人それぞれに指紋が異なるように性格個性・役割使命も人それぞれに異なっていて当然です。
だから孤独なのが当たり前なのです。
それだから自由に生きていけるのです。
また主義主張思想の自由・宗教の自由・恋愛の自由・結婚の自由があります。
また人が集まる自由があります。
ところが人が集まると規約・規律・条件などで自由が制限されます。
と言うことは自由ではありません。
また結婚すれば行動を共にすること・一緒にいることが多くなり・そこで互いが何かと束縛制限し合う関係にもなります。
しかも時には否定反発・排除疎外されることもあります。
然るに結婚すれば自由を失うことになります。
何はともあれ…人が集まるところに自由はありません。
だから国家社会や仕事職場や地域社会や結婚や家族関係からしても個人の自由がなくなります。
しかも常識や伝統風習や儀礼儀式などのマナーやしかも道徳までが言われて窮屈しています。
然るに私が苦手とするところです。
然るに自由であって自由ではないという矛盾の中で暮らしています。
しかもそれが当たり前になっていますから個人の自由さえも悪いことのように思われています。
だから人が集まるところでは自分勝手なことをすると嫌われ者になります。
だから個人の自由を大切にしている・自分の思いを大切にする・自分さえ良ければの個人意識丸出しの私としては人の集まるところが苦手です。
ちなみに「何で人が集まる」のでしょうか、皆さんはどう思っていますか、自問自答したことがありますか?
そこで何度も登場するのが素朴謙虚だった縄文時代であり、その穏やかな縄文時代を滅ぼした・文明開化が始まった・自己拡大が始まった・弥生時代です。
その弥生時代のことを簡単に言えば…人が集まることで効率・能率が良くなり、結果的に文化文明が急速に発展進化することにもなったのです。
然るに現在で言えば南海の孤島やジャングルの奥地で暮らしていた先住民族に文明の利器を使って侵略し植民地にしたり、
また宣教師や開拓者がその文明の利器を見せびらかし与えることで・手なずけて・上手く宣教したり・支配したようにです。
然るに人が集まることで金も集まり何でもできるようになったのですが、それが原因からして侵略人殺し戦争にもなり、勝てば官軍負ければ賊軍となる、その歴史を繰り返しているのです。
然るに人が集まるところで生きていくための読み書きソロバンを教える学校教育さえも今では社会的ポジションを高めるための教育に様変わりしています。
だから第一次産業・地場産業・地元商店が衰退してきました。
然るに大学に通う金を奨学金として政府から前借借金までする学生が多いのも己の社会的位置を少しでも高くしたいがためのようです。
然るに貧乏でもいいから個人の自由にして思うがままに生きていくよりもピラミッド社会の一員として活躍することを望んでいることになります。
ちなみに私も60歳に至るまで人の集まるところで自分が思うがままに・好き勝手ながらも自己拡大をしてきた経緯があります。
ところが面白半分に始めた過疎地暮らしからして目覚め・目から鱗が落ちるが如くになり現在で16年になります。
ちなみにBライフ・サイレントテロなる形には及ばないが素朴謙虚にして生きるその価値に目覚めたと言えるでしょう。
そしてこの世に稀なる番外的な自己縮小のブログを暇ついでに書くことにもなりました。
然るに縄文時代に戻るが如くの内容になっていますが…
その縄文時代の形を真似るのではなくして…己の中の心精神意識でもって味わうことにあります。
然るに素朴謙虚に生きることからして束縛制限や否定反発されない=自由=を大いに味わうことにあります。
然るに自己拡大していた経験があるだけに尚のこと・人間の本文にある孤独の自由にして生きることで此れまで味わえなかったことや見失っていた感覚を取り戻して・生きることの価値を見出した感じなのです。
とは言っても…過去に思うがままの好き勝手にして十分自己拡大し続けていただけに…16年たっても未だに暇している感覚が消えません。
とは言っても南海の孤島やジャングルの奥地に移住することも無理があります。
だったら仕組まれしこの地でもって心静かに生きていくしかありません。
ただ絶対的に言えるのは…過去の自己拡大の矛盾偽善に満ちた生き様には…二度と戻りたくはありません。
だから孤独なのが当たり前なのです。
それだから自由に生きていけるのです。
また主義主張思想の自由・宗教の自由・恋愛の自由・結婚の自由があります。
また人が集まる自由があります。
ところが人が集まると規約・規律・条件などで自由が制限されます。
と言うことは自由ではありません。
また結婚すれば行動を共にすること・一緒にいることが多くなり・そこで互いが何かと束縛制限し合う関係にもなります。
しかも時には否定反発・排除疎外されることもあります。
然るに結婚すれば自由を失うことになります。
何はともあれ…人が集まるところに自由はありません。
だから国家社会や仕事職場や地域社会や結婚や家族関係からしても個人の自由がなくなります。
しかも常識や伝統風習や儀礼儀式などのマナーやしかも道徳までが言われて窮屈しています。
然るに私が苦手とするところです。
然るに自由であって自由ではないという矛盾の中で暮らしています。
しかもそれが当たり前になっていますから個人の自由さえも悪いことのように思われています。
だから人が集まるところでは自分勝手なことをすると嫌われ者になります。
だから個人の自由を大切にしている・自分の思いを大切にする・自分さえ良ければの個人意識丸出しの私としては人の集まるところが苦手です。
ちなみに「何で人が集まる」のでしょうか、皆さんはどう思っていますか、自問自答したことがありますか?
そこで何度も登場するのが素朴謙虚だった縄文時代であり、その穏やかな縄文時代を滅ぼした・文明開化が始まった・自己拡大が始まった・弥生時代です。
その弥生時代のことを簡単に言えば…人が集まることで効率・能率が良くなり、結果的に文化文明が急速に発展進化することにもなったのです。
然るに現在で言えば南海の孤島やジャングルの奥地で暮らしていた先住民族に文明の利器を使って侵略し植民地にしたり、
また宣教師や開拓者がその文明の利器を見せびらかし与えることで・手なずけて・上手く宣教したり・支配したようにです。
然るに人が集まることで金も集まり何でもできるようになったのですが、それが原因からして侵略人殺し戦争にもなり、勝てば官軍負ければ賊軍となる、その歴史を繰り返しているのです。
然るに人が集まるところで生きていくための読み書きソロバンを教える学校教育さえも今では社会的ポジションを高めるための教育に様変わりしています。
だから第一次産業・地場産業・地元商店が衰退してきました。
然るに大学に通う金を奨学金として政府から前借借金までする学生が多いのも己の社会的位置を少しでも高くしたいがためのようです。
然るに貧乏でもいいから個人の自由にして思うがままに生きていくよりもピラミッド社会の一員として活躍することを望んでいることになります。
ちなみに私も60歳に至るまで人の集まるところで自分が思うがままに・好き勝手ながらも自己拡大をしてきた経緯があります。
ところが面白半分に始めた過疎地暮らしからして目覚め・目から鱗が落ちるが如くになり現在で16年になります。
ちなみにBライフ・サイレントテロなる形には及ばないが素朴謙虚にして生きるその価値に目覚めたと言えるでしょう。
そしてこの世に稀なる番外的な自己縮小のブログを暇ついでに書くことにもなりました。
然るに縄文時代に戻るが如くの内容になっていますが…
その縄文時代の形を真似るのではなくして…己の中の心精神意識でもって味わうことにあります。
然るに素朴謙虚に生きることからして束縛制限や否定反発されない=自由=を大いに味わうことにあります。
然るに自己拡大していた経験があるだけに尚のこと・人間の本文にある孤独の自由にして生きることで此れまで味わえなかったことや見失っていた感覚を取り戻して・生きることの価値を見出した感じなのです。
とは言っても…過去に思うがままの好き勝手にして十分自己拡大し続けていただけに…16年たっても未だに暇している感覚が消えません。
とは言っても南海の孤島やジャングルの奥地に移住することも無理があります。
だったら仕組まれしこの地でもって心静かに生きていくしかありません。
ただ絶対的に言えるのは…過去の自己拡大の矛盾偽善に満ちた生き様には…二度と戻りたくはありません。