私達が「良い悪い」で判断しない<完全意識>になったら、何か特別に凄いことが有るのでしょうか?
いいえそんな特別なことはありません!
その特別の無い、そのまま、このまま、あるがままの、何の変化刺激の無い普通が当たり前の意識になるのですから、奇跡を成す宗教家や教祖になるわけでもなく、大金持ちになって好き勝手なことばかり出来るわけでもなく、名誉名声・権威権力の肩書きが付くわけでもなく、ヒーロー主人公になって人様から憧れ慕われ追っかけられ集るわけでもなく、異性や同姓に憧れられたり恋い慕われ愛でられるわけでもなく、取り分けて言うほどの思いも無く、ただ食って寝て糞をしながら何となく生きているような中に一体「何が」あるというのでしょうか?
そんな特別なことが見当たらないのに何で完全真理の実践をしたがるのでしょうか?
善人でも悪人でもなく、優れた人でも劣る人でもなく、得をすることも損することもなく、皆が同じで特別がなく、それで何で好き好んで完全真理を学び知り、その実践をし続け、あるがままの宇宙・神・愛の完全意識にならなければならないのでしょう。
その思いを巡らす人知を超えたものは果たして「何」なのでしょうか、この先に何が有るというのでしょうか、また何が待っているというのでしょうか、しかも、その「良い悪い」で判断しない実践が無理で出来そうもないのに、それでも執着のない、無理のない、素朴に生きる実践を意識し続けるのでしょうか。
私が完全真理を知った初期の頃のことですが、何の変哲もない・変化刺激・特別のない生き方よりも、今のままの個人意識・不完全意識のままのほうが人間として生きていて面白いではないか!と実感で思っていました。
ところが過去のしがらみから離れ、過疎地で貧しいながらも、あまり人様を気にする事無く自由勝手に生きることを味わっているうちに、その過去の人様を気にして生きていた頃のことが色々と蘇り、その家族や社会の不完全な矛盾のある人間関係に私が精神的に「気疲れ」していたことにも気付かされました。
そして完全真理で言うところの、良いことがあれば必ず悪いこともある、その「裏表・矛盾」を大いに味わっていたことにも気付きました。
・・・それなのに何で自分が「気疲れ」している事に気付かなかったのか?
その原因にあったのが、思い付くままに次から次と目新しい事に意識を集中して追いかけていたこともあって、その変化刺激に意識が囚われ自分の思いの中では「気疲れ」よりも強い自己満足で満たされていたからです。
ところが自己満足の少ない、変化刺激に乏しい過疎地の生活を通して、私の成長期に味わった自然界と接し触れ合うことの多い昔の素朴さが何やら人間らしさに思えるようになったわけです。
そして山田耕栄さんの「良い悪い」で判断しない完全真理が本物に思えるようになり、私の持ち前の「知りたがる」意識からその気付きがどんどん起きて現在に至っているわけです。
そして私が完全意識になれなくてもいいから、必然ご縁で人様と接し触れ合うことがあるのなら、せめてその時間だけでも互いに気疲れしない関係でいたいと思っているのです。
そんな意識で人付合いしていますから、そのご縁ある人数はごく少なくても、そんなに否定反発することもなく、何となく互いが分かり合えるところがありますから、ほどほどに面白楽しい時間を味わいながら過ごし、そろそろお邪魔虫になりかけた頃にしぜんとその場から離れることになり、また次の必然ご縁があるまで待つというような思い・感じでいます。
そして人間として生きている限りは、やはり、その人間関係の中で「共に意識し会う」関係が何よりも一番重要になってくるのです。
それも強い思い・意識ではなくても、それとなく意識し合える関係、いつでも思い出し合える関係、それとなく互いが分かり合える関係、差し障りなく・さりげなく続く関係、すなわち特別な思いではなくして自然体により近い関係で長く続くのが最も相応しいと(実感でもって)思っています。
・・・完全真理で言うところの完全意識の「調和」、人間関係でその意識が調和し合うことの「素晴らしさ」を知ったことになります。
だから完全意識になれなくてもいいから、何ら特別でなくてもいいから、共に意識が通じ合う、意識が分かり合える、否定反発する必要性もない「何でもない」会話・触れ合いなのに<意気投合>融合している感じが味わえればそれだけで十分なのです。
だから個人意識丸出しの不完全意識であっても、執着しないで、また無理をしないで、素朴に生きる実践をし続けるだけの意味・原因がそこに(私には)あるのです。
いいえそんな特別なことはありません!
その特別の無い、そのまま、このまま、あるがままの、何の変化刺激の無い普通が当たり前の意識になるのですから、奇跡を成す宗教家や教祖になるわけでもなく、大金持ちになって好き勝手なことばかり出来るわけでもなく、名誉名声・権威権力の肩書きが付くわけでもなく、ヒーロー主人公になって人様から憧れ慕われ追っかけられ集るわけでもなく、異性や同姓に憧れられたり恋い慕われ愛でられるわけでもなく、取り分けて言うほどの思いも無く、ただ食って寝て糞をしながら何となく生きているような中に一体「何が」あるというのでしょうか?
そんな特別なことが見当たらないのに何で完全真理の実践をしたがるのでしょうか?
善人でも悪人でもなく、優れた人でも劣る人でもなく、得をすることも損することもなく、皆が同じで特別がなく、それで何で好き好んで完全真理を学び知り、その実践をし続け、あるがままの宇宙・神・愛の完全意識にならなければならないのでしょう。
その思いを巡らす人知を超えたものは果たして「何」なのでしょうか、この先に何が有るというのでしょうか、また何が待っているというのでしょうか、しかも、その「良い悪い」で判断しない実践が無理で出来そうもないのに、それでも執着のない、無理のない、素朴に生きる実践を意識し続けるのでしょうか。
私が完全真理を知った初期の頃のことですが、何の変哲もない・変化刺激・特別のない生き方よりも、今のままの個人意識・不完全意識のままのほうが人間として生きていて面白いではないか!と実感で思っていました。
ところが過去のしがらみから離れ、過疎地で貧しいながらも、あまり人様を気にする事無く自由勝手に生きることを味わっているうちに、その過去の人様を気にして生きていた頃のことが色々と蘇り、その家族や社会の不完全な矛盾のある人間関係に私が精神的に「気疲れ」していたことにも気付かされました。
そして完全真理で言うところの、良いことがあれば必ず悪いこともある、その「裏表・矛盾」を大いに味わっていたことにも気付きました。
・・・それなのに何で自分が「気疲れ」している事に気付かなかったのか?
その原因にあったのが、思い付くままに次から次と目新しい事に意識を集中して追いかけていたこともあって、その変化刺激に意識が囚われ自分の思いの中では「気疲れ」よりも強い自己満足で満たされていたからです。
ところが自己満足の少ない、変化刺激に乏しい過疎地の生活を通して、私の成長期に味わった自然界と接し触れ合うことの多い昔の素朴さが何やら人間らしさに思えるようになったわけです。
そして山田耕栄さんの「良い悪い」で判断しない完全真理が本物に思えるようになり、私の持ち前の「知りたがる」意識からその気付きがどんどん起きて現在に至っているわけです。
そして私が完全意識になれなくてもいいから、必然ご縁で人様と接し触れ合うことがあるのなら、せめてその時間だけでも互いに気疲れしない関係でいたいと思っているのです。
そんな意識で人付合いしていますから、そのご縁ある人数はごく少なくても、そんなに否定反発することもなく、何となく互いが分かり合えるところがありますから、ほどほどに面白楽しい時間を味わいながら過ごし、そろそろお邪魔虫になりかけた頃にしぜんとその場から離れることになり、また次の必然ご縁があるまで待つというような思い・感じでいます。
そして人間として生きている限りは、やはり、その人間関係の中で「共に意識し会う」関係が何よりも一番重要になってくるのです。
それも強い思い・意識ではなくても、それとなく意識し合える関係、いつでも思い出し合える関係、それとなく互いが分かり合える関係、差し障りなく・さりげなく続く関係、すなわち特別な思いではなくして自然体により近い関係で長く続くのが最も相応しいと(実感でもって)思っています。
・・・完全真理で言うところの完全意識の「調和」、人間関係でその意識が調和し合うことの「素晴らしさ」を知ったことになります。
だから完全意識になれなくてもいいから、何ら特別でなくてもいいから、共に意識が通じ合う、意識が分かり合える、否定反発する必要性もない「何でもない」会話・触れ合いなのに<意気投合>融合している感じが味わえればそれだけで十分なのです。
だから個人意識丸出しの不完全意識であっても、執着しないで、また無理をしないで、素朴に生きる実践をし続けるだけの意味・原因がそこに(私には)あるのです。