5人の爺さん、自転車を漕いで
さー、今度は 城址巡り : そのー1(全8回)
野洲市(滋賀県)内の城址
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記のTOP掲載期間:4月9日~4月15日)
野洲市内の城址
城郭に詳しい方々のブログを検索すると、市内に17箇所ほどの城址
が取り上げられています。市内の神社参りを終えた5爺の次はこれら
のお城址巡りです。
いつもの集合場所、団地の東屋です 後方は三上山・近江富士
そこにはレリーフ 検地 十万日日延
この団地 東屋周辺には野洲市に纏わるこのようなレリーフがいくつもあります
三上藩 陣屋址
滋賀県野洲市三上に存在していた藩。 藩庁は三上陣屋です。
元禄11年(1698年)、美濃国郡上八幡の譜代大名の遠藤胤親
(えんどう たねちか)が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡三上に
陣屋を構えた。 (ウィキペデアより抜粋引用)
三上藩 陣屋(館) 址 この川は堀の名残りだそうです
城、それは彦根城、姫路城のような天守を持つ城だけが城ではなく
藩主などが過ごす館、陣屋、また戦場の砦なども城と分類されてい
ます。 それは防御の土塁や堀を廻らしており城そのものなんですね。
私が野洲市に越してきた時にはここに館が残っていました
場所は三上山登山口の直ぐ近くです
因みに滋賀県には1300以上の城址が確認されています。 日本では
1,2蕃目に多い県です。
この地は 検地 十万日日延 の舞台
天保一揆(天宝義民)です
今から170年余り前の天保13年(1842年)10月 現在の野洲市の
三上地区で大事件が発生しました。近江天保一揆 (天保十三年近江
国 三上藩一揆・水口藩一揆)です。
主要人物 土川平兵衛 しかし江戸送りされた11名は二度と野洲には帰ることはなかった
(現地の解説板の一部)
この事件は
野洲・栗田・甲賀三郡の農民約4万人が 幕府による検地(見分)の
中止を要求して決起し 三上村に押し寄せ幕府が派遣した役人から
10万日の日延べ(検地の中止)を勝ち取ったのです。
天保12年(1841)12月、天保の改革を背景に幕府は勘定方・市野
茂三郎ら一行四十余人が検地を開始した。その方法は、五尺八寸の
長さに六尺一分の目盛をつけた竿を、また公然と賄賂を受け取るなど
極めて悪辣なものでした。
12歳からの「滋賀の歴史」滋賀県中学校教育研究会社会部会編より拝借
拡大してご覧下さい 現地の解説板から
(上をクリック)
市野茂三郎らが押し寄せた群衆から逃れて隠れたとされる洞窟
三上山中腹にあります
時の三上藩は?
事態を掴めていなかった当時の三上藩、幕府からのお咎め、藩主の
動揺は幾ばくか・・、お察ししますね。 市野茂三郎をあの岩穴に隠し
て無事、江戸に帰したことで難を逃れたのでしょうかな。
三上山登山口にある一揆の解説板 解説する(?)MRYさん
桜生城址 (さくらばさま)
永禄年間(1556~1569年)に六角氏家臣の沢弾正少弼清光が築城し、
文禄二年(1593年)に廃城になったようです。
この桜生城址に建つお家の表札は現在も澤さんであり何代目かの当主
にあたられるんでしょうね。
堀の一部が残っています
土塁でしょう、今もしっかりと伺えます
場所は野洲市歴史民俗博物館、通称 銅鐸博物館の近くです
次回に続きます
おや、今回訪ねたお城、六角氏に繋がるお城ばかり?
そういえば、江南(近江の南半分)は六角氏、江北は京極氏が守護していた
今日もご覧くださいましてありがとうございました