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趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの城址歩き:安土城

2011-02-27 20:00:02 | 安土城址

    目からウロコ、安土城址
   =長谷川博美先生と歩く山城=

            (この日記の掲載:3月4日ー10日)

Kennyの城址歩き:
ちょっとしたきっかけで城址を歩いて3年、
と言ってもそれほど城址に
興味があった訳ではなく郷土史くらいは知っておかないと他府県から
の客に滋賀も説明出来ないし、ましてや周辺の友人知人は他府県の
方が圧倒的に多い。その方々のほうが滋賀の歴史を私よりよく知って
いるようでは面子にかかわると・・・。

そこで何か(当時20年がかりの発掘調査と復元が)やっていたので
その3年前にちょこっと安土城址へ立ち寄ってみました。 これがきっ
けで以来城歩きをする事になりました。

      
                      長谷川博美先生


先生のお話に、ほぉーそうなんやと:
ところが面白いもので、ちょこっとかじると疑問やもう少し知りたい事柄
が出て来るものです。過日専門家の先生と安土城址を歩く催しがあり
参加させて戴きました。これは日記に書き留めておきたい、そうだった
んやー(目からウロコ)と言う先生のお話しと現場を見てきた感想です。

その日記は2,3回に分けて:
この日の長谷川先生のお話しで書き留めるておきたい話題は15件
ほどあります。そこでこの日記では先ずは3点取上げます

      
       
現地の案内板を使い熱心に説明される先生


大手道がまっすぐに伸びるが・・:ーその1
こんな常識外れのお城は信長のこの安土城だけです。(Kennyの見解)

その大手道が80m程まっすぐに伸びて、でもやはりやがては鍵形に折れ
てその後極めて戦国時代の城然と幾重にも曲がり、頑強な黒金門や櫓台
と強力な防衛体制が整った城となり本丸、天主へと続いていきます。

          
                   大手道

この安土城は守る城から見せる城(権威の象徴)に主眼を置いたと言
われています。先ずは一番侵入され易い大手道がまっすぐに伸びてい
るのですが途中で急に曲がっています。 私は地形(そこからは勾配が
急になる)から来ていると思っていました。 ところが!
 
       
                   黒金門址
         軍学で言う「翳し虎口」、「翳し櫓」を設置している(先生のレジュメから)  
      この翳(かざし)虎口、翳櫓は始めて聞く言葉で、日を翳して見上げる
      
ようなやや高い位置に設置されています。

先生のお話:
最大限見せる城を意識をしているがやはりそこは城、出来るだけ大手道
を直線にはしておくが主郭に至るに従い防御構造を強固にしたとの事です。
      
       
           上部突き当たりで直角に折れる大手道
       
なるほど!
そうか、でないといつ攻撃されてもおかしくないですよね。いくら権力が
集中していた信長と云えど。

その鍵形に曲がる位置に定礎が:-その2
どのビルにも必ず定礎(測量の基準点)という物があるのだそうです。
そこで、この安土城にも当時の中世ヨーロッパで言うビスター線 (見晴
らし線)がすでにに存在した事は
驚くべきと事だとした上で、これを導入
して定礎を大手道が鍵形に曲がると位置に設置していると先生はみ
ておられます。
  
       
               この位置に定礎を設置
                   
なるほど、その鍵形に曲がるところ、そこはまさに聳える天主が真上に
見える場所です。 この地点が天主を見上げる最っともいい展望地点!


先生のお話:
これは雄大な安土城をより雄大に見せるために展望位置が設定された
と考えられ、この定礎から真北に城の中央線を設定して放射線状に幾何
学律に測量されたと。さらには、城郭一帯は扇形に構築されより壮大に、
映えるようになっている。
     
          
             扇状を構成する湾曲構造の石垣

天主址の真ん中に礎石がない:-その3
先生のお話しとこれらの見解は先生が
実際に現地で測量してだされて
いるのは勿論ですが、表題のことも初めて知りました。そして天主の中
心点と真北、さらに大手道が鍵形に曲がる定礎があると言われる位置が
一直線上にあるのです。またその
天主の中央部の礎石一つだけが欠
けており(他の礎石は全て残っています)天主のその位置に
仏教
の宝
塔があったのではと言われています。

    
             矢印(X)のところに中央線が走る
        またこの中心部には礎石がない

この見学会:
主催者:  賎ケ岳フォーラム実行委員会                   

事務局: ウッデーパル余呉  
    (HP:ウッデーパル余呉で検索可)

          この施設は古戦場、賤ケ岳や近年ではわかさぎ
     釣りでも有名な鏡湖、余呉湖にも近い四季を通じ

     て楽しめるルゾート地です。

講 師:
長谷川博美先生  滋賀民俗学会理事 
              近江中世城郭調査委員会会長

               他、各研究会の会長として研究と
                            指導

              HP: 長谷川博美城郭 で検索可

 (当日記の掲載に関して、主催者、講師先生のご了解を頂いております)


今日の日記の終わりに:
安土城目からウロコの第一回目の日記、ここまで先生のお話しを私
なり
の言葉で記載しましたがそれでもやや難しい内容です。間違っ
ていなけ
ればいいのですが・・・。

いづれまた後2,3回に分けてへーそうなんやー、という先生から
教わった
お話しを日記にまとめたいと思います。

    今日もご覧くださいましてありがとうございました。

 

 

 

コメント (4)
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目からウロコの企画展: 安土の県立博物館!!

2010-08-11 15:49:50 | 安土城址

    琵琶湖に世界最大級の軍艦が、知らなんだ!
  =郷土史に触れることが出来る強い味方=

   お礼とお知らせ
  この日記を読んで茲愉有人さん大船に関するコメントを寄せて下さいま
  した。信長公記に記載の内容と解説です。合わせてこのブログの一番下に
  ありますコメント欄もご覧いただ
れば幸いです。
  茲愉有人さん、ありがとうございます (Kenny,8月20日)
  
   
    ”味方、それは安土町にある県立安土城考古博物館です”
 そして更には日々研究されている学芸員の皆様、関係する方々です。
 (この紹介の仕方でいいのかな??ですが) 兎も角我々に歴史のロマン
 を与えて下さる関係機関、関係する皆様が郷土史に興味を持つ者に
 とって本当に強い味方です。

 先ず一つ目の驚きは:
     
当時では世界最大級の大船(軍艦)が琵琶湖に!
 知らなんだー(これって滋賀弁?)、信長が安土城を築く前にどう見て
 も戦闘用ではなくて威勢を誇る為にあの岡部又右衛門(安土城築城
 の棟梁)に造らせてその軍艦を琵琶湖に浮かべていたと言うのです。
 長さ54m 幅が13mと推定されています。 あの丸子船(100石積)
 が長さ17mですからその大きさが伺い知れます。         

 
  
            信長の大船(想像画)
  お断り:
  掲載の写真は財団法人滋賀県文化財保護協会編集・発行の「戦国の琵琶湖」
  からの転用です。転用にあたりこのブログでの使用については展示室の責任者
    にご了解を戴いております。また記述内容は講座の受講、ロビートーク、当記念誌
  および見学(もっともこの企画に参加して始めて知った史実です)の感想文として書
  かせていただいております。従い詳細は博物館に足を運んでいただき、さらに
     記念誌「戦国の琵琶湖」を見られると多くの写真と共に満載の興味深いお話に触
  れることが出来ます。会期は9月26日までです。

    
    記念誌:「戦国の琵琶湖」                  戦国の琵琶湖展;県立安土考古博物館
                           (企画展会期:7月17日~9月26日)


 この数年毎月何日か安土町(滋賀県)に通っています。そこは県立安土
 城考古博物館です。今「戦国の琵琶湖(うみと読ませています)・近江の

 城の物語」というすばらしい企画で展示、講座、展示室で学芸員さんと
 のトーク(展示物の解説)が開催されています。 と言うか、一年を通じて
  展示内容に変化を持たせていつでも何かのテーマで開催されています。 

  目からウロコ、ぞくぞくと: 大船、刀がネクタイ?、鎧はレンタル?

 今回は目からウロコの(と言っても、そりゃーKennyさんよ、アンさんが
 知らなんだだけで、ウロコでもなんでもない!と言われるのは覚悟の上
   で)史実をちょっと私の記憶の為にメモって見たいと思います。 一緒に
  ご覧いただければ幸いです。

  1.大船(この記事のTOPの写真):
         その大船、つまり軍艦は湖北や湖西の高島あたりに出陣して戦火を
     交えたようだが、湖から陸に向かって大軍の部隊を攻撃するのに軍艦
     が優れているはずがないと学芸員さんの話には説得力があります。
     実際、安土城築城と同時に解体してしまったとか。信長を歴史ドラマで
     知る限り、信長らしいやり方だと思います。
  2.刀:
    チャンバラ映画で切りあいをやっていますが、あれは映画での姿で
    あろうと・・。実戦では弓矢、槍、鉾、そして鉄砲伝来以降は弓矢さえ
    端に追いやられます。 合戦は殺し合いで誰しも怖くて相手の目の
    前で短い刀で戦うのは勇気のいることであり、出来るだけ離れて戦い
    たいのが人間。従って刀は補助的な武器だったと言われているそうです。
    第一刃を叩き合ったら数分で刃(は)が欠けてしまい刃物にならないの
    では? には一同爆笑です。そこで刀は武士が身に着け武士然とする
    装備、つまりサラリーマンで言うネクタイのような位置付けであった、と
    のお話も面白い表現だと思います。
                

              
          刃は欠けてはいない!             鎧

   3.鎧:中には和紙製も!
     
年中合戦はないので、駆り出される(雇われる)兵士(足軽)は平時は
     農業に従事しています。全員が鎧を持っている訳ではなく、有事には
     武将から貸与されます。それを御貸用具(おかしようぐ)と言いいます。
     つまりレンタル(武将も不足分は借り集める?)と言うことです。 
     そして更に驚くのはその鎧が和紙製であったりするとか。相手に弱体
     を見せられないので鎧姿を装う、従い弓矢や鉄砲玉を防ぐ役目は果
     たせないとは、兵士も知ってか知らずか・・・・。

   4.毛抜き: そんな物がその時代に!
      毛抜き?Kennyは使ったことはないが確かに存在しますね。でもその
            時代から毛抜きがあったとは! 戦いに赴き、首を獲られても醜くない
           ようにと当時は男性でも化粧をしたそうな。更にこの時代冑で蒸れる
           ことを防ぐ為に月代(さかやき)が一般的になり前頭部から頭頂部の
           頭髪を取り除くのにこの毛抜きが大事な道具だったそうです。そうか、
    それなら納得と言うものです。


           
              毛抜き               手裏剣など

   5.忍者: 根回し役(表現はこれでいいいのかな?)だった
   
 忍者は情報ネットワークの担い手(と入手の記念誌で表現)だったんで
    すね。 これを知っただけでも嬉しくなります。 戦争、それは誰でもやり
    たくはない。避けて通れるものならばと考えるのは当然です。そこで
         情報を収集して戦況を有利にする。さらに相手武将に根回しをして和睦、
    寝返りなどを図るのに忍者が活躍したのだそうです。 敵地に侵入して
    情報を手に生還して主人に伝える、これが忍者の大事な役目だったの
    です。

終わりに:
 1.まだまだ話題は尽きませんが、ここに書いた事は郷土史初心者の正直な
   感想です。しかしこの企画展は城がもたらすもっと造詣の深い内容
       あるものです。 興味がお有りの皆様は是非一度現地を訪ねてみてはい
       かがでしょうか。 安土城跡に近い信長の館がある同じ敷地です。

     
            安土城大手道                   セミナーの様子

 2.これだけの情報を関係する方々のご努力のお陰で私達が、そして私が
   このブログにほんの数日で書かせていただけることに何か申し訳け
       ないような気がします。しかし引退後の人生真っ只中、自身で調べ上げ
       て知るには時間が足りません。甘んじてこのような企画に参加しこれを
   参考に郷土史を学ばせていただきます。

         今日もご覧くださいましてありがとうございました。
          
(この
日記の掲載期間:8月19日ー8月26日)
    

コメント (5)
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安土城物語に戻ります

2009-10-22 12:11:11 | 安土城址

安土の城は本当に築城3年にして燃えてしまったんです!

何を今更と思われるでしょうが、その事実を見たお方は今は世界中の何処にも
おられない。だから史実としてもはっきりと証明、確認できる物を見ない限り
私はそんな考えしか出来ないのです。

さて、今でも確かにその燃えた跡が残っています。今日は先ずその一つを紹介
します。

                  

それが、添付の写真なのです。写真が小さくてよく見えないかな?

天主の礎石にくっきりと柱の焼きついた跡が残っているのです。

過日の現地説明会で学芸員の方からまず間違いはないだろうとして説明が有り
ました。

礎石に丸い赤茶けた跡が見えます。 大火の、その跡と信じております。

ロマンと言うには少し怖いような戦国時代の出来事です。でも歴史はロマンと
言うそうですね、まずはご覧下さい。そして現地に行かれたら山頂(天主)
にある幾つも並んだ礎石を一つひとつ見て探してみてください。

現地で、伝羽柴秀吉邸跡と頭に「伝」と付けて解説してあります。それはやはり
断言を避けてロマンを楽しむと言うことではないでしょうか。

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安土城跡は20年かけて発掘調査されました!

2009-10-10 22:42:17 | 安土城址

安土城跡、確かにあの絵で見る金色の天守閣を持つ安土城が聳え立っていたのす。
しかしそれは30年ほど前に私がそこを尋ねた時には想像もできませんでした。

本当にここにあの絢爛豪華なお城があったのだろうかと・・・。

1.その30年前は安土城があった山は正に登山でして、草木が被いかぶさった
  山道を登り、たどり着いた頂上には単に天守閣の礎石が散在しているだけで
  私にはとてもあの金ぴかのお城は想像出来ませんでした。 

             

2. 滋賀県が発掘調査を20年掛けて行い添付の写真のような大手道が発掘されました。
     しかし写真に見るその大手道は土の中に埋もれていたのです。

3.確かに城は燃えてしまったのですね。 礎石に柱の後が焼き付いていました。 
  焼けた熱で石垣にクラックが無数に入っていました。

以降、淡海の城友の会で報告された調査内容、および現地見学会で私がとっても感動した
事柄、事実を書かせて戴きます。

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なぜ信長は安土に城を築いたか?

2009-10-01 20:55:25 | 安土城址

安土城のこと第二話:なぜ信長は安土を選んだのか?

         
                (写真:安土町、安土城観光パンフレットから)

430年前の1582年、6月2日午前4時頃に本能寺の変で信長は死去。
同年に本丸などが焼失します。安土城の築城は1576年に始まり信長は
3年後の1579年に安土城に移り住みます。わずか3年の居城でした。

昨年6月1日滋賀県の安土町にあるセミナリヨで「信長の棺」の著者、
加藤廣先生の講演があり興味深い表題のお話しが有りましたので紹介
します。

それは結論として滋賀は京都より「日の出、月の出が見易い」事だと
加藤先生の説です。 以下に講演内容を:

1.一般的な安土町での築城の理由は:
岐阜から当時の政治の中心、京都に近い。琵琶湖が湖上交通(水運:戦略、
物資の輸送に)利用できる。北国街道の要所にあり監視が効く。

2.さらに加藤先生は:
安土城の天守閣の四辺が東西南北に向いている。安土城の天守は下を見て
敵を監視するのではなく、上を見る。つまり天象観測だとの説。

信長は冷酷非道と言うが一方、好奇心の強い人物。当時の暦にづれが大きく
役立にたたない。朝廷に対し改良の注文をつけるが受け入れられない。
(欧州でグレゴリオ暦に変えたことを宣教師から聞いていたのではと)

そこで安土に天皇を迎え入れ、天守の東西南北から御帝と一緒に眺めるため
安土城に大手道まで造った。

3.さて、なぜ安土にだが:
京都では四方が山に囲まれ、日の出、月の出が見えにくい。そこで岐阜から
京都に近い場所で、天象観測に都合のいい滋賀県、安土(西が琵琶湖岸でも
あり)に築城した、と加藤先生はお話しされた。

詳細は先生のご著書「信長の棺」342ペ-ジ前後にあります。

添付写真:安土城はこんな感じ、風景だったのでしょうね・・・・。

コメント (6)
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