孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私は正しいの分離意識・差別意識・特別意識を守り闘うことになる個人意識を無くしていく完全真理

2010年07月20日 | Weblog
完全真理で言われるところの「すべてはひとつ」は・・・ひとつのものを良いと悪いで<分離>して善悪・優劣・損得で判断する分離意識の過ちを説き、その分離意識で比較・競争して<差>を付けたがる差別意識やその差を<特別>に思う特別意識を持たなくするために「すべてはひとつ」であると説いています。
だから神と人間を分離して神を特別にするのは差別意識であり特別意識を持っていることになります。
また同じ人間同士を良い悪い(善悪・優劣・損得)で分離して比較競争差別するのも同じです。
また人間と他の動植物や鉱物や微生物などの自然界に有るすべてのものと比較して差を付けるのも同じことです。
またその自然界の同じ仲間同士を見比べて(分離・比較して)良い悪いの差を付けるのも差別・特別意識になります。

その分離意識・差別意識・特別意識を持つのは人間だけです。
その人間が持つ意識が個人意識であり、ひとつのものを良い悪いで分離してその良いとこ取りすることを自分さえ良ければの自己中心主義といわれています。

すなわち人間には良い悪いで分離・比較・競争意識があり、その結果から差別・特別意識を持つことになり、その差別・特別意識が正しいとしてそれを大事に守る「守り意識」を持つことになると、その必然から相反する敵を仮定・想定することにもなり、その仮定・想定する敵対意識が「不信感」になり、それが原因で不安心配・恐れの「恐怖心」を持つことにもなり、それが過ぎると怒りややきもち嫉妬・ジェラシーにもなり、それらが歪んで制裁・復讐・仕返しの「報復心」を持つことにもなり、それが原因で喧嘩、抗争・闘争、戦争やテロなどの「破壊意識」と進んで行きます。

その破壊意識の事例が・・・苛立ちまぎれに手元のお茶碗やコップを投げるのや人を痛めつける暴力・破壊意識であり、その最たるものが無差別殺人や戦争やテロなどの破壊意識なのです。

まさに(他を巻き込んで)自分中心の自分の思い道理に生きることを選んでいるのが今の人間関係・社会国際関係なのです。
だから親子家族・恋愛・職場・社会国家関係のなかで共に裏切り・寝返り・切捨て・見捨て・破滅・破壊したがることになるのも、自分さえ良ければの思い・個人意識で生きているからです。

そんな自分さえ良ければの個人意識を持っているのに「私は正しい」を持っています。
だから(自分の思いと違う)相手の間違いを忌み嫌います。
それが「不平不満」になって現れるのが最初ですが、それが先ほどの不信感・恐怖心や復讐心や破壊意識にも進んでいくのが私たち個人意識の人間なのです。
ところが自分が間違いを起こしたときは言い訳して正当化したがります。 それが事故・犯罪・破壊・戦争であっても同じです。

しかも「私は正しい」が確信・信念になっていると、そんな自分の思い・思惑・理想目的や思想主義と相反する事柄であれば、それは「間違っている」として主張顕示したがりますから、そこで意見対立で大勢を巻き込んだ問題化になっています。
そして独裁・強権や宗教・思想の勢力争いや是非を決める多数決で事を決めたがりますから、そこで取り残された反対勢力が根強く巻き返しを図りますから、両者共に不安心配・恐れの不信感で安心してはいられません。
すなわち「私が正しい」を持つことで他を否定反発排除したがる不信感を強めることになるのです。

そんな不信感が渦巻く「どうしようもない」人間関係・社会国家関係のなかで共に生きているのが私たち人間です。
それでも「何とかなる」のがその個人の意識改革であり、そのお手本を示しているのが「完全真理」なのですが、それも実践が無ければ「絵に書いた餅」同然ですから、完全真理が説く真実・本物を味わい知ることにはなりません。

そこで何度も書いているように・・・個人意識丸出しの不完全意識であっても、「私が正しい」(差別意識・特別意識)を無くするために「お互い様」「お陰様」の関係であることを実践意識するようになれば、いつの間にやら(自然体で)完全真理を実際に味わい知ることになり(不平不満の無い満足を味わい知ることになり)差別意識・特別意識を無くしていく自己縮小が進んでいくことになるのです。