孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

実践意識でもって「知らなかったことを知る」それが自己縮小の実践につながる。

2010年09月03日 | Weblog
若いときから好奇心旺盛でしたから(物質的な)目新しいことばかり追い求めてきた私ですが、それがいつの間にやら医科学を超えた奇跡現象・異次元・テレパシー・オーラ・波動・宇宙エネルギーといった「見えない世界」全般を広く浅く知ることにもなり、それがやがて本格的な想念・精神世界に足を踏み入れることになったのも、知らないことを知る面白さ楽しさがあったからですから、まったく神仏に対する信仰心や特別な人を崇拝することも、また霊力霊感と言ったものに特別視することもありませんでした。

またその「知らない」ことを<信じるか否か>ではなくて、その事実が有るのか無いのか確かめたがるタイプでしたから、事実・真実を説く完全真理に否定反発も違和感さえもないまま素直に受け入ることができました。
そして完全真理を理解すればするほど「すべて」を教えてくれていることから、もう他の事に手を出す必要も無くなったのです。
と言うのも、まだ未熟ながらも私の中では(過去の経緯を含めて)すべてがつながり完結しているからです。

ところで・・・生まれながらにして神・愛の完全意識を持っていればその裏の不完全意識をまったく知りませんから、当然ながらいま持っている完全意識のありがたさを自覚していません。
例えば・・・アダムとイブの昔話になりますが・・・そのアダムとイブが生まれたての時は二人とも神の子として神・愛意識の完全意識でしたから、今の人間のように良い悪いで判断していなかったのですから何の問題もいっさいなくて、比較競争の無い自由・平等・調和のある世界で至福を味わいながら幸せに暮らしていたはずです。
ところがヘビの化身から誘惑されてリンゴを食べたときからどうやら人間臭くなったような話ですが・・・あらゆる万物・宇宙と意識が通じ合いながら衣食住・生老病死の心配もせずに喜怒哀楽も無く二人して至福の時を過ごしていたのに・・・何でリンゴを食べて人間らしくなる必要があったのでしょうか・・・なんか変に思いません。

人間が成りたくても到底無理がある神や愛の意識・完全意識を失ってまで、なぜ矛盾のある不完全な人間意識になりたかったのでしょうか・・・ たぶんそれは「神の子は」神の事しか知らなかったから、その神以外のことを知りたかったのではないでしょうか・・・
例えば南海の孤島で男女二人が生まれながらにして自由・平等・調和のある暮らしをしていても、その男女にしてみればそれが当然の当たり前ですから、幸とも不幸とも良いとも悪いとも思っていません。
しかし、まだ自分たちがまったく知らない孤島・別世界があって、その世界では自分たちとは違った意識で素晴らしい生き方をしているのではないのかと、(未知なるもの)知らないことを知りたがります。
それと同じように、神たちも「神の知らない世界」すなわち(次元の低い)人間界を創造して神以外の次元の意識がどんなものかを確かめ知りたかったのではないでしょうか・・・

それを言い換えると・・・完全な神が不完全な人間・意識を味わい知ることで、(これまで当たり前だった)その完全な神意識の「完全の価値」「愛の価値」を確認・自覚することになります。
また反対に生まれながらにして不完全意識の人間が知らなかった完全な神・愛の実在を知ることで、その神や愛意識の人間(意識体)になることの素晴らしさや大切さを自覚するようになります。

それをさらに言い換えると・・・矛盾のある不完全なこの世の中の不完全な人間関係を十分に味わい知ったからこそ、その者がその不完全意識を無くしていく実践の中で神・愛・自由・平等・調和を(少しずつでも)味わい知ることになれば、その実在する完全な神や愛の素晴らしさや自由・平等・調和の大切さを自覚する事にもなりますから、たとえ未熟であっても実践意識を持ち続けることが可能になるのです。

すなわち・・・神も人間も互いに「知らなかったことを知る」事になります。
そして・・・神も人間も今まで知らなかった「当たり前」の素晴らしさやありがたさを知ることになります。
更に(人間側からしてみれば)・・・その神も人間も元は同じ意識体だったことを知り、すべては「ひとつ」を知ります。

そんな不完全も完全も知った者が例えアダムとイブのようにこの世で二人きりであっても、互いが不完全でなければ互いの思いの歯車が調和で動きますから、俗に言うツーカーの仲ですから一切の問題は起きません、だからお互いが当たり前のようにただ一緒に居るだけで満足し合えるのですから素晴らしいことになります。
すなわち裏側の不完全意識の人間関係を十分に味わっているからこその調和の人間関係が大切なことであり素晴らしいことになりますから・・・やはりその完全と不完全の「裏表を知る」必要があったということになりますし、宇宙始まって以来の不完全を知った完全な意識体が多く誕生する事になるかもしれません。

それにしても現在は不完全な人間関係ですから歯車がうまく回転していません。
だからせめて(未熟同士であっても)完全真理によって不完全を知りつくした者同士であれば、お互い様・お陰様で認め合うことも出来ることから、否定反発・不信感や未練執着の無い平常心で接し触れ合うことが出来ます。 だからせめて未熟な不完全同士であっても、互いに分かり合える・認め合える関係でいたいものです。

そして人間は(あの世でもこの世でも)意識で生きている意識体ですから・・・今まで「当たり前に」思っていた人間として<生きている>ことの<ありがたさ>に気付けばそれだけで十分・満足になりますから、その生きるため以上のものを欲しがる欲も次第に消えていきます・・・・すなわち自己縮小が進み・・・衣食住や生老病死や喜怒哀楽や趣味嗜好娯楽・見栄や世間体・常識伝統風習道徳も比較競争差別も無い<あの世・意識の世界>に戻っても、それらに拘る未練執着後悔が無ければ(あるがままにある当たり前の)宇宙・神・愛の流れのままに任せた健やかな意識のままにすごせるのはどうやら間違いないようです。