[鹿島]「ものすごく悩んだ」と引退を表明した中田浩二
3日、中田浩二が引退を表明した。98年に帝京高校から鹿島に加入し、途中、オリンピックマルセイユやFCバーゼルでプレーしたこともあったが、2度のW杯に出場するなど、日本サッカー界に多大な功績を残した。
しかし、今季リーグ戦での出場3試合はすべて途中出場。時間に換算するとわずかに57分の出場に留まり、第23節・大宮戦(1●2)を最後にベンチ外が続いていた。夏ごろから他クラブからのオファーも届いていたが、最終的には本人が鹿島でユニホームを脱ぐことを決断した。
4日のクラブハウスは引退の報を受けたサポーターが多数押し寄せていた。同じ79年組の小笠原満男、曽ヶ端準は「まだまだやれる」と声をそろえる。
「難しいよ。ものすごく悩んだ」という本人は多くを語ろうとせず、セレモニーと会見が用意されている最終節・鳥栖戦後に自らの口でファンやサポーターに感謝を伝える意向を示した。
最終戦は優勝の可能性を残した大一番。勝って終わらなければいけない理由がまた一つ増えた。
(鹿島担当 田中滋)
35歳中田 鹿島愛でプロ17年にピリオド
引退表明後も普段通り練習に参加した鹿島DF中田
鹿島の元日本代表DF中田浩二(35)が3日、今季限りで引退することを表明した。00年に史上初のリーグ、ナビスコ杯、天皇杯の3冠を獲得するなど常勝軍団を支え、日本代表で2度のW杯に出場。02年日韓大会では3バック戦術「フラットスリー」の左DFとして初の16強入りに貢献した。フランス、スイスを含む17年の現役生活に区切りをつけ、今後はクラブ職員として第2の人生を歩む。逆転Vがかかる6日の最終節・鳥栖戦後に会見する。
2度のW杯に出場したDF中田がスパイクを脱ぐ。引退を表明した3日の練習後、経緯について「最終節後の会見で」と1度は車に乗り込もうとしたが、立ち止まった。「率直な心境? もちろん難しいよ。複雑だし、簡単に決断に至ったわけではない。ものすごく悩んだ」。表情は少し硬かった。考え抜き、自分に言い聞かせるように話した。
今夏、複数クラブから獲得の打診があり現役続行への自信もあった。だが、愛着ある鹿島に骨をうずめたい-。選んだのはクラブ職員に転じる道。「葛藤はありましたが、アントラーズで現役を終えることが最良であるという結論に至りました」とのクラブを通じたコメントに覚悟を込めた。
ボランチ、センターバック、サイドバックをこなす万能選手の先駆け。輝く経歴は「雪の国立」で始まった。東京・帝京高3年時。全国選手権の決勝で東福岡に1-2で敗れたが、雪中戦の主役として今も語り継がれる。98年に鹿島入り。同期の小笠原、本山、曽ケ端と黄金期を支え、歴代最多16冠のうち11冠に貢献。02年W杯日韓大会はトルシエ監督の守備陣形「フラットスリー」の左DFとして日本を初の1次リーグ突破に導き、全4試合にフル出場した。フランス1部マルセイユ、スイス1部バーゼルを経て08年途中に鹿島復帰。リーグを3連覇した。
今季は両膝の痛みとも闘いながらプレー。世代交代を図るクラブの方針で3試合57分の出場にとどまったが、強化担当の鈴木常務は「最終的に昨日(2日)話し合って決めた。勝てる選手だったし、人格面も素晴らしい」として功労者待遇を約束した。現役最後の試合は、逆転優勝の可能性を残す鳥栖戦。5季ぶりVを置きみやげにし、試合後の引退セレモニーで思いの丈を打ち明ける。【木下淳】
◆中田浩二(なかた・こうじ)1979年(昭54)7月9日、滋賀県生まれ。神奈川・南戸塚小2年の時に競技を始め、小3で鳥取・米子市へ転居。後藤ケ丘中から帝京高に進学した。鹿島で計14季プレーし、J1通算266試合33得点。99年ワールドユース(現U-20W杯)は小野、稲本ら「黄金世代」の一員として史上最高の準優勝。00年シドニー五輪は8強だった。A代表は00年2月5日メキシコ戦でデビュー。04年アジア杯(中国)決勝の中国戦(3-1)でV弾を決めて優勝に貢献。国際Aマッチ57試合2得点。今年2月に女優長沢奈央と結婚。182センチ、74キロ。血液型B。
[2014年12月4日7時21分 紙面から]
現役引退表明の中田に女性サポーター涙…前日に「他でやるつもりはない」と申し入れ
中田浩二
鹿島の元日本代表MF中田浩二(35)が3日、現役引退を表明し、練習が行われる鹿嶋市内のクラブハウスには多くのサポーターが集結した。なかには、涙を流す女性ファンもいた。
中田はチームメートとともに6日の最終節・鳥栖戦(ホーム)に向けいつもと変わらず練習に汗を流した。鳥栖戦後に会見を予定しているため「会見で話します」と多くは語らなかったが、決断までには「簡単に至ったわけじゃなかった」と本音をのぞかせた。
2002年日韓W杯でトルシエ監督が用いた戦術「フラット3」で守備の要として活躍したイメージが強いが、ボランチ、センターバック、サイドバックなど複数のポジションを器用にこなすユーティリティープレーヤー。バランス感覚に優れ、左足から繰り出されるロングフィードは多くのファンを魅了した。
1999年ワールドユース選手権でMF小野伸二、稲本潤一らとともに「黄金世代」の一員として準優勝を経験。MFシャビ(バルセロナ)やGKカシリャス(レアル・マドリード)擁するスペイン代表に決勝で敗れはしたが、世界に羽ばたくきっかけとなり、W杯は2002年日韓、06年ドイツと2大会に出場を果たした。
クラブ幹部によると、11月中旬頃から来季に向けた話し合いの場がもたれ、本人が熟慮の末に引退を決断。夏にはJ2の複数クラブから獲得の打診もあったというが、前日の2日に「他でやるつもりはない」との申し入れがあった。チームは世代交代が進んでおり、今季はJ1の出場がわずか3試合。12年には左膝半月板損傷の大けがを負うなど、痛みとの戦いも続いていた。
今後はクラブのスタッフとして鹿島に残る予定。詳細は未定だが、指導の現場だけでなく、強化や育成、事業などに携わるプランもあるという。鹿島で同期入団のMF小笠原満男、MF本山雅志、GK曽ヶ端準ら「79年組」とともにチームに数多くのタイトルをもたらし、一時代を築いた名選手が惜しまれながらユニホームを脱ぐ。
鹿島・中田が現役引退 今後はクラブのスタッフになる予定
中田浩二
J1鹿島の元日本代表MF中田浩二(35)が3日、現役引退を表明した。クラブを通じ、「アントラーズで現役を終えることが最良であるという結論に至った」とコメントした。
滋賀県出身で、東京・帝京高から1998年に鹿島入団。2000年の3冠に貢献した。日本代表では99年ワールドユース選手権(現U-20W杯)準優勝。02年日韓W杯では守備の要として「フラット3」の一翼を担い、16強入りに貢献。06年ドイツW杯にも出場した。
マルセイユ(フランス)やバーゼル(スイス)にも所属し、08年に鹿島に復帰。今季は世代交代もあって、リーグ戦は3試合の途中出場にとどまった。今年2月に女優の長澤奈央(30)と結婚。今後はクラブのスタッフになる予定で、6日の最終節・鳥栖戦(カシマ)後に会見を行う。
引退を表明した中田浩二
(紙面から)
鹿島・中田と同期入団の「79年組」が奇跡Vで花道飾る!
J1鹿島の元日本代表MF中田浩二(35)が3日、現役引退を表明した。MF中田の引退表明を受け、同期入団の「79年(生まれ)組」は複雑な表情を浮かべた。MF小笠原は「ドッキリでしょ」と受け入れられない様子。「まだできるのに、やめなくてはいけないのは複雑」と話し、GK曽ケ端も「実感がわかない」。MF本山は「(現役を)まだやると聞いていた」と驚き、「他力本願だけど優勝して送り出したい」と逆転制覇で盟友の花道を飾る決意を示した。 (鹿嶋市)
(紙面から)
元代表DF中田浩二が引退 鹿島では11冠貢献、奇跡Vで花道を
練習で笑顔をみせる中田浩二(左)
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常勝軍団を支えた名選手がユニホームを脱ぐことになった。鹿島は3日、元日本代表DF中田浩二(35)が今季限りで引退すると発表した。中田は自身の進退に関して11月中旬からクラブ幹部と話し合いを重ね、2日に引退を決断。逆転優勝の可能性が残っている6日の鳥栖との最終戦(カシマ)後にセレモニーと引退会見を行う予定だ。
鹿島の黄金時代を築き上げたレジェンドが深紅のユニホームに別れを告げる。引退を決めた中田は「プロ選手としての葛藤はありましたが、アントラーズで現役を終えることが自分にとって最良であるという結論に至りました」と説明した。
「この決断に至るには簡単ではなかった」と言うように、数カ月前から来季以降の進路を熟考。先月中旬にはクラブ幹部と何度も話し合いの場を持った。現役引退を決意したことを伝えたのは2日。クラブ側も功労者の決断を尊重し承諾した。
98年に名門・帝京高から鹿島に入団し、同期のMF小笠原、MF本山、GK曽ケ端らとともに中心選手に育った。ボランチやセンターバックなど守備的なポジションでありながら、史上初の3冠を達成した00年はチャンピオンシップの横浜戦で勝利を決定付ける3点目を決めるなど勝負強さを発揮した。05年1月から4年間はマルセイユ(フランス)をはじめ海外でプレーしたが、08年7月に鹿島に復帰。国内16冠を誇る常勝軍団で、計11冠獲得に貢献した。
日本代表では、各年代の世界大会で活躍。小野、稲本、遠藤、高原ら、黄金世代の一員として、99年の世界ユース選手権(現U―20W杯)で準優勝に貢献し、00年シドニー五輪にも出場した。A代表では02年日韓大会、06年ドイツ大会と2度のW杯を経験。日韓大会ではトルシエジャパンの代名詞にもなった“フラット3”の一角として全4試合でピッチに立ち、決勝トーナメント進出の原動力となった。ジーコジャパンではボランチ、サイドバックも務めるなど、ユーティリティーな選手として重宝された。
03年に左膝じん帯断裂の大ケガを負いながら日本代表に戻るなど精神力の強さも見せたが、近年は故障に泣いた。両膝に爆弾を抱えながらのプレーを強いられ、今季は日本代表DF昌子やU―21代表DF植田の台頭もあり、リーグ戦は3試合の出場にとどまった。
鈴木満常務取締役強化部長は「勝てる選手だった。人間的にもバランスが取れている」と今後、功績に配慮したポストを用意する。華々しい活躍を見せた名選手が、第二の人生を踏み出す。
◆中田 浩二(なかた・こうじ)1979年(昭54)7月9日、滋賀県大津市生まれの35歳。帝京高を経て98年に鹿島入団。海外では05年からマルセイユ(フランス)、バーゼル(スイス)でプレー。08年7月に鹿島復帰。日本代表では02年W杯日韓大会、06年W杯ドイツ大会に出場。J通算266試合33得点。国際Aマッチ通算57試合2得点。1メートル82、74キロ。左利き。
練習でパスを出す中田浩二
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ランニングする中田浩二(中央)
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練習後、サインする中田浩二
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[ 2014年12月4日 05:30 ]
中田の決断に同期も神妙 小笠原「複雑」曽ケ端「実感ない」
鹿島・中田浩二 現役引退
練習で汗を流す小笠原
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同期入団の3人は中田の決断に神妙な表情を浮かべた。小笠原は「ドッキリだから」と第一声を発し「もっと一緒にやりたかったし、もっとピッチに立たなきゃいけない選手。そんなヤツが辞めなきゃいけない…複雑です」と胸中を吐露。本山は「まだやるもんだと思っていた」、曽ケ端も「実感がない」と言葉少なだった。
最高の花道にするためにも、最終戦で勝って送り出すつもりだ。首位・G大阪、2位・浦和とは勝ち点2差だけに、優勝には勝利が絶対条件。その上で浦和、G大阪とも引き分け以下にならなければならない。G大阪とは得失点差だけでなく、総得点での争いになる可能性もある。本山は「優勝できればいいと思っている」と力を込めた。
ミニゲームでボールをキャッチする曽ケ端
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[ 2014年12月4日 05:30 ]
俊輔 引退の中田ねぎらう「お疲れさま」 自身は…今後も全力で
横浜の中村主将が“後輩”の引退を機に、あらためて自身のサッカー人生を全力で全うする決意を示した。
3日に日本代表でともにプレーした鹿島DF中田が引退を発表。その知らせを聞いた中村は「(長くプレーしてきた)鹿島で(現役を)終われるっていうのは選手として幸せなこと。お疲れさまでした」と、06年W杯ドイツ大会をともに戦った元同僚をねぎらった。
自身については「一日一日をかみしめながら、サッカーを全力で楽しんでいきたい」と、今後もプレーに打ち込んでいくことを強調した。
[ 2014年12月4日 05:30 ]
【鹿島】元日本代表DF中田浩二、引退「鹿島で現役を終えることが最良」
2014年12月4日6時0分 スポーツ報知
17年間の選手生活にピリオドを打つことになった鹿島・中田
鹿島は3日、元日本代表DF中田浩二(35)が今季限りで引退すると発表した。古傷の右膝の状態が思わしくなく、今季リーグ戦で3試合出場(計57分)にとどまっていた。鹿島で11個のタイトル獲得に貢献し、日本代表でも2002年日韓、06年ドイツとW杯2大会に出場。日本を代表する万能選手だった中田は17年の現役生活に終止符を打ち、今後はクラブスタッフとしてサッカーを学んでいく。6日のホームでの最終節(対鳥栖)後に記者会見する。
鹿島を長年支えた中田が、選手として最後の決断を下した。11月頃から来季の去就について考え始め、クラブとも会談した結果、現役を退くと決めた。3日に引退することを申し入れ、クラブ側も受け入れた。「いろいろな人に相談に乗ってもらった。本当に悩んだ」という末に、「鹿島アントラーズで現役を終えることが自分にとって、最良であるという結論に至りました」と説明した。
華々しい現役生活だった。帝京高で主将を務め、1997年度高校サッカー選手権大会決勝では東福岡高と対戦。大雪の中で1―2と敗れたが、高校サッカー史に語り継がれる名勝負を演じた。鹿島加入後は1年目から出場機会を得ると、2年目途中から主力ボランチに定着。左足の展開力と頭脳的なプレーで、国内3大公式戦のタイトル11個獲得の原動力となった。
日本代表での活躍も目覚ましかった。小野(現札幌)や高原(現相模原)らと、ナイジェリア開催だった99年ワールドユース(現U―20W杯)で準優勝を飾った「黄金世代」(79年度生まれ)。トルシエ・ジャパンが採用したフラット3の左ストッパーとして、2002年日韓W杯16強進出に貢献。06年ドイツW杯メンバーにも連ねた。05年1月に仏1部・マルセイユに移籍。スイス1部・バーゼルを含めて3年半海外でプレーし、08年7月に鹿島に復帰した。
最近は、08年10月に手術を受けた右膝の状態が思わしくなく、出場機会が激減。J2移籍などの選択肢もあったが、愛する鹿島でユニホームを脱ぐことにこだわった。今後は未定だが、クラブに残る形になる見込み。「立場を変えてアントラーズをサポートできるよう、将来についてクラブとしっかり話し合いたいと思います」。J1最終節・鳥栖戦が最後の試合となる。
◆中田 浩二(なかた・こうじ)1979年7月9日、滋賀県生まれ。35歳。帝京高(東京)から98年に鹿島入団。2005年にマルセイユ(フランス)、06年にバーゼル(スイス)でプレーし、08年に鹿島復帰。Jリーグ5度、ナビスコ杯4度、天皇杯2度と鹿島の11冠に貢献した。J1通算266試合出場33得点。日本代表では02年日韓、06年ドイツとW杯2大会連続出場など、国際Aマッチ57試合で2得点。182センチ、74キロ。
元日本代表・鹿島のDF中田浩二が引退
2014年12月4日
今季限りで引退する鹿島のDF中田浩二
J1鹿島は3日、元日本代表DF中田浩二(35)の引退を発表した。今季は3試合の途中出場にとどまった。今後はクラブ職員になる予定。「アントラーズで現役を終えることが最良という結論に至った。今後は今までと違った形でチームを支え、発展に貢献したい」と鹿島を通じてコメントした。6日、カシマスタジアムでの最終戦後に記者会見する。
滋賀県出身の中田は東京・帝京高から1998年に鹿島入団。マルセイユ(フランス)やバーゼル(スイス)にも所属し、2008年に復帰した。代表では守備の要として02年日韓W杯の16強入りに貢献。06年のW杯ドイツ大会にも出場した。
[ 鹿島:中田浩二選手 引退のお知らせ ]
中田浩二選手(鹿島)が2014シーズンをもって現役を引退することとなりましたので、お知らせいたします。
■中田選手コメント
「このたび、たくさんの思い出と感謝の気持ちを胸に現役を引退することを決断しました。いくつかの選択肢を前に、プロ選手としての葛藤はありましたが、やはりアントラーズで現役を終えることが自分にとって最良であるという結論に至りました。今後は今までと違った形でチームを支え、クラブの発展に貢献したいと考えています。立場を変えてアントラーズをサポートできるよう、将来についてクラブとしっかり話し合いたいと思います。最後になりましたが、今までピッチで共に戦ってきたチームメイト、クラブスタッフ、そしてサポーターの皆さん、夢のような14年間、本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします」
J1鹿島 中田、引退表明「ものすごく悩んだ」
鹿島-F東京 中盤にパスを出す鹿島・中田=8月30日、カシマスタジアム、嘉成隆行撮影
J1鹿島は3日、元日本代表のMF中田浩二(35)が今季限りで引退すると発表した。プロ17年目となる現役生活にピリオドを打つ中田は練習後、引退について「簡単に至った訳ではなく、ものすごく悩んだ」と心情を明かした。
クラブ幹部によると、中田とは11月中旬ごろから、出場機会の少ない現状や来季のチーム事情などについて話し合いを持ち、2日に本人から「引退する」との意志が伝えられたという。移籍なども含め最終的には「本人の判断」に任された。中田の引退決断は3日に選手たちに伝えられた。
中田は東京の名門・帝京高から1998年に鹿島に加入。主に守備的MFとして活躍した。5度のリーグ優勝に貢献するなどナビスコ杯と天皇杯を含め国内主要タイトルを11度獲得した。日本代表としては2002年、06年のワールドカップ(W杯)に出場。フランスとスイスの1部リーグでプレーするなど国際経験豊富な選手として知られた。
昨季は本格的に左サイドバックに取り組むなど、ユーティリティープレーヤーとしての存在感を発揮。今季は若手の台頭が目覚ましくリーグ戦は途中出場の3試合にとどまった。厳しい現状を踏まえ、中田は「本当にいろんなことが自分の中であり、結論に至った」と話した。
鹿島はクラブへの貢献度の高さや周囲から慕われる人柄などを評価しており、クラブスタッフとして残留させる方針を示している。6日に行われるJ1最終節の鳥栖戦後、サポーターへの引退のあいさつと記者会見を予定している。(小林久隆)
中田浩二の引退を報じる各紙である。
他クラブからのオファーもあったとのことであるが、鹿島にてユニフォームを脱ぐ決意をしてくれたことを嬉しく思う。
中田浩二と言えば、2005年のマルセイユ移籍について記さねばなるまい。
当時の記憶を紐解きたい。
中田浩二は、2004年夏に長期の負傷から復帰し、2005年シーズンは主軸として、そしてゲームキャプテンとしてチームを牽引する立場にあった。
2004年末には2005年1月末にて切れる契約を延長する旨を口にしておったが、2005年1月に練習参加として渡仏した後、契約延長の口約束を反故にし、移籍を強行した。
鹿島としては、編成後の出来事であり、また、0円移籍となったため、代替え戦力の補強がままならなかったことで遺恨を残す形となった。
ここで特筆すべきは、移籍の時期と移籍金の問題である。
12月の時点にて移籍の意思を表明しておれば、また、移籍金を残しておれば問題は少なかったように思える。
当時のJリーグの移籍システムは、移籍金の算出式が定まっており、また、契約が切れても自由に移籍の出来ぬルールであった。
鹿島としては、マルセイユ側の定めた2005年1月時点での微々たる移籍金を受け取ることを拒否し、悪しき前例を作ることを避けた。
これは大きな決断であったと思う。
ともあれ、鹿島としては、2005年シーズンを苦しい形で開始することとなったのである。
この中田浩二の行為に関しては、多くのサポーターが嘆き悲しみ、苦しんだことで知られる。
後々の鹿島復帰に関しても快く思わなかった者も多かったことも事実であろう。
しかしながら、鹿島はこの中田浩二の海外移籍から多くのことを学び、その後の海外移籍に関しては他クラブに先んじた契約を結んでおる様子。
また、中田浩二自身も鹿島復帰後に三連覇の立役者として、そしてベテランとして若手の規範となっており、クラブの顔として信頼を勝ち得ておる。
もう、遺恨について述べるサポーターは皆無であろう。
引退後も鹿島との関係は切れぬ。
これからもファミリーとして共に歩んでいこうではないか。