『羽化登仙』素敵だなと思ったらこいつをポチッと押して下さいね→
よろいくね。
(題字は言葉もデザインもご両親の手になるものです)
大森俊輔君が交通事故に遭い、2週間の闘いもならず、旅立ってから間もなく一年が経とうとしている。もう一年か?、まだ一年か?不思議な感覚に襲われるのだが、現実は彼がここにはいないということだ。
そんな彼の二〇年を形に残したいと思った。
昨年の秋、ご自宅へお伺いし、ご両親に少しこのお話をした。とても喜んで下さった。それから半年あまり、同級生や後輩、先輩や彼に講義をした先生方、一緒にベトナムへ行った仲間達が一文を寄せた。
特に嬉しかったのはご両親から、毎年の年賀状に認めてきた文章と写真を自ら編集して下さってお送り頂いたことだった。こんな風にお子さんの記録をきちんと残していらっしゃることにも感動した。だからあの素敵な個性が形成されたのだと理解した。それだけにその個性が亡くなったことに改めてショックを覚えた。
追悼文集の書名もお願いしたところ
『羽化登仙』
と下さった。さすが!!と思わず手を打った。題字のデザインも自らなさって下さった。それがこれだ。
もし希望者がいらっしゃったら少しはお分けすることができると思う。私の研究室またはこのブログのコメント欄、或いは私のメールまで、お名前、ご住所を書いて申し込んで下さい。送料込みで1000円くらいが実費の予定です。
以下は私の拙い「編集後記」です。
『羽化登仙』を編み終えて
山中章
何から書き始めればいいのだろうか。
そんなことを思いながら月日がどんどん過ぎていった。間もなく一年である。早いのか遅いのか、よく判らないが「まだ一年しか経っていないのか」、というのが実感だ。はるか昔のことのように、今の僕には思える。
大森が事故に遭い、皆さんに激励の要請をし、折り鶴をお願いし、いろいろな方とお会いする中で少しずつ大森の素顔が見えてきた。僕が知っている大森とは全く違う顔もあった。思いがけない人の繋がりも知ることとなった。この短い人生を何とか形に残してやらねば、と思った。四九日が過ぎて、ご自宅へお伺いしたとき、そのことをご両親にお話しした。とても喜んで下さった。
その帰路、お父様が駅まで送って下さった。何気ない世間話をする中で、意外なことが判った。
僕の大学時代の親友とお父様が同じ研究室だったというのだ。その上、卒業が少し遅れた親友と一緒に大学での歌謡コンテストに出て優勝し、ビールを一ケースゲットし、大盛り上がりしたことがあったという。後日、北海道にいる友人に会った際、その話をすると、もちろん彼もよく覚えていて、ビールゲットの主役はお父様の美しい歌声だったという。
そしてその友人宅でもう一つの繋がりが。
大森の就職先は津和野の三松堂さんだった。二〇〇八年の正月明けの頃、大学で会った彼は珍しくスーツを着ていた。
「どうしたんや?」「就活です」「何処受けるんや」「食品関係です」「フーン?何でや?」「食べ物を作ることに興味があって・・・」「・・・、!お前、お菓子作る気あるか?和菓子。」「ええ。」「あんな、僕の友人の懇意にしている和菓子屋さんが島根県の津和野にあるんや。そこのお店な、面白いお菓子を一杯作っているんや。もっと面白いのはそこの社長さん。ホームページを見るととてもユニークなんや。一回覗いてみいひんか?」「ハイ、判りました」
こんな会話を数分間したと思う。数日後、彼に会うと「面接に行くことにしました。来週行ってきます。」という。その素早い行動にはびっくりした。その面接の様子は、本文中の小林智太郎(三松堂社長)さん、石井進(工場長)さんお二人の文章で甦っている。もちろん直ぐに報告があって、「内定をもらいました!!」と、とても嬉しそうに報告してくれた。しかし決まってみると不安なもので、「ご両親は、津和野なんていう田舎(失礼!いいところですよ、もちろん)に就職して何とも言わはらへんかったか?」と聞いた。「エエ、うちは兄は東京、妹は北海道、そして今度僕は島根ですから、「老後にあっちこっち旅行に行けるから嬉しい!」と言うてました。」とあっけらかんとしていた。ホッとした。
その三松堂のお菓子のパッケージに北海道の友人の家で会ったのだ。「???(そんなに有名なのかな?―失礼!!)・・・これどうしたん?」「わしの奥さんの実家の近くで、小学校の先生をしていたお母さんの代から懇意で、よく買うんじゃ。」「この前言うた、あんたのご学友の息子、ここへ就職することになってたんや。」「世間は狭いな―・・・」
『大森俊輔追悼文集』は、こうして大森の同級生であった大竹孝平を中心にして、二〇〇八年の秋頃から本格的な編集作業に入った。研究室に残る写真を集め、先輩や後輩に想い出を書いてくれるように依頼することから始まった。しかし、その後編集がぴたっと止まってしまった。遅々として進まない作業に業を煮やした僕は「今まで出来たものを持って大森の家に行って、ご両親にいろいろ相談してみようやないか」と、編集を引き継いだ三年生に発破をかけた。
ちょうどその頃、また新たな意外な事実が伝わってきた。
私たちの所属する人文学部文化学科中世史ゼミの卒業生が結婚することになったという。彼女は一年生の頃から進路を歴史と決めていて、とても熱心に勉強していた学生で、その卒業論文は「中世後期における比丘尼御所の存在形態」という熊野信仰に関わる興味深いものだった。考古学にも興味を持っていたので僕もとてもよく知っている。ナナナント、その彼女が大森の従兄弟と結婚されるというのである。本当に世間は狭い!!のである。その大森準さんからも一文を頂くことが出来た。
そんなこんなで、四月に入ってようやく作業が進み出した。特にご両親に原稿をお願いしたところ、第Ⅰ部という形でとても素敵な文章や写真を、きちんと編集した上で送って下さった。お尻に火が付いた編集作業はその後一気に進み、最後に、ご両親からはとても素敵な書名題字をデザインまでして頂いた。
「羽化登仙」
僕も間もなくそちらへ行くことになろう。その時楽しく自由に彼岸を飛び回っている大森に会えることを楽しみにしている。
二〇〇九年六月一一日
三重大学人文学部考古学研究室にて、伊勢湾を眺めながら 山中 章
(三重大学人文学部教授)
(雪の壬申の乱ウオーク!第10回は大雪だった。)
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(題字は言葉もデザインもご両親の手になるものです)
大森俊輔君が交通事故に遭い、2週間の闘いもならず、旅立ってから間もなく一年が経とうとしている。もう一年か?、まだ一年か?不思議な感覚に襲われるのだが、現実は彼がここにはいないということだ。
そんな彼の二〇年を形に残したいと思った。
昨年の秋、ご自宅へお伺いし、ご両親に少しこのお話をした。とても喜んで下さった。それから半年あまり、同級生や後輩、先輩や彼に講義をした先生方、一緒にベトナムへ行った仲間達が一文を寄せた。
特に嬉しかったのはご両親から、毎年の年賀状に認めてきた文章と写真を自ら編集して下さってお送り頂いたことだった。こんな風にお子さんの記録をきちんと残していらっしゃることにも感動した。だからあの素敵な個性が形成されたのだと理解した。それだけにその個性が亡くなったことに改めてショックを覚えた。
追悼文集の書名もお願いしたところ
『羽化登仙』
と下さった。さすが!!と思わず手を打った。題字のデザインも自らなさって下さった。それがこれだ。
もし希望者がいらっしゃったら少しはお分けすることができると思う。私の研究室またはこのブログのコメント欄、或いは私のメールまで、お名前、ご住所を書いて申し込んで下さい。送料込みで1000円くらいが実費の予定です。
以下は私の拙い「編集後記」です。
『羽化登仙』を編み終えて
山中章
何から書き始めればいいのだろうか。
そんなことを思いながら月日がどんどん過ぎていった。間もなく一年である。早いのか遅いのか、よく判らないが「まだ一年しか経っていないのか」、というのが実感だ。はるか昔のことのように、今の僕には思える。
大森が事故に遭い、皆さんに激励の要請をし、折り鶴をお願いし、いろいろな方とお会いする中で少しずつ大森の素顔が見えてきた。僕が知っている大森とは全く違う顔もあった。思いがけない人の繋がりも知ることとなった。この短い人生を何とか形に残してやらねば、と思った。四九日が過ぎて、ご自宅へお伺いしたとき、そのことをご両親にお話しした。とても喜んで下さった。
その帰路、お父様が駅まで送って下さった。何気ない世間話をする中で、意外なことが判った。
僕の大学時代の親友とお父様が同じ研究室だったというのだ。その上、卒業が少し遅れた親友と一緒に大学での歌謡コンテストに出て優勝し、ビールを一ケースゲットし、大盛り上がりしたことがあったという。後日、北海道にいる友人に会った際、その話をすると、もちろん彼もよく覚えていて、ビールゲットの主役はお父様の美しい歌声だったという。
そしてその友人宅でもう一つの繋がりが。
大森の就職先は津和野の三松堂さんだった。二〇〇八年の正月明けの頃、大学で会った彼は珍しくスーツを着ていた。
「どうしたんや?」「就活です」「何処受けるんや」「食品関係です」「フーン?何でや?」「食べ物を作ることに興味があって・・・」「・・・、!お前、お菓子作る気あるか?和菓子。」「ええ。」「あんな、僕の友人の懇意にしている和菓子屋さんが島根県の津和野にあるんや。そこのお店な、面白いお菓子を一杯作っているんや。もっと面白いのはそこの社長さん。ホームページを見るととてもユニークなんや。一回覗いてみいひんか?」「ハイ、判りました」
こんな会話を数分間したと思う。数日後、彼に会うと「面接に行くことにしました。来週行ってきます。」という。その素早い行動にはびっくりした。その面接の様子は、本文中の小林智太郎(三松堂社長)さん、石井進(工場長)さんお二人の文章で甦っている。もちろん直ぐに報告があって、「内定をもらいました!!」と、とても嬉しそうに報告してくれた。しかし決まってみると不安なもので、「ご両親は、津和野なんていう田舎(失礼!いいところですよ、もちろん)に就職して何とも言わはらへんかったか?」と聞いた。「エエ、うちは兄は東京、妹は北海道、そして今度僕は島根ですから、「老後にあっちこっち旅行に行けるから嬉しい!」と言うてました。」とあっけらかんとしていた。ホッとした。
その三松堂のお菓子のパッケージに北海道の友人の家で会ったのだ。「???(そんなに有名なのかな?―失礼!!)・・・これどうしたん?」「わしの奥さんの実家の近くで、小学校の先生をしていたお母さんの代から懇意で、よく買うんじゃ。」「この前言うた、あんたのご学友の息子、ここへ就職することになってたんや。」「世間は狭いな―・・・」
『大森俊輔追悼文集』は、こうして大森の同級生であった大竹孝平を中心にして、二〇〇八年の秋頃から本格的な編集作業に入った。研究室に残る写真を集め、先輩や後輩に想い出を書いてくれるように依頼することから始まった。しかし、その後編集がぴたっと止まってしまった。遅々として進まない作業に業を煮やした僕は「今まで出来たものを持って大森の家に行って、ご両親にいろいろ相談してみようやないか」と、編集を引き継いだ三年生に発破をかけた。
ちょうどその頃、また新たな意外な事実が伝わってきた。
私たちの所属する人文学部文化学科中世史ゼミの卒業生が結婚することになったという。彼女は一年生の頃から進路を歴史と決めていて、とても熱心に勉強していた学生で、その卒業論文は「中世後期における比丘尼御所の存在形態」という熊野信仰に関わる興味深いものだった。考古学にも興味を持っていたので僕もとてもよく知っている。ナナナント、その彼女が大森の従兄弟と結婚されるというのである。本当に世間は狭い!!のである。その大森準さんからも一文を頂くことが出来た。
そんなこんなで、四月に入ってようやく作業が進み出した。特にご両親に原稿をお願いしたところ、第Ⅰ部という形でとても素敵な文章や写真を、きちんと編集した上で送って下さった。お尻に火が付いた編集作業はその後一気に進み、最後に、ご両親からはとても素敵な書名題字をデザインまでして頂いた。
「羽化登仙」
僕も間もなくそちらへ行くことになろう。その時楽しく自由に彼岸を飛び回っている大森に会えることを楽しみにしている。
二〇〇九年六月一一日
三重大学人文学部考古学研究室にて、伊勢湾を眺めながら 山中 章
(三重大学人文学部教授)
(雪の壬申の乱ウオーク!第10回は大雪だった。)
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