鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

スルガ銀行チャンピオンシップの相手はサンパウロ

2012年12月13日 | Weblog
来年8月に鹿島vsサンパウロ
 ナビスコ杯を連覇した鹿島が、来年8月の「スルガ銀行チャンピオンシップ」で、ブラジル代表FWルイス・ファビアーノ擁する強豪・サンパウロと対戦することになった。12日(日本時間13日)、南米のカップ戦コパ・スダメリカーナ決勝第2戦で、サンパウロがアルゼンチンのティグレを2-0で破り(2戦合計2-0)優勝した。

 ただ、前半ロスタイムに警官も出動する乱闘騒ぎが起こり、ティグレが「警官に銃を突きつけられた」と後半を放棄。異例の「45分決着」という内容で、サンパウロの優勝が決まった。結果を受け、鹿島の関係者は「サンパウロが来るのであれば注目度は上がる。ただ、放棄試合になるとは」と、とまどいながらも強豪との対戦を歓迎した。

 [2012年12月14日6時46分 紙面から]

コパ・スダメリカーナ、ティグレが警備員に暴行を受け試合拒否…サンパウロの優勝が決定
 ホームアンドアウェーで行われる決勝は、ファーストレグをティグレのホームで行い、0-0の引き分けで終えていた。サンパウロのホームでの開催となったセカンドレグは、23分にルーカス・モウラのゴールでサンパウロが先制すると、5分後にも追加点が生まれ、サンパウロが2点のリードを得る。この後、前半終了間際には乱闘も発生し、両チームに退場者を出す展開となる。

 そして、ハーフタイムに騒動が発生する。ブラジル紙『ランス』の報道では、ティグレの選手たちがロッカールームへ下がる際、会場の警備員などに暴行や脅迫を受け、後半のプレーを拒否したようだ。

 そのままティグレ陣営はピッチに出ず、試合終了の決定が下された。2戦合計2-0でサンパウロが勝利し、優勝カップが手渡された。

 優勝したサンパウロは、2013年に開催するスルガ銀行チャンピオンシップへの出場が決定。ヤマザキナビスコカップの勝者である鹿島との対戦が決まった。


コパ・スダメリカーナにて優勝したサンパウロである。
この結果、来年のスルガ銀行チャンピオンシップの相手が決まった。
これほどの強豪と戦えるチャンスはそうはない。
鹿島としては、連覇に向けて高いモチベーションを持って挑むこととなろう。
真夏の大会が今から楽しみである。

年間最多得点はジーコ

2012年12月13日 | Weblog
年間最多得点はメッシでなくジーコ氏、フラメンゴが主張
2012年12月13日 12:27 発信地:リオデジャネイロ/ブラジル

【12月13日 AFP】カンピオナート・ブラジレイロ(ブラジル全国選手権)1部のフラメンゴ(Flamengo)が、スペイン1部リーグのFCバルセロナ(FC Barcelona)に所属するリオネル・メッシ(Lionel Messi)が樹立した年間最多得点を上回る記録を、元所属選手のジーコ(Zico)氏が達成していると主張している。

 メッシは9日に行われたリーグ戦第15節のレアル・ベティス(Real Betis)戦で前半に2得点を挙げ、チームの2-1での勝利に貢献したとともに、1972年にゲルト・ミューラー(Gerd Mueller)氏が記録した歴代年間最多得点の85ゴールを更新した。

 しかし、リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)に本拠地を持つフラメンゴの主張によると、ジーコ氏は1979年に89得点を挙げているという。ブラジルの地元紙ランス(Lance)は、この年のジーコの得点はフラメンゴで81ゴール、ブラジル代表としての公式戦で7ゴール、そして親善試合で1ゴールだったと伝えている。

 フラメンゴの歴史家は「メッシは記録を破ってはいません。もし1979年にジーコがシーズン中フル出場していたら、100ゴール以上の得点を挙げていたでしょう」と語った。ジーコ氏はこの年、負傷により数か月の間戦線を離脱していた。
 
 ジーコ氏は現役だった1971年~1994年の間にプロ通算647得点、ブラジル代表として通算52得点を挙げた。また、優勝経験はないものの1978年、1982年、1986年と3度のサッカーW杯への出場を果たしている。日本代表、フェネルバフチェ(Fenerbahce)、CSKAモスクワ(CSKA Moscow)などの監督を務めたジーコ氏は、11月にイラク代表監督を辞任している。(c)AFP


年間最多得点記録保有者はジーコであると主張するフラメンゴである。
ここ数日、バルセロナのメッシがゲルト・ミューラーの持つ年間最多ゴール記録を塗り替えたと報じられておった。
しかしながら、そもそも最多ゴール記録はジーコの持つ89得点であるとの主張である。
ここに於いて、個人の記録云々はさほど本人は気にするところでなかろう。
ゲルト・ミューラーもジーコもそしてメッシも、プレイした時期も場所も異なり、同列に語るべきところではない。
ただ、彼ら全てが多くの人々に幸せをもたらすゴールを数多く記録したという事実だけで良いのではなかろうか。
ジーコは記録にも記憶にも残る偉大なプレイヤーであり人物である。
それを改めて記憶しておきたい。

1998年元日天皇杯優勝

2012年12月13日 | Weblog
鹿島が初V、今季2冠 鹿島3-0横浜フ
1998年 サッカー天皇杯決勝

(国立、観客48,016人)
【得点者】
前4分増田
前25分マジーニョ
後42分柳沢

 サッカーの第77回天皇杯全日本選手権最終日は1日、東京・国立競技場で決勝が行われ、鹿島が横浜フを3―0で下して初優勝を遂げた。4年前の決勝で横浜フに敗れた雪辱を果たした。鹿島は今季、ナビスコ杯に続く2冠に輝いた。鹿島は前半4分、増田がけり込んで先制し、25分にもマジーニョが追加点。終了3分前には、今季の新人王・柳沢がヘディングシュートを決めて快勝した。

 ○若き「代表候補」、大一番で脱皮 鹿島・増田(オーレ)

 思い通りの試合運びで、初優勝。若く才能あるMFが一皮むけたプレーを披露した。1998年は、鹿島のための一日で明けた。



前半4分、鹿島・相馬のパスをマジーニョがつなぎ、増田が先制シュートを決める。後ろは横浜フ・山口


天皇杯を制して喜ぶ鹿島。左から本田主将、マジーニョ、奧野、秋田、相馬  互いに出方をうかがう前半開始早々。鹿島は相手のすきを見逃さず、先制点に結びつけた。


 一瞬、中盤で左DF相馬が横浜フの右DF佐藤一のマークを外したときだ。ドリブルで中央に構えていたDFを誘い出す。ゴール前やや左に空いたスペースを逃さず、MF増田が走り込む。マジーニョを経てダイレクトパスが渡ると、決定的なチャンスになった。

 「佐藤は自分しか見てなかったから、後ろのスペースが空いていた。だれかが走り込むのを待っていた」と相馬。横浜フの主将・山口は「あの1点で浮足だった」と悔しがった。

 このゴールは、増田を生き生きとさせる効果もあった。周囲に「日本代表候補」と騒がれた重圧で、最近は精彩を欠いていた。だが得点の後は「思い切りプレーして、自分をアピールするしかない。代表でプレーするチャンスがほしい、という気になった」。

 次々に両サイドのスペースに走り込み、ドリブルや長短のパスでチャンスを作る増田は、逆襲からの展開で2点目もアシスト。横浜フのオタシリオ監督は、相手エースのマーク役を命じていたMF原田に、「ビスマルクを離れ、増田に付け」と指示した。

 24歳、売り出し中の増田。確かな自信とともに、歓喜の輪の中で、初めて天皇杯を頭上に掲げた。(忠鉢信一)

 ○鹿島・カルロス監督の話

 今季は相手からマークされる厳しい戦いだったが、チームワークの良さと強い向上心で二冠を取れた。来季はさらにシンプルなサッカーを追求したい。   

 ●横浜フ・オタシリオ監督の話  鹿島が持てる実力を発揮した。闘争心でも相手が我々より上回った。ここ2年間で優勝争いに絡めるようになり、チームは成長したと思う。   

 <完敗> 横浜フの守備陣が、鹿島の攻めにほんろうされた。2列目から飛び出してくる増田をフリーにするなど、マークの受け渡しに戸惑い、開始早々に失点。移籍する大嶽らが外れ、若手が入った布陣は、最後までまとまりを欠いた。この日が最後の指揮となったオタシリオ監督も「増田はすばらしいプレーをした」などと、相手をほめる言葉が多かった。


(1998/01/03 朝日新聞朝刊)

1997年シーズンを締め括る天皇杯優勝を報じる朝日新聞である。
クラブ史上最強と評されるこの年のチームは、リーグ戦こそ1つのミスで落としたが、ナビスコ杯を制し、天皇杯優勝を飾った。
この試合の中心は先制点を決めた増田であろう。
キレのあるドリブルで日本代表候補にまで名を連ねた。
懐かしい。
記憶に留めたい選手である。