考古学者の説によると、人間が自然(神)と調和して生きてたのは縄文時代までであって、その長く続いた縄文時代から弥生時代になってから(他の文化に侵略されたかのように)急変して、生産合理主義の合理化・機能効率化・集合化が進み、効率よく生産するためにもどんどん開墾整地を広げ、そこに水路を張り巡らして生産性を高め、その収穫が増えれば更に多くの人が暮らせるようになって集合化・拡大していったそうです。
そうやって進化拡大してきた今の現在であれば・・・(昔と違って)正に地上の天国な筈なのだが、しかしながら常に不平不満が渦巻いいれば、この世が地上の天国とはなりません。
それでも今よりもっと進化した世の中になれば科学や医学などで自然環境から生活環境までもが快適便利で安心安全の夢のような世界になると思っている人もいるかもしれませんが、さにあらず、今よりもっと深刻な自然環境や人間関係の崩壊破壊が進行していくのは覆しようの無い事実です。
それを例えれば・・・昭和ブームとやらで昭和の時代を懐かしむ人も大勢いることから言えば・・・
仮にその昭和で満足していたのなら地上の天国になっていたはずなのですが、ところがそれにも満足できずに更に不平不満を積みかせねて進化拡大して来たのが現在ですし、まだこれから先も止まる事無くどんどん進化拡大していくでしょうから・・・やはり人類滅亡・地球破壊に突き進んでいることになるのです。
しかしながらその過去や未来がどうであれ、現在の「今」を生きているのは私たちなのです。
その私たちの「不平不満」の心・意識が消えさえすれば・・・あるがままの今が楽園・地上の楽園にもなるのです。
・・・多様性に満ち溢れた自然界のすべてと接し触れ合い味わえているのですから・・・
・・・多種多様の産業化学によって豊かな暮らしが出来ているのですから・・・
・・・あらゆる趣味嗜好娯楽文化に恵まれているのですから・・・
・・・人それぞれが持つ豊かな個性を自由に発揮出来るのですから・・・
・・・認め合い助け合うお互い様・お陰様の人間関係があるのですから・・・
それなのに何故「不平不満」が出るのでしょうか・・・
その原因が「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断してしていることにあるのです。
またそれが原因で不安心配・恐れ・苦悩を持つことになり、それが争い喧嘩や人殺しや戦争にもつながっています。
すなわち不平不満の意識が今の楽園・天国を邪魔しているのです。
それも仕方がないこととして認めた上で・・・今のこの世・社会がどうであれ、今の人間関係・人様がどうであれ、また己の今の状況環境がどうであっても・・・その自分の中に「不平不満」が無ければ、この世は地上の楽園になるのです。
その不平不満を持たないためには(先ほど書いたように)豊かさに恵まれた「今」に満足さえすれば不平不満は消えて楽園・天国になるのです。
しかも、その恵まれた豊かさに感謝してそれを味わい接することで心から満足することが出来れば、その満ち足りた思いがあるかぎり次々と欲しがる事も無くなっていくのです。
すなわち満足を味わい知ると多くを必要としなくなるから皆と分かち合えることにもなるのです。
ところが、思い描き理想目的を持つことは今に満足していない己の欲になりますから、その欲・不平不満を満たすためにやって得た満足感は自己満足になりやすいから、それだけでは満足しきれずに(満足感を求めて)次々と欲を叶えたがることになるのです。
すなわち「今に満足」できないから不平不満の生き方になっているのです。
だから・・・他と比較競争して差を付けて自己満足したがることにもなります。
そこで・・・勝った負けたと(優劣損得で)喜怒哀楽することにもなっています。
また(今に満足していないから)・・・生老病死が気になって、(恵まれ豊かな)満足を十分に味わいきれません。
そして「自己満足」ばかり積み重ねていると・・・(自己満足は自慢話になるから)人に言いたがりますから、自己主張が強くなります。
更に自慢話ばかり積み重ねていると「私は正しい」思い・意識になり、それを主張顕示することにもなります。
だから(真実・事実を知り味わい接していないのに)自分勝手に判断したところの良い悪い・好き嫌いで決め込んでいるのに、それらの意識が多く集まれば集まるほど(集合意識となって)それが正しいことのように常識化・正当化・偶像化されたりもします。
その私は正しいの潔癖・完璧で囲い(他を敵とみなす不信感から)自分を守る正義感を持つようにもなります。
その潔癖・完璧・正義感が原因の宗教思想主義や常識・伝統・風習・道徳やで自由・平等を束縛制限されることからも多くの不平不満が生み出されているのです。
だから・・・多様性に恵まれた豊かな今に満足感謝できずに、それに相反する不平不満を問題化正当化して、その問題解決のために進化拡大を続けることが「正しい」ことになっているのです。
だから「地上の天国」を味わえないままに人間の一生を終えることにもなっているのですが・・・
そこで・・・完全真理を実践していればやがて訪れるであろうと言われる(未来の)地上の天国を言われるままに「信じて待つ」のではなくて・・・誰にも出来そうな「今に満足する」実践のほうが実感でもって味わい知ることが出来ることから言えば、自ずと自己縮小の実践も進んでいく事になると思っています。
そうやって進化拡大してきた今の現在であれば・・・(昔と違って)正に地上の天国な筈なのだが、しかしながら常に不平不満が渦巻いいれば、この世が地上の天国とはなりません。
それでも今よりもっと進化した世の中になれば科学や医学などで自然環境から生活環境までもが快適便利で安心安全の夢のような世界になると思っている人もいるかもしれませんが、さにあらず、今よりもっと深刻な自然環境や人間関係の崩壊破壊が進行していくのは覆しようの無い事実です。
それを例えれば・・・昭和ブームとやらで昭和の時代を懐かしむ人も大勢いることから言えば・・・
仮にその昭和で満足していたのなら地上の天国になっていたはずなのですが、ところがそれにも満足できずに更に不平不満を積みかせねて進化拡大して来たのが現在ですし、まだこれから先も止まる事無くどんどん進化拡大していくでしょうから・・・やはり人類滅亡・地球破壊に突き進んでいることになるのです。
しかしながらその過去や未来がどうであれ、現在の「今」を生きているのは私たちなのです。
その私たちの「不平不満」の心・意識が消えさえすれば・・・あるがままの今が楽園・地上の楽園にもなるのです。
・・・多様性に満ち溢れた自然界のすべてと接し触れ合い味わえているのですから・・・
・・・多種多様の産業化学によって豊かな暮らしが出来ているのですから・・・
・・・あらゆる趣味嗜好娯楽文化に恵まれているのですから・・・
・・・人それぞれが持つ豊かな個性を自由に発揮出来るのですから・・・
・・・認め合い助け合うお互い様・お陰様の人間関係があるのですから・・・
それなのに何故「不平不満」が出るのでしょうか・・・
その原因が「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断してしていることにあるのです。
またそれが原因で不安心配・恐れ・苦悩を持つことになり、それが争い喧嘩や人殺しや戦争にもつながっています。
すなわち不平不満の意識が今の楽園・天国を邪魔しているのです。
それも仕方がないこととして認めた上で・・・今のこの世・社会がどうであれ、今の人間関係・人様がどうであれ、また己の今の状況環境がどうであっても・・・その自分の中に「不平不満」が無ければ、この世は地上の楽園になるのです。
その不平不満を持たないためには(先ほど書いたように)豊かさに恵まれた「今」に満足さえすれば不平不満は消えて楽園・天国になるのです。
しかも、その恵まれた豊かさに感謝してそれを味わい接することで心から満足することが出来れば、その満ち足りた思いがあるかぎり次々と欲しがる事も無くなっていくのです。
すなわち満足を味わい知ると多くを必要としなくなるから皆と分かち合えることにもなるのです。
ところが、思い描き理想目的を持つことは今に満足していない己の欲になりますから、その欲・不平不満を満たすためにやって得た満足感は自己満足になりやすいから、それだけでは満足しきれずに(満足感を求めて)次々と欲を叶えたがることになるのです。
すなわち「今に満足」できないから不平不満の生き方になっているのです。
だから・・・他と比較競争して差を付けて自己満足したがることにもなります。
そこで・・・勝った負けたと(優劣損得で)喜怒哀楽することにもなっています。
また(今に満足していないから)・・・生老病死が気になって、(恵まれ豊かな)満足を十分に味わいきれません。
そして「自己満足」ばかり積み重ねていると・・・(自己満足は自慢話になるから)人に言いたがりますから、自己主張が強くなります。
更に自慢話ばかり積み重ねていると「私は正しい」思い・意識になり、それを主張顕示することにもなります。
だから(真実・事実を知り味わい接していないのに)自分勝手に判断したところの良い悪い・好き嫌いで決め込んでいるのに、それらの意識が多く集まれば集まるほど(集合意識となって)それが正しいことのように常識化・正当化・偶像化されたりもします。
その私は正しいの潔癖・完璧で囲い(他を敵とみなす不信感から)自分を守る正義感を持つようにもなります。
その潔癖・完璧・正義感が原因の宗教思想主義や常識・伝統・風習・道徳やで自由・平等を束縛制限されることからも多くの不平不満が生み出されているのです。
だから・・・多様性に恵まれた豊かな今に満足感謝できずに、それに相反する不平不満を問題化正当化して、その問題解決のために進化拡大を続けることが「正しい」ことになっているのです。
だから「地上の天国」を味わえないままに人間の一生を終えることにもなっているのですが・・・
そこで・・・完全真理を実践していればやがて訪れるであろうと言われる(未来の)地上の天国を言われるままに「信じて待つ」のではなくて・・・誰にも出来そうな「今に満足する」実践のほうが実感でもって味わい知ることが出来ることから言えば、自ずと自己縮小の実践も進んでいく事になると思っています。