過去の釈迦やイエスの類が己の中にある思い思惑を掲げて説教するもそれは不完全で尚理想目的の類だったのでそれらの思い通りには行かずに巷に多くのその弊害や遺恨まで残した結果になりました。
ところが完全真理の山田耕栄さんは基本であるその説教の実践には絶対的な無理があることに(説き始めて約10年後に)気付いて、然るに素朴に生きる自己縮小しか無いと修正したあたりは釈迦やイエスの類よりも上回る意識精神力を持っていたことになります。
ところがです、その良い悪いで判断しない完全意識になるのが無理だから自己縮小しか無いと気付いたのなら、
然るに気付いた己がまず先に実践意識になって取り組むべきことだったのに、何でかファバラシールを売り出し、しかもファバラ講演会の様相になったことは、
然るに己が学び知り気付いた完全真理を説くだけのお役で終わり、それ以上のお役が出来ないから、然るにファバラ製品の開発販売のお役に鞍替えしたようになったのかもしれません。
しかし良い悪いで判断するその原因に「良いとこ取り」したがるその「欲」にあると気付いてその欲が出ることがあってもそれに執着しない生き方、然るに素朴に生きる自己縮小の説教に精出しながらも、また自らも実践しながら学び知り気付いたことを必然ご縁で集る会員に話すことになっていれば、然るにそのお役を果たしながら自らも自己縮小が進んで更なる進歩に繋がっていったと思いますし、それに続く者達&実践意識の者もいたかもしれません。
然るに私とご縁があった宇宙エネルギーの先生も、また霊魂&想念の世界に係わる霊能者も、然るに完全真理の耕栄さんも、宇宙&神&愛の必然の仕組みからして与えれた能力からしてその役割を果たす道行の中で<欲>を出しすぎたら(意識が原因の結果が出るから)「其処止まり」になるのだと思います。
だから己の欲に気付いて自らが修正しない限り(初心に戻らない限り)その先に繋がらないで同じ繰り返しをするだけで終わるのです。
然るに巷で「其処止まり」になっている人達が多いわけです。
しかもそこでも欲張り続ければ、然るに「類は友を呼ぶ」仕組みからして同じ欲張る者が集り一致協力しながらにしてピラミッド組織が構築されていくわけです。
ところが完全真理の山田耕栄さんは基本であるその説教の実践には絶対的な無理があることに(説き始めて約10年後に)気付いて、然るに素朴に生きる自己縮小しか無いと修正したあたりは釈迦やイエスの類よりも上回る意識精神力を持っていたことになります。
ところがです、その良い悪いで判断しない完全意識になるのが無理だから自己縮小しか無いと気付いたのなら、
然るに気付いた己がまず先に実践意識になって取り組むべきことだったのに、何でかファバラシールを売り出し、しかもファバラ講演会の様相になったことは、
然るに己が学び知り気付いた完全真理を説くだけのお役で終わり、それ以上のお役が出来ないから、然るにファバラ製品の開発販売のお役に鞍替えしたようになったのかもしれません。
しかし良い悪いで判断するその原因に「良いとこ取り」したがるその「欲」にあると気付いてその欲が出ることがあってもそれに執着しない生き方、然るに素朴に生きる自己縮小の説教に精出しながらも、また自らも実践しながら学び知り気付いたことを必然ご縁で集る会員に話すことになっていれば、然るにそのお役を果たしながら自らも自己縮小が進んで更なる進歩に繋がっていったと思いますし、それに続く者達&実践意識の者もいたかもしれません。
然るに私とご縁があった宇宙エネルギーの先生も、また霊魂&想念の世界に係わる霊能者も、然るに完全真理の耕栄さんも、宇宙&神&愛の必然の仕組みからして与えれた能力からしてその役割を果たす道行の中で<欲>を出しすぎたら(意識が原因の結果が出るから)「其処止まり」になるのだと思います。
だから己の欲に気付いて自らが修正しない限り(初心に戻らない限り)その先に繋がらないで同じ繰り返しをするだけで終わるのです。
然るに巷で「其処止まり」になっている人達が多いわけです。
しかもそこでも欲張り続ければ、然るに「類は友を呼ぶ」仕組みからして同じ欲張る者が集り一致協力しながらにしてピラミッド組織が構築されていくわけです。