗戦を引き分けに、引き分けを勝利に持ち込むという鹿島のお家芸とも言える怒とうの攻撃は、1年間を通じてほとんど見ることができなかった。その体力が残されていなかったし、そのサッカーができる選手もそろっていなかった。結果、白星と黒星が並ぶオセロのような戦績を連ねることになった。
 ただ、すべてジョルジーニョ監督の責任か、と言われれば、それは違う。選手編成は、フロント主導で行なった。もちろん選手たちも「結果を出せないのは選手の責任」と言う。まして1年で結果を出せるほど、サッカーは簡単なスポーツではない。タラ、レバになるが、家族の問題で契約延長オファーを断ったジョルジーニョ監督が、もし2年目の指揮を執るようなことがあったならば、間違いなく修正できたと感じる部分もあった。
 ダッシュ中心のフィジカルトレーニングが合ったベテランの小笠原満男は、完全によみがえった。東日本大震災の影響で練習量が減った2011年は当たり負けするシーンが目立っていたが、昨年は筋力トレーニングで体を再構築し、ダッシュでキレを取り戻すことができた。素早く間合いを詰め、ボールを奪い切る。相手の寄せに負けず、パスを出す。本来の姿があった。
 FWの大迫勇也はポストプレイで相手を寄せつけない体を手に入れた。監督の「FWだからシュートをどんどん打て! 外しても気にするな」と言う言葉に背中を押され、ストライカーとして大きく進化した。若手期待のMF柴崎岳もまた、順調にステップアップの階段を上って、サイドバックの西大伍も成長した。ブラジル代表で右サイドバックを務めたジョルジーニョ監督から指導を受けた1年は、決して無駄ではなかったはずだ。
 誰が指揮しても、編成しても、難しい世代交代の時期。さらに、すべてがかみ合わなかったシーズン。その結果が、リーグ戦11位という成績に表れたものの、一方でナビスコ杯優勝、天皇杯4強という成績を残し、改めて鹿島の強さを知ったシーズンだったとも言えるかもしれない。
 それだけに、小笠原は2012年シーズンを振り返って、こう語った。
「『悔しい』のひと言に尽きるシーズンだった」
 その言葉が、チームの思いを代弁していた。


2012年シーズンを振り返る報知新聞の内田記者である。
キャンプやシーズン中のジョルジーニョ監督のやり方を述べておる。
確かに方針に於いてそれまで5年間続いたオリヴェイラ政権と異なる方針に戸惑いはあったやも知れぬ。
しかしながら、内田記者も明記しておるように誤審問題については避けられぬ。
オリヴェイラ時代もアウトゥオリ時代も前トニーニョ・セレーゾ時代も悩まされ続けた誤審が特に昨季は目立った。
これでは、どのような采配をしても、苦しい戦いが続いたことは事実である。
世代交代と含めて、苦しいシーズンをジョルジーニョには強いてしまった。
鹿島のレジェンドにこの苦しい時期に采配を振るわせたことは残念であったと思う。
とはいえ、これも鹿島の歴史の1ページである。
記憶に留め、新しい歴史を刻んでいきたい。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2013-02-09 11:17:41
全てがなかなか噛み合わなかった中で、スルガ銀CSとナビスコを獲得できたものの、史上最悪のシーズンでリーグは終わった。しかし歴史を塗り替えることはできない。
「全ての歴史は明日を作るためにある」
この悔しさを未来への糧としよう。
返信する
Unknown (S)
2013-02-09 11:21:47
柴崎がジョルジーニョの練習方について「欧州タイプ」と言っていた。長い時間で負荷をかけるよりも、短い時間で濃い練習をした方が怪我のリスクが少ない。実際、怪我で長期離脱したのは中田と山村くらいだった。山村の怪我が試合中の事故のようなものだったと考えれば、中田だけになります。昨年の構成で、例年ながらの練習量だったら、怪我人は間違いなく増えてたはず。
欧州の指導者はリスク回避の為、練習を長くやらないと聞く。ジョルジーニョはブラジル代表コーチ時代に欧州を飛び回り、色んな国のトップクラブの練習を見ている。そこで見た指導方を昨年の鹿島に充てたと推測する。

何が言いたいかと言うと、野沢の穴が埋まらないまま開幕を迎え、人材が乏しいところへさらに豊富な練習量を科していたら、怪我で離脱する選手が増えて今年はJ2だった可能性が高いということ。昨年に限っては、あの練習量が適度であったと思います。
返信する