孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

良いとこ取りの輸血・臓器移植・癌治療・延命治療には、その裏のしっぺ返しで困ったことになるかも・・・

2010年10月13日 | Weblog
人間として生まれたからには必ず死ぬ時が来ます。
その死ぬ時が早いか遅いかの違いがあっても、寿命・宿命・運命で死ぬ時が来たら死ぬことになるだけです。
その死に方は人それぞれにいろいろとある中で、自殺以外に自分から死に方を選ぶことは出来ません。

その自らの意思で死を選びその自殺を図っても死ねないことがあるように、また飛行機事故で一人だけ助かったり、大勢の犠牲者が出た中で助かる人がいたり、その逆で真坂の事故や災害や犯罪の巻き添えで死ぬ事になったりするように、どうやら死ぬ時でなければ死ねないようです。
だから(自殺を含め)死に直面している人を救助するために危険を冒した人が巻き込まれて死亡したり、その死に直面していた人が自力や他力で助かることがあるように、(災害・犯罪・戦争であっても)死ぬ時が来ている人とまだ死ぬことがままならない人が関わっただけの事になると私は思っています。

だから自分が死ぬ時やその死に方も判らないだけに、その死の不安心配や死の恐怖にさらされる時が人生で一番困ったときになるのではないでしょうか・・・だから死を怖がっている人も多いはずです。
だから健康にも人一倍気を使う人もいますから、健康関連や医療関係に依存している人も多いと思います。

だから軽い風邪を患ったときに(風邪は万病の元と言われていますから)自力・治癒力で時間を掛けて回復させることよりも(多忙だから)手っ取り早く薬剤や医術の他力で症状を和らげることを望みます。
すなわち自分に都合が良い(他力依存の)「良いとこ取り」になりますから、同時に裏側の悪いことも取っています。
それが副作用・弊害を起こす元の原因にもなるし、更に自力・治癒力の低下を招いていることをあまり知りません。
だから他力依存や自然治癒力低下で見えないところの悪いとこ取りが重なります。
・・・私は雑菌・ばい菌に慣れ親しむことが抵抗力になり、薬剤に頼らないことが治癒力の維持になっていると確信しています・・・

しかも良いとこ取りした結果が良くて満足していても、見えないところの悪いことが同時進行していることにはなかなか気付きません。
やがてその弊害副作用で症状症例が再発したり別な症状症例を患う原因になっていますから、この先更に薬剤や医術に頼ることになり、それがまた更に問題が深刻な方向へと突き進み病気が元で死に目に遭うことになります。

ところで輸血を拒む宗教団体(エホバの証人)が話題になることがありますが、その真意がどうなのかは知りませんが、輸血や臓器移植も他力依存の極めでありその良いとこ取りにもなります。
しかも、他の生命の大切な一部を良いとこ取りして(自分のために取り出して)自分の中に取り入れるわけですから(他から略奪したことになり)、その良いとこ取りした(延命治療した)肉体的な弊害副作用も当然ありますし、精神的なことでもそれ相当な苦悩を背負うことになります。

また死の病とも言われる「癌」ですが、もし癌で死ぬ事になればそれが死ぬ時だったことになります。
だから癌を患っていても死ぬ時が来なければ死ぬことはありません。 また癌患者が治療などを受けたおかげで延命しても、その後遺症や事故災害犯罪で死ぬ事になる場合もあります。 また(老衰であれ若年死であれ)運命・宿命・寿命で死ぬ事になっても、たまたま癌の治療中であれば、その癌が原因で死んだ事になっているだけかもしれません。

ところが死の病と言われるだけに癌と闘う人が多いのも事実ですが、その癌に対する敵対意識・攻撃意識が癌細胞にも及びますから、その癌細胞の意識も(万物すべて意識・命を持って役割を果たしていますから)それに同調して良い悪いで反応する結果になり、その癌細胞も同時に敵対意識・攻撃意識・防御意識がより強固頑固になるのは当然のことだと思います。

すなわち人間同様に癌細胞も防衛本能から頑固・強固・増幅拡大侵攻を繰り返し重ねる事になりますから、癌細胞をやっつけてもやっつけてもイタチゴッコになります。 またその癌細胞全部を完全に切り取っても癌細胞の命・意識は人間の体内に何らかの形で実在していますから、患者の意識次第では良性の細胞が悪性細胞・悪性腫瘍に変異して、癌や腫瘍となって再発・転移・増幅拡大する可能性が十分あると思います。

(私見ですが) 死ぬのが怖くて輸血や移植や大手術による延命治療を受ければ、その良いとこ取りしたしっぺ返し・苦痛苦悩は大きい事になるようです。 だから簡単には死ねないで、大患いの繰り返しの苦しみの中で死を待つ事になるかもしれませんし、しかも病人の入院介護で身近な人を巻き込み迷惑をかけますから大変な事態になり兼ねません。

それらを自覚している私ですから死とは闘いません。 だから病気・癌とも恐れ闘いません。
だから死ぬ時が来たのならそれを素直に受け止める覚悟があります。 しかしそれが事故や災害や病気で死ぬ事になるのかは知る善しもありませんから、それらをむやみに意識することもありません。 だから20年以上定期健康診断を受けていませんし、事故災害事件犯罪に遭わないように注意はしますが、それも成るがままに任せています。

また幼い頃から臭い汚い危ない暗い怖いを意識することなく、何かと自分なりに創意工夫して色んなことをして遊んで慣れ親しんでいたことが、結果的には不平不満や不安心配や恐れ恐怖をあまり待たないままに育ったのかもしれません。
・・・いま思えば有り難いことであり、それだけ多くのことに接し触れ合うことが出来たのもお陰様になるのです・・・
だから遊び感覚から始まった過疎地暮らしが10年以上続いているし、一年前に(不思議なめぐり合わせから)臭気漂う肉牛飼育のエサやりやその清掃などの下手間アルバイトに関わることになりましたが、(収入面よりも毎日が暇で退屈だったから)有り難いことだと喜び感謝の心で働いています。

その田舎暮らしと完全真理との巡り合わせとが同時進行だったのですが、その両方が縁で以前に増して意識がどんどん変わりはじめ、今ではこの先の老後の心配や要介護の心配や死後の後始末やらを家族らに出来る限り託さなくてもいいように既に取り計らいずみですから、成るがままに任せ悠々自適に過ごせるだけの自力・精神力をも持つことが出来ました。

そして「死が終り」(完全な無)ではなくて、その(始まりも終わりもない永遠の)元から持っている命・意識がその「意識だけの世界」に戻ることを確信・自覚できたことから、この世の不完全な形とその不完全意識の人間関係に(私ではどうしようもないことから、どうでもいいことになり)何の未練も執着も無くなり、それだけに尚のこと自らが「意識の世界」で通用する原因意識を学び知り実践で心(意識)に刻むことが先決だと判ったのです。

だから臭い汚い危ない暗い怖いが差別・特別意識であり、その内の一つであっても、それが不平不満・不安心配・恐れ・嫉妬・復讐・破壊意識などの不完全意識のすべてに通じていることが判っただけに、それらが小さかろうが大きかろうが持っている事にかわりが無いことから、それらを実践意識で慣れ親しむことで次第に気にならなくなりますから(どうでもいい事になり)、先入観で自分勝手に否定反発排除しない、その意識のあり方次第で大きな不平不満や強い不信感・不安心配・恐れ・怒りにつながらないで済むことを書いているのです。 それが実践だと思っています。

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