ブログでも紹介しているように私は無学・無教養で世間知らずの一般社会に適応しにくい劣る部分があり、またそれだけになかなか世間に馴染めない性格なのですが、それだけに野望・野心・欲望といえるものや理想・目的らしきものも持たないままに、(殆どが)成り行き任せに生きているだけに、世間性に色々と欠けたところがあっても、それだけに新たなことに(遊ぶことを含めて)好奇心旺盛になり、自分が知らない事を知りたがり、また自分でやりたがることからして、何でも自力で成すことの多い形にもなり、その自力とその自信から、これまで「何とか」なりながらも大したこともなく無事にやって来れました。
その世間では常識の(伝統風習を含めた)お祝い事やお見舞いごとの慣習や先祖のお墓参りや法要供養や年末年始から、また主だった冠婚葬祭までの形式・儀礼・挨拶さえもままならないくらいでしたが、その苦手意識の根底には、何でそんな形式儀礼挨拶が必要なのかと言うような素朴な疑問・違和感があったことからして、自分が世間で恥をかくことになっても(自分を守るよりも)その形式儀礼挨拶の言葉やその様式を覚えて(窮屈な思いまでして)それを人前で披露する事をあえて実行しようとはしなかったのです。
だから悪く言えば世間知らずですが、良く言えば見栄・世間体やで自分を守ろうとはせずに、自分の性格・個性をさらけ出しているほうが、世間やの周囲を気にせずに自由勝手気ままに振舞えて呑気気楽・楽ちんだったのです。
すなわち、その自らの中に違和感・疑問符があるのに、それを隠してまで人様に取り入ったりする(ご機嫌取り)(愛想を振りまく)ような事をせずに、自分に正直になって自らを自由にしていたかったのです。
それだけに(世間的に未熟な自分だけに)私がそれら世間的な事に評価を加えて人様を羨むこともまた蔑むこともなく、ただ必然ご縁に任せた接し触れ合いがあっただけです。
いつも通りに前置きが長くなりましたが、人それぞれに違った個性はこの世の人間として果たすべき役割の為でもありますから、昔から個性の尊重とその自由が言われています。
すなわち宇宙万物すべての個性・役割が集って「ひとつ」になっていることで「全知全能」の働き・必然ご縁の仕組みが起きているわけですから、己の個性・役割に何ら特別な優れたものが無くても、そのままの自分で十分なわけです。
ところが「そのまま」では不足に思うことからして、その自分の個性を超えた無理・努力・頑張りを見せることにもなるのです。
すなわち「苦労を買って」までもやりたがるのです。
またその各々の個性の中にすべてが(全知全能)有るわけではありません。
すなわち、その役割を果たすに不必要な部分・性格・個性は(能力の質や量の許容量の関係から)「封じられている」ことにもなりますから、それゆえに必要とするものは人それぞれにしっかりと備わっているはずです。
また前項の私の事例のように、欠点が長所になったり、その長所が欠点にも変るように、また良かったことが後に変化して悪い事になったり、劣等生がのちに優等生になったりするように、その反対もあるのがこの世ですから、その途中結果を気にせずに、そのままの「あるがまま」で十分なのです。
その「役割・個性」はいつも書いているように、この世で良いことも悪いことも味わってその次に「良いも悪いもない」宇宙・神・愛を学び知り気付くことにあります。
だからこの世で無理をして何か「事を成して」みせることよりも、人間の持つ不完全意識に気付き、また過去や未来に執着することなく過ごし、その役割を果たしながらも同時に使命である宇宙・神・愛の事実・真実を知ることが必要になるのです。
そのことは此れまでに詳しく繰り返して書いていますので省略します。
そこで余談的になりますが、例えば不登校の子供の場合も必然ご縁で仕組まれたことですから、いま時期の世間に馴染め無くてもいいからと「封じ込められている」「個性を出せないでいる」として、いつか「きっかけ」さえあれば立ち上がる事になるとして、食って寝て糞をしながら元気で生きてさえいればそれで大丈夫に思い、(子供が世間で立派になることが役割でも使命でもないのだから)(末は博士か大臣に成ることでもないから)そんな子供に対して親が執着しないで(余計な不信感や不安心配をせずに)明るく子供と接していれば大丈夫になります。(親が執着するほどに互いが困った事になるのです)
また昔から「人の口には戸を立てられない」が言われているように、人様のことに何かと気遣い意識をし過ぎていると、その意識しているがゆえに尚のこと人様の裏が(見えたり気付いたり感ずいたりして)見え隠れしますから、それだけにその人様の言葉や態度が余計に気になったりして、それに執着することにもなるのです。
だから不完全意識の人間同士が何事に関わっても、その不完全意識の不完全な結果しか出ない事を繰り返し書いているのです。
また危機的な状況を感じてか(必然から)健康管理・健康志向が強まり、老若男女・人それぞれに運動意欲が高まったり、人工的な癒しを求めたり、あれこれと健康食品や栄養補助剤を愛用してみたり、または人間ドックや定期診断を欠かすことなく受診したりしている事実がありますが、それを裏返せば、その健康に対する不安心配・不信感が高まり、併せて自分を守る「守り意識」が強くなっていることにもなりますから、その不信感やその守り意識の集合意識も高まっているし、皆がするから私もすると行った具合に更に増えて高まっています。
ところが意識が原因のこの世だけに、その裏の裏が出れば、その健康に対する思いが思うような結果にならなければ(用心していた成人病や恐れていた癌を患うことで)(裏切られたことにもなり)そこで最終的には悲観・絶望・死の淵に立ったと思い込み、その自己破壊破滅や他者破壊の意識も(その集合意識も)強まります。
また散歩やジョギング中に過去のことや未来のことをあれこれ思い考えたりして不安心配・悩むよりも(逆効果だから)、できれば精神世界・完全真理の学びを意識しているほうが(私の場合は)何かと気付くことが多くなります。
また裏が出てその有事によって余儀なく自己縮小した形になってしまってから、そこで遅まきながらも精神世界を意識することになるよりも、その有事に強い自力・精神を前もって養っているほうが(その意識の関係から)その有事の仕組みも起き難いし、また有事に遭遇しても大が小にもなり、またその有事からの立ち直りも早くなります。
だから何かの形にして、それを成すことではなくして、人間の「役割・使命」を果たす事を意識して暮らすしかありません。
そうなれば「良い悪い」で判断しても執着することにはなりません。
そしてすべてが学びにつながります。
すなわち「完全真理」が活かされるのです。
その世間では常識の(伝統風習を含めた)お祝い事やお見舞いごとの慣習や先祖のお墓参りや法要供養や年末年始から、また主だった冠婚葬祭までの形式・儀礼・挨拶さえもままならないくらいでしたが、その苦手意識の根底には、何でそんな形式儀礼挨拶が必要なのかと言うような素朴な疑問・違和感があったことからして、自分が世間で恥をかくことになっても(自分を守るよりも)その形式儀礼挨拶の言葉やその様式を覚えて(窮屈な思いまでして)それを人前で披露する事をあえて実行しようとはしなかったのです。
だから悪く言えば世間知らずですが、良く言えば見栄・世間体やで自分を守ろうとはせずに、自分の性格・個性をさらけ出しているほうが、世間やの周囲を気にせずに自由勝手気ままに振舞えて呑気気楽・楽ちんだったのです。
すなわち、その自らの中に違和感・疑問符があるのに、それを隠してまで人様に取り入ったりする(ご機嫌取り)(愛想を振りまく)ような事をせずに、自分に正直になって自らを自由にしていたかったのです。
それだけに(世間的に未熟な自分だけに)私がそれら世間的な事に評価を加えて人様を羨むこともまた蔑むこともなく、ただ必然ご縁に任せた接し触れ合いがあっただけです。
いつも通りに前置きが長くなりましたが、人それぞれに違った個性はこの世の人間として果たすべき役割の為でもありますから、昔から個性の尊重とその自由が言われています。
すなわち宇宙万物すべての個性・役割が集って「ひとつ」になっていることで「全知全能」の働き・必然ご縁の仕組みが起きているわけですから、己の個性・役割に何ら特別な優れたものが無くても、そのままの自分で十分なわけです。
ところが「そのまま」では不足に思うことからして、その自分の個性を超えた無理・努力・頑張りを見せることにもなるのです。
すなわち「苦労を買って」までもやりたがるのです。
またその各々の個性の中にすべてが(全知全能)有るわけではありません。
すなわち、その役割を果たすに不必要な部分・性格・個性は(能力の質や量の許容量の関係から)「封じられている」ことにもなりますから、それゆえに必要とするものは人それぞれにしっかりと備わっているはずです。
また前項の私の事例のように、欠点が長所になったり、その長所が欠点にも変るように、また良かったことが後に変化して悪い事になったり、劣等生がのちに優等生になったりするように、その反対もあるのがこの世ですから、その途中結果を気にせずに、そのままの「あるがまま」で十分なのです。
その「役割・個性」はいつも書いているように、この世で良いことも悪いことも味わってその次に「良いも悪いもない」宇宙・神・愛を学び知り気付くことにあります。
だからこの世で無理をして何か「事を成して」みせることよりも、人間の持つ不完全意識に気付き、また過去や未来に執着することなく過ごし、その役割を果たしながらも同時に使命である宇宙・神・愛の事実・真実を知ることが必要になるのです。
そのことは此れまでに詳しく繰り返して書いていますので省略します。
そこで余談的になりますが、例えば不登校の子供の場合も必然ご縁で仕組まれたことですから、いま時期の世間に馴染め無くてもいいからと「封じ込められている」「個性を出せないでいる」として、いつか「きっかけ」さえあれば立ち上がる事になるとして、食って寝て糞をしながら元気で生きてさえいればそれで大丈夫に思い、(子供が世間で立派になることが役割でも使命でもないのだから)(末は博士か大臣に成ることでもないから)そんな子供に対して親が執着しないで(余計な不信感や不安心配をせずに)明るく子供と接していれば大丈夫になります。(親が執着するほどに互いが困った事になるのです)
また昔から「人の口には戸を立てられない」が言われているように、人様のことに何かと気遣い意識をし過ぎていると、その意識しているがゆえに尚のこと人様の裏が(見えたり気付いたり感ずいたりして)見え隠れしますから、それだけにその人様の言葉や態度が余計に気になったりして、それに執着することにもなるのです。
だから不完全意識の人間同士が何事に関わっても、その不完全意識の不完全な結果しか出ない事を繰り返し書いているのです。
また危機的な状況を感じてか(必然から)健康管理・健康志向が強まり、老若男女・人それぞれに運動意欲が高まったり、人工的な癒しを求めたり、あれこれと健康食品や栄養補助剤を愛用してみたり、または人間ドックや定期診断を欠かすことなく受診したりしている事実がありますが、それを裏返せば、その健康に対する不安心配・不信感が高まり、併せて自分を守る「守り意識」が強くなっていることにもなりますから、その不信感やその守り意識の集合意識も高まっているし、皆がするから私もすると行った具合に更に増えて高まっています。
ところが意識が原因のこの世だけに、その裏の裏が出れば、その健康に対する思いが思うような結果にならなければ(用心していた成人病や恐れていた癌を患うことで)(裏切られたことにもなり)そこで最終的には悲観・絶望・死の淵に立ったと思い込み、その自己破壊破滅や他者破壊の意識も(その集合意識も)強まります。
また散歩やジョギング中に過去のことや未来のことをあれこれ思い考えたりして不安心配・悩むよりも(逆効果だから)、できれば精神世界・完全真理の学びを意識しているほうが(私の場合は)何かと気付くことが多くなります。
また裏が出てその有事によって余儀なく自己縮小した形になってしまってから、そこで遅まきながらも精神世界を意識することになるよりも、その有事に強い自力・精神を前もって養っているほうが(その意識の関係から)その有事の仕組みも起き難いし、また有事に遭遇しても大が小にもなり、またその有事からの立ち直りも早くなります。
だから何かの形にして、それを成すことではなくして、人間の「役割・使命」を果たす事を意識して暮らすしかありません。
そうなれば「良い悪い」で判断しても執着することにはなりません。
そしてすべてが学びにつながります。
すなわち「完全真理」が活かされるのです。