孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

皆さんの満足も私の満足も同じですが生き様・有様や姿形・価値観が違うのです。

2013年01月05日 | Weblog
望んだことではなくして自然体の成るようになるその必然ご縁のその成り行き任せにしていたその結果には何の過不足はありません。
だからそれで十分納得満足できます。

ところが思惑理想目的やその期待からしての(自己拡大が原因の)結果であればその自己満足か不平不満かが出てきます。


ところで私の過去に成り行きながらも小さな事業所の社長と言われていたときがあります、ところがその成り行きの延長からして今は過疎地暮らしになっています。
しかし成り行きからの必然ご縁や気付きからしてのその結果ですから何の未練も後悔も執着もありません。

しかしこの事実結果を世間の人が見れば概ね格落ちした負け犬に見えることでしょう。


ところが社長と言われていたときの満足も過疎地で暮らす満足も同じ満足(満足感)なのです。
また戦後の昭和の満足も平成の満足も同じ満足です。
だから明治時代の満足も徳川時代の満足も縄文時代や弥生時代も同じです。
違うのは満足の<形>が違うだけです。

だから意識・心での満足は同じでも、姿形の満足はそれぞれの意識によって違いが出てくるのです。
だから満足することは同じでも、それをサンマやサバで満足するのとタイやマグロで満足する、その形に違いがあるのです。

しかしサンマやサバで満足するのよりタイやマグロで満足するほうが金銭の負担が多くなります。
しかも美味しいからとタイやマグロを食べ続けていると次第に飽きてきて美味しさが失われます。

ところが日々様々な物や形で満足していれば飽きてきません。
だから自然界に様々な物や形が創造され実在しているのです。

だからどれが良くて(自己満足)どれが悪い(不平不満)と言うことはありません。
すべてが必然なのです。
だから気味悪がっていた動植物生物でも馴染んでそれを味わえるようにもなります。

ところが先程のようにサンマやサバを美味しく食べて満足するよりもタイやマグロで満足したがるその欲や価値観の違いがあるとそれが自己満足や不平不満になる原因になります。

また同じことが続くと飽きてくる性分がありますからその変化刺激を求めることにもなります。
だから必然にしてお正月やお盆が言われその節目の楽しみ変化があります。
また必然にして様々な趣味嗜好娯楽が出来ました。


しかし人為的でなくしても自然界には数限り無い無限の変化があります。

だから必然ご縁に任せた成り行きで生きていても、
また食って寝て糞をするためだけに生きていても、
また寝たきりになっても、
また死に掛けていても、
生きている限りその自然界の移り変わりのその変化を味わえます。

ただ違うのは生きているその有様状況姿形やその価値観が違うだけです。
だからその自然界の変化・必然の事実を味わうだけでいいのに自分の都合からして自己満足になったり不平不満にもなっているのです。


皆さんの満足も私の満足も同じです。
違うのは生き様の形・有様状況や姿形・価値観が違うだけです。
そして今を生きているのは皆が同じです。

そして良い悪いのその喜怒哀楽で生きているのと、
その良い悪いで判断することにもならない、あるがままの自然体、必然ご縁の成り行き任せに今を味わい生きているのと違うだけです。