孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理の完全さと個人意識の不完全意識を実際に味わい知り尽くし悟ることが実践なのです。

2010年09月25日 | Weblog
良い悪いで分離判断しない完全真理を学び知りその実践でこの世のすべてが不完全であることを知れば、その完全真理以外のすべてに興味も魅力も無くなり、自ずと自己縮小につながっていきます。
そして自己満足が少なくなればそれだけ不平不満も少なくなるようです。

その自己満足は個の思いの満足ですから、その思いが変われば(状況・形が同じでも)自己満足していたものが不平不満に変わることもあります。 すなわち時間が経てば満足が満足ではなくなるのです。 すなわち同じ形の自己満足ではそれが不足に変わることもあるのです。 すなわち感謝していたことが感謝ではなくなるのです。 だから以前に増して強い自己満足でなければ満足できなくなるのです。 その自己満足し合える関係が愛情関係・家族関係・地域社会国家関係であり、そのために不満を少くして満足を多くするために共に思考錯誤・切磋琢磨・協力し合うのが人間関係であり、またそれが人間の本文本性とさえ思っていました。

しかし完全真理を知れば知るほどに己の不完全意識やこの世の不完全さやその不完全な人間関係を知る事になりますし、宇宙・神・愛が望む意識ではないことを知ることからも・・・ その不完全な世の中や人間関係を我が身を持って(骨身にしみて)心に刻み込まれますから、自ずとその不完全意識を持たないような生き方を選ぶようになります。

それでも自他共に同じ不完全意識を持って皆と関わって暮らしているからには不調和が出てくるのも当たり前ですから、それに耐えて我慢して見えないように隠すのではなくて、さっぱり忘れ去ることが肝要になります。
それが執着しないことであり、その為には皆がお互い様であることやお陰様の関係であることを真理で悟り(知ったつもりではなくて)、その実践意識でもって気付き知る事しか有りません。
その為にも(執着の原因になる)強い思いの理想目的を求めないほうが真理に合った生き方になるのです。

★そして「執着」しなければ★自らの意識が囚われ束縛制限支配されなくなって、自らが(他力を使わずして)自力によって(意識・命の自由を取り戻し)自らを助けたことになるのです。
だから良い悪いで判断しないように理想・目的・懸命・努力することでもなく、また良い悪いで判断したことを自責・後悔することでもなくて、良い悪いで判断したその自分の思いに気付くことになれば自ずと執着を持たなくなっていくのです。

★そして不完全意識の自己満足を追求しなくなると★此れまで拘っていた意識が解き放たれ、(意識で生きている人間だから)意識・心の目が開きその分だけ気付きが多く起こる関係から、此れまでまったく気付かなかったアリガタイ・小さな満足を味わい知るようにもなり、それで十分満足できるようにもなります。

だから私のように過疎地で暮らさなくても自己満足の追求をしなければ自己縮小が進むのです。
そして何度も書いているように「失うことを恐れず」に「生きていることがアリガタイ」ことになれば、すべてがアリガタイことに思えるようになっていくのです。
その生きていることがアリガタイと思えるようになるのにも、完全真理の完全と個人意識の人間の不完全意識を味わい知り尽くし悟ることが必要になってくるのです。 それが実践になるのです。