孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

生活が先ではなく、神や愛を学ぶのが先でなければ生きている価値は無い

2009年03月13日 | Weblog
宇宙・万物すべてに意識があり、その意識が形・体を成していますから、人間も意識で生きている意識体になります。
すなわち、意識が主で肉体・姿形は表現体になり、意識に力があっても形には力はありません。 すなわち、姿形は意識した事を表現している単なる道具でしかありません。
すなわち、意識したことが先(原因)であり、体の行為行動・表現は後(結果)になります。

人間の体が動くのも意識した結果です。 だからエネルギーを使って体を動かしているのは意識なのです。 だから意識を集中すれば自分に成せることが成るようになるのです。
つまり、その意識が先で結果が後の「原因と結果」は離れていない事を知ることが重要になります。

その意識体である人間が地球に生まれたのは(原因は)神の愛を学ぶ我神なり我愛なりを自覚するためであって、生きて生活する(結果の)ために生まれたのではありません。
結果(生活)が先ではなくて原因(意識)が先ですから、その勘違いを無くさない限り人間で生きていることにまったく意味がありません。
つまり、生活(結果)の行き着くところである「死」のために生きている形になりますから、生きていながら死ぬのを待っているという「死んだも同然」の生き方になるのです。
そして、良いことや悪いこともある喜怒哀楽や生老病死を意識して生きるのがあたり前の常識人間になったのです。

その生老病死や喜怒哀楽で生きている限り、喜びや楽しみの反対である悩みや苦しみや不安も味わいますから、常に心が乱れていますから安心して生きていけません。
そして良いところである喜びや楽しみばかり追い求めて「良いとこ取り」をするが、悪いところである悩み苦しみ不安は裏に隠し、しかも平然としている装いをするために見栄や世間体を気にしたり、いろんな趣味嗜好娯楽に身を置いて幸せな振りをして見せることで自己満足しているが、それらは自分を偽る自己欺まんでもあるのに、それが裏返されて自惚れや虚栄心にもなり、自己主張や自己顕示欲を持つことにもなり、それが原因で更に特別な人間になるのが正しいと思い込むようになり、名誉名声の肩書きや権威権力や財を持ちたがる特別人間にもなりました。

元はといえば、神の愛を学ぶために生まれ生きているのに、いつの間にやら生きるための行為行動が先になり、それ以外の時間に神や愛を学ぶというように原因と結果の順序が逆になり、それが大元である神や愛を裏切っていることになり、それは結果的に自分をも裏切っていることになります。

そして意識が原因で病気と言う結果が出ている事を昔の人は「病は気から」と知っていましたが、意識という原因を見ないで、科学的医学的な結果の証明ばかりを優先する現代科学や医学に意識が染まり洗脳されてしまい、当然の如く結果を良くする方法が良策になり、良いとこを取って悪いことは排除するのがあたり前の常識になり、その間違った常識を更に極めることが重要視されているから世の中が変になっているのです。

そこで意識が原因であるという事例を医学的に照らし合わせれば、エイズウイルスやインフルエンザウイルスやガン細胞という形を成しているのも意識体です。 多分人間の意識が影響した人為や突然変異と言う形で出てきたと思うが・・・人間と同じ様に意識が主で体は形でしかありません。
だからウイルスやガンの形を殺してもその意識は永遠に生きていますから、必然でまた形を持って生まれることが出来ます。
だから、いくら形を排除したり殺しても再発・転移・感染することになります。
それで疑問に思った専門研究家が最近言い始めたのが・・・ウイルスや癌細胞をいくら完全に殺しても、また生き返り現れているのではないのか・・・と言う事です。

地球の万物は人間が神や愛を学ぶために用意された意識体ですから、人間がエイズやガンになるのも愛を学ぶために必然で起きたことですから、神や愛を学び知るチャンスでもあるからアリガタイことになり、それらのアリガタイ存在・役割を認めてそれらと闘わなければ愛の意識になりますから、エイズやガンも必然で消えていきます。 
既に事例が出ていますから、決して不治の病ではありません。
原因である意識次第で結果はどうにでも変わるのです。
それを証明して見せることができるのが・・・良い悪いの無い完全真理であり、その完全な愛のエネルギー「ファバラ」なのです。

そして、エイズやガンを治癒するのがファバラの目的ではありません。
エイズやガンや戦争を無くする意識改革が完全真理やファバラの役割です。
その意識改革を意識して実践するのが先であって、生活そのものが先にあっては意識改革の実践も後回しになるだけです。
それでも個人意識の人間には変わりはないから、楽しむ時は大いに楽しみ、泣きたい時は泣き、怒り時は怒り、その時だけで終わらせて未練執着後悔しなければ何とかなっていくようですが、くれぐれも原因が意識にあってのことですから、その意識を確かにする真剣な実践意識が先に有ることが重要なのです。