孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「空腹こそがご馳走になる」それが知識の張子の虎か、実践で味わい知るのか、そこに真実がある。

2010年11月21日 | Weblog
私たちの不完全意識と完全真理の完全意識の両方を学び知ることから新たな生き方が始まることを書いていますが、その完全意識や不完全意識を知識で自覚納得したのと実践で確かに味わい知ったのとでは違いがあります。
それでも全ての始まりは知ることから始まりますから、知ることも重要になります。
ただ知識だけでは実感がありませんから張子の虎と同じで中身がありません。

そこで私が実感で味わったことを判りやすく事例で書くことによって、その事例の実践に取り組みやすいかもしれないと思っていますし、また個人意識丸出しの私の実例だけにその実感も伝わり理解も早まるのではないかとも思っています。

簡単で判りやすい事例に「空腹こそが、ご馳走になる」と書いているように、無が有になることで喜び感謝が味わえます。
だから一度でもいいから「無」になってこそ「有」の有り難さを知る事になるのです。
だから、いま持って有るものを捨てる覚悟が必要だとも書いていますが、それが捨てられないのも現実・事実にあります。

だから「捨てなさい」とは一言も書いていません。 必要性が無くなり不用になったことで要らなくなったから、結果的に捨てた事になるのが自然体になります。 だから無理に捨てるのは己を偽る偽善になりますし、それが納得済みでも(不用になったのではないから)心残りが有るはずですから、それも偽善になります。
だから真理や神を信じての「捨てなさい」は偽善を進言・強要している事になります。

次に、今まで有ったものが無くなるとそれを後悔したり未練が残ったりすれば(無理に捨てたのと同じ)不完全意識ですから、それが不平不満になり、また欲しがったり取り返したがります。 そして得られれば自己満足になり、それが得られなければ更に不平不満が強くなり、その責任を誰かに押し付けることにもなり不調和が出てきます。

また例えば、仕事帰りに喉が渇いて近くの自販機から購入するのと、あと少しで家に帰れば飲めるからと、そこでしばらく辛抱するのと、帰ったら飲めるからとそれを楽しみにして帰るのとはではまた違ってきます。 そして楽しみにしていたことが現実になると同じジュースでもアリガタイの思いが出たり、有ることが喜びになり、得るまで待つことの楽しみ喜びも実感で知ります。
また肉牛飼育場の主人がタバコ好きで手に持っていたら一日40本以上吸っていたのですが、それをやめるために飼育場に居る私からタバコをもらって吸うことにしたら、私が居るときに飼育場に来たらタバコが吸えるからそれが楽しみになったと笑っていました。

その牛の飼育場に通うのもパチンコに行くのも雨の日で無ければ中古の単車を多用します。
それが節約・倹約よりも自然を肌で感じて走ることや、狭い山道の対向車や街中の駐車スペースを気にしなくてもいいこと、そして時たま雨の日や寒さが身にしみることで軽四に乗る有り難さを再認識することが出来るからです。ちなみに軽四のヒーターを使ってもクーラーは使いません。
他にもパンクしたときや故障したときでも、それを悔やむことより普段何気なく使っている単車の有り難さを知るほうに意識がいきます。
だからサビだらけの単車・軽四も喜んで乗っていますし、わざとに車両を使わずに(暇だから)3時間歩くこともありますが、その歩く楽しみも味わうことになっています。

ところで、有能な人でも一気に意識変わりすることはまずありません。
・・・例外として耕栄さんのように大きな病から意識変わりしたり、落雷の影響で意識変わりした人はいるようです。
だから何からでも、またその回数を多く実践していけば、いつの間にやら偽善でも自己満足でも無くなり、また習慣性の慣れからそれが当たり前に思えてきたりして、その内に知識から無理して実践しているのではなくなり、少しずつ本物・真実に近づくようになり、それを味わい知ることにもなっていくのです。
・・・何事も小さなことから始まるのです・・・だから(無理をする)大を成すよりも(取り組みやすい)小を成すことを意識するのです。
また自己満足や不平不満が減れば、当たり前に思っていたようなごく小さなことでも喜び感謝になるようになります。
そうなれば更に不平不満が減り、同時に自己満足することも減りますから、次第に「あるがまま」の生き方になっていきます。