yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

研究会報告「伊勢神宮はいつできたのか」の条

2009-12-31 12:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 12月19・20日は国立歴史民俗博物館での「新しい古代国家像のための基礎的研究」第3回研究会での報告であった。
 私の報告は

 「皇祖神の伊勢奉祭と制度化への道~考古学からみた3~8世紀の伊賀・伊勢・志摩と古代王権~」

であった。平たくいえば、現在、皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮はいつ成立したのかを考古資料から探ろうというものである。天照大神が天皇の祖先神として祀られた時期がいつなのかについては、『日本書紀』の記載を中心にして各種史料の検討から様々な意見が出されている。しかし、いずれの説を採るにしても、文献史学の研究は八世紀に編纂された史料を基礎文献とするに過ぎず、当該期の資料から分析することはできないのが現実である。
 しかし、文献史学に頼らなければ頭書の課題は解決できないのであろうか。そもそも、いずれの説を採るにしても対象時期の信頼できる原資料は考古資料をおいて存在しない。もちろん、考古資料は寡黙であり、そう簡単には伊勢神宮の創設時期を教えてはくれない。だから丁寧に、根気よく、新旧の資料を見直し、探しだし、分析しなければならないのだが・・・。

 こうした困難さがあってか、これまでほとんど考古学からこの課題に挑んだ研究は皆無に近かった。

 ところが最近、三重県の穂積裕昌氏が「考古学から探る伊勢神宮の成立と発展」(『第16回春日井シンポジウム資料集』春日井市教育委員会2008年)を発表し、この課題に果敢に挑戦し、大きな成果を出すことに成功した。

 今回の歴博での私の報告は、穂積氏の研究に導かれて、その驥尾に付して、若干の私見をまとめたものに過ぎないが、少し紹介してみたい。
 
 穂積氏が用いた考古資料は
 ① 多気町石塚谷古墳出土銀象眼大刀と江田船山古墳出土大刀、
 ② 斎宮周辺検出の土師器焼成土坑群と久居古窯や稲生古窯の成立による須恵器生産の開始。
 ③ 鳥羽市神島八代神社神宝(頭椎大刀・画紋帯神獣鏡・ミニチュア紡織具等)
 ④ 明和町坂本1号墳出土頭椎大刀
 ⑤ 松阪市佐久米大塚山古墳出土鉄地金銅装小札鋲留眉庇付冑
 ⑥ 伊賀市城之越遺跡
 ⑦ 伊勢神宮内宮採集滑石製玉類
 ⑧ 伊勢市高倉山古墳横穴式石室
等多岐にわたり、資料の性格やその該当時期について詳細に分析した。その結果、伊勢神宮成立の時期やその展開の様相が明らかにされ、5世紀後半を伊勢の地と大和王権との関係の画期と捉えた。

 穂積氏の指摘に異論を鋏む余地はないのだが、何点かの補足資料や別視点からの検討も可能なのではないかと思い、若干の私論を展開してみた。

 その第一は、分析するまでもないからされていないのかも知れないが、前方後円墳の展開のあり方である。既によく知られているように伊勢地域に前方後円墳が本格的に採用されるのは、北勢では麻績塚や高塚山古墳、中勢では池ノ谷古墳や宝塚1号墳である。しかしなぜか、伊勢地域ではこの後、7期とされる5世紀中頃末頃まで前方後円墳が築かれないのである。伊賀地方の前方後円墳が石山古墳の本格的な築造以降も連続的に展開するのと大きな違いを見せる。

 伊勢神宮が大和王権と深い関係にあるとするならば、当然前方後円墳の展開がなければならないだろう。即ち、大和王権と伊勢との関係は、前方後円墳の展開という姿から見ると、5世紀後半までは深くなかったと言わざるを得ないのである。

 さきの穂積氏の分析を見ても判る通り、伊勢の地に大和との関係を示す資料は5世紀後半になってようやく増加する。

 5世紀後半とは、文献史学ではおおよそ雄略朝とされる。では伊勢神宮はこの時期に成立したのだろうか。

 確かに、伊勢湾の先に浮かぶ神島は、伊勢神宮にも近く、美しい姿は伊勢湾内で異彩を放つ島である。その島の八代神社に5世紀後半に始まるとされる神宝類が多数奉納されているとすると、これを神宮と結びつけたくなる心境がわからないではない。しかし、神島と伊勢神宮を直接的に結ぶ材料はどこかにあるのだろうか?

 機織具のミニチュアなどが宗像神社の聖なる島である沖ノ島神宝類と類似することはよく知られている。しかし、沖ノ島は海上航行の安全を祈願する島として知られているのだから、神島も同様の性格と見てはいけないのだろうか。神島の神宝は、太陽神ともされる天照大神と直ちには繋がらないのだ。

 須恵器生産や土師器生産の開始(大量生産)も、途絶えていた大和王権と伊勢との関係を告げる新しい情報であることは間違いない。しかしこれらの製品が伊勢神宮に供給された証拠はどこにもない。

 5世紀後半が有力な時期である点は否定できないが、それ以外にも関係を考える資料はないのだろうか。これが私のささやかな提案である。

 その第一が、6世紀後半に外宮の裏山に構築される高倉山古墳であり、第二が、6世紀末~7世紀初めにかけて急激に進む大和王権の伊勢・伊賀・大和・三河を結ぶ水陸両交通路の確保である。
 高倉山古墳は6世紀後半に築造された伊勢地方最大の横穴式石室を持つ古墳である。外宮の裏山に築かれ、これまでにも穂積氏を始め多くの研究者からその存在が神宮との関係で論じられてきた。果たして誰が何の目的でこの古墳を築造したのか。この解釈を再検討すべきと考えたのである。
 6世紀後半という時期は、大和と地方との関係が激変する時期として知られる。しかし、考古学はこれまで、この激変する時代の変化の解釈を文献史学に委ねすぎてきたのではないかと考えている。高倉山古墳も南勢地域への大和王権の直接的影響力行使の象徴的存在と見ることができるのではないだろうか。その地が「外宮の裏山」である点は見逃すことができない。高倉山古墳の築造は、「外宮」即ち在地有力氏族の取り込みを意味するとも言えるのである。

 さらに伊勢地方で目立つのは、当該時期に、大和から東へ進出するに不可欠な交通路上に、大和王権の影が色濃く見えることである。後の古代官道・伝路沿いに数キロおきに王権の直接支配を示す物品を埋納した古墳が展開する(その根拠は既に脚付短頸壺の分布から証明したことがある)。

 高倉山古墳の築造や脚付短頸壺の分布から、6世紀後半にも大和王権は伊勢地方全体に直接的に大きな影響力を行使することが判る。これが私のささやかな私論である。

 もちろん研究会では、賛否様々で、反論の中心は、「6世紀後半には全国的に同様の事態が起こっており、これを伊勢独自の動向とみなすことはできない。」というものであった。確かにこうした変化に歴史性を読み取ろうとする基本的姿勢がなければ、伊勢のこの事態も平板にしか見えない。しかし、少し視点を変えればとても重要な事態であることに気付く。そもそも全国的に、その規模はある特定地域ごとかも知れないが(そこにこそ問題が潜んでいるのであるが)、一斉に変化が起こること自体が大問題なのではなかろうか。脚付短頸壺の用途が何であったのかは不明だが、このどこにでもありそうな(しかし東海西部にしか分布しない)土器が交通路沿いの古墳に限って埋納される点が問題なのだ。

 一定の評価をする意見としては、高倉山古墳の評価をきちんとすべきではないかというものがあった。副葬品が限られており、その特質を見極めることは極めて難しいが、横穴式石室の築造方法やその立地などからこれを再度詳細に分析すべきことを痛感した。

 考古資料を積極的に読み取ることも新しい歴史像を構築するために必要なことではなかろうか。それを最も恐れているのが「新しい教科書」を作っている方々でもあるのだが、考古学こそ当該期の生の資料を持っているのだから、そこからこれまでの歴史像を見直すことが不可欠なのではなかろうか。残念ながら、考古学はこれまでその絶好の機会を自ら断ってきたと言える。

 私は伊勢神宮創設は、大和王権の一連の地方支配の流れの中で採りえた政策の一つだったと考えている。全国的に強力な王権の力を発揮できていくこの時期、6世紀後半だからこそ、伊勢の地を王権に取り込み、新たな神を王権のものとすることができたのではないかと主張したのであった。そしてこれを制度化したのは、壬申の乱において天照大神を望拝し勝利した天武王権の時代であり、その具体化の姿が斎王制度であったと指摘したのであった。

 残念ながら、特に考古の人々に納得して頂けなかったのは私自身の力のなさではあるが、今後さらにこうした研究に力を入れて、まさに「新しい歴史像構築」のために進んでいこうと思う。

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