精神世界に係わるからにはその精神世界の知識も必要です、然るに知識が多いほど「気付く」に好都合です。
然るに私は現在の欲尽くしを書ける意識を元からしてもっていたわけではありません。
然るに娘が縁からして耕栄さんの完全真理の講演会録音テープ100本以上を寝ながらにして3回ほど順繰りに半年間ほど繰り返し聞き直したおかげで此れまでの宗教や伝統風習道徳や冠婚葬祭などの違和感や矛盾がすべて解決し、然るに矛盾の無い完全さに「これは凄い」となったことからして日進月歩になり、然るに今があるのです。
その此れは凄いと言うことからして始めて地元の講演会に参加した時に真っ先に気付いたのが参加者の多くが既に耕栄さん信者になっていて然るに耕栄さんの超能力見たさやその恩恵を受けたくて遠い所から毎回参加しているカルト集団が如くになっていましたから、然るに信じるか否かの無い「完全真理の会」では無くて耕栄さんを「信じる会」が如くになっていたのです。
然るに完全なる神&愛を知ることができる完全真理がカルトになるのも信じて頼りたがる(信じていれば大丈夫的な)「人間の弱さ」(自力自信の弱さ)があるからです。
だから神懸り奇跡の超能力霊力に憧れ人が集ることになるのです。
然るに精神世界に係わることで何らかの「ご褒美」が欲しいのです。
然るにそれがファバラ製品愛用に繋がっているのです。
そして後日「完全真理の会」が「ファバラの会」同然にもなったのです。
然るに皆さんは如何でしょうか、内心ではご褒美が無ければやる気にもなれないのではないでしょうか、
だから尚更に欲を捨てることなんて出来っこないでしょ、
しかも独自独歩の己一人でもって実践し続けるなんて絶対的に無理でしょ、
それもその筈でして、此れだけ欲尽くしを詳細に書いているのに納得確信出来ないままにいて、しかも繰り返し読み返してよく噛みしめずにいるし、意識して自問自答していないし、然るに精神世界の極め付けを書いているのにこれは凄いとなっていないはずです。
然るに精神世界定番の座禅や冥想が出来なくても素直に「自問自答&意識を集中」すれば、然るに元は神なる我神なりの内なる意識からしてその真実に気付くことが出来るのです。
然るに己の意識の出番があるのです。
ところが素直さに欠けていて、然るに「私は既に多くを知っている」然るに「私が正しい」の言い訳正当化したがることが真っ先にあって、然るに深く理解しようとしないから、其処止まりになるのも当たり前となるのです。
然るに己身ひとつの出番&実践意識が欠如したまま安易に通り過ぎているのです。
しかもそれが皆して赤信号を渡っている事にさえ真剣に気付いていなのです。
然るに「己身ひとつ」(自力自信自立)さえも「実感」できていないはずです。
然るに「人」の漢字が如くに誰かに寄り添い支え合うのが「人」人間だとしていますが、それは生きていくための形手段に必然であっても、元からしての「意識&命」は孤独にして人それぞれに異なっているからどうしても己が独りの独自独歩になることが理解できないのです。
ちなみに巷に目立つヒーロー主人公になることではなくて誰でもが出来る自己縮小なのに、それが無理だとなるわけです。
然るに欲張らなければ無理なく気楽に生きて行けることのその欲張らないことが艱難辛苦の修行のように思えているのです。
然るに気付くための知識がただ溜め込むだけで終わっているのです。
そこで何度も読み返していれば自問自答することも多くなり、そこで深く理解できずに通り過ぎていたことが新たな気付きとなったり納得確信にもなるのです。
然るに気付くことが多いほどに精神世界が面白くも楽しくもなるのです。
すなわち人様が気付き知らない事に私が先んじて味わい気付いているからこうして書き続けることも出来るわけです。
然るに人様が知り尽くしていることを書いているわけではないという自惚れ自己満足があるものの、それが矛盾のない事実を書いているだけにその自信でもって書いています。
然るに私は現在の欲尽くしを書ける意識を元からしてもっていたわけではありません。
然るに娘が縁からして耕栄さんの完全真理の講演会録音テープ100本以上を寝ながらにして3回ほど順繰りに半年間ほど繰り返し聞き直したおかげで此れまでの宗教や伝統風習道徳や冠婚葬祭などの違和感や矛盾がすべて解決し、然るに矛盾の無い完全さに「これは凄い」となったことからして日進月歩になり、然るに今があるのです。
その此れは凄いと言うことからして始めて地元の講演会に参加した時に真っ先に気付いたのが参加者の多くが既に耕栄さん信者になっていて然るに耕栄さんの超能力見たさやその恩恵を受けたくて遠い所から毎回参加しているカルト集団が如くになっていましたから、然るに信じるか否かの無い「完全真理の会」では無くて耕栄さんを「信じる会」が如くになっていたのです。
然るに完全なる神&愛を知ることができる完全真理がカルトになるのも信じて頼りたがる(信じていれば大丈夫的な)「人間の弱さ」(自力自信の弱さ)があるからです。
だから神懸り奇跡の超能力霊力に憧れ人が集ることになるのです。
然るに精神世界に係わることで何らかの「ご褒美」が欲しいのです。
然るにそれがファバラ製品愛用に繋がっているのです。
そして後日「完全真理の会」が「ファバラの会」同然にもなったのです。
然るに皆さんは如何でしょうか、内心ではご褒美が無ければやる気にもなれないのではないでしょうか、
だから尚更に欲を捨てることなんて出来っこないでしょ、
しかも独自独歩の己一人でもって実践し続けるなんて絶対的に無理でしょ、
それもその筈でして、此れだけ欲尽くしを詳細に書いているのに納得確信出来ないままにいて、しかも繰り返し読み返してよく噛みしめずにいるし、意識して自問自答していないし、然るに精神世界の極め付けを書いているのにこれは凄いとなっていないはずです。
然るに精神世界定番の座禅や冥想が出来なくても素直に「自問自答&意識を集中」すれば、然るに元は神なる我神なりの内なる意識からしてその真実に気付くことが出来るのです。
然るに己の意識の出番があるのです。
ところが素直さに欠けていて、然るに「私は既に多くを知っている」然るに「私が正しい」の言い訳正当化したがることが真っ先にあって、然るに深く理解しようとしないから、其処止まりになるのも当たり前となるのです。
然るに己身ひとつの出番&実践意識が欠如したまま安易に通り過ぎているのです。
しかもそれが皆して赤信号を渡っている事にさえ真剣に気付いていなのです。
然るに「己身ひとつ」(自力自信自立)さえも「実感」できていないはずです。
然るに「人」の漢字が如くに誰かに寄り添い支え合うのが「人」人間だとしていますが、それは生きていくための形手段に必然であっても、元からしての「意識&命」は孤独にして人それぞれに異なっているからどうしても己が独りの独自独歩になることが理解できないのです。
ちなみに巷に目立つヒーロー主人公になることではなくて誰でもが出来る自己縮小なのに、それが無理だとなるわけです。
然るに欲張らなければ無理なく気楽に生きて行けることのその欲張らないことが艱難辛苦の修行のように思えているのです。
然るに気付くための知識がただ溜め込むだけで終わっているのです。
そこで何度も読み返していれば自問自答することも多くなり、そこで深く理解できずに通り過ぎていたことが新たな気付きとなったり納得確信にもなるのです。
然るに気付くことが多いほどに精神世界が面白くも楽しくもなるのです。
すなわち人様が気付き知らない事に私が先んじて味わい気付いているからこうして書き続けることも出来るわけです。
然るに人様が知り尽くしていることを書いているわけではないという自惚れ自己満足があるものの、それが矛盾のない事実を書いているだけにその自信でもって書いています。