孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

精神世界・信仰宗教で瞑想や断食や修行する必要性があるのは…

2015年12月20日 | Weblog
人間としてこの世に生まれたからには世間的な趣味嗜好娯楽・変化刺激・快感快楽などの喜怒哀楽で生きるのではなくして己の精神を意識した生き様にならなければと気付いたからには、
やはり仏門に下って修行してお坊さんになったり、また教会の牧師さんやシスターとなるのも同じでして、
先ずは素朴・謙虚にして生きる実践から始まります。

そしてやはり欲しいものを我慢する、耐えることも絶対的に必要になります。
だから中途半端な我慢では本物になれないことにやっと気付きました。

然るに断食するのも、欲しいものを我慢できる心意識になるための手段なのです。
また修行するのも、わき目を振らずにまい進することの重要性に気付き知る手立てなのです。

そして断食するからこそ、食することの喜び楽しさや粗食のおいしさに気付けるのです。
ちなみに私が書いているのに=空腹こそが最高のごちそう=になるのです。
だから美味しいものを追求する欲から卒業できたのです。

また修行となるのが、他ごとを気にしないで心静かにして自問自答したり自己分析をしたりしながら常に己の心意識と向き合う時間なのです。

だから暇で退屈していても、その時間つぶしに趣味嗜好娯楽(他ごと)に興じることは我慢の修行にならずにしてダメなのです。
ちなみにそれを自覚認識している私だったのに=ちょっとくらいなら=とパチンコに行っていたから、結果的には中途半端なままに、また=ちょっとならいいか=と繰り返していたのです。

となると仏門に下り出家したりお坊さんやシスターになる人のほうが頑張る根性・精神力が強く、また自分の思いを貫く素直さ真面目さに優ると思いました。

と言っても(私から言わせれば)強い信仰心と身近に同じ仲間が同じような事をしているから可能な事であるし、また成し遂げれば立派な資格やご褒美がまっていますが、
それが信仰心もない独自独歩の孤独で、しかもおまけのご褒美が無ければ、
己の中の欲に負けて=ちょっとだけなら=と私のような中途半端さが出てくると思います。

またそれが人間の本性だと思います。
だから尚更に修行・鍛錬・修養する必要性があるのです。

然るに前人未到の「千日回峰」を成したお坊さんともなると、それに似合う心意識・精神力に達しているのは間違いありません。

それでも千日回峰を成し遂げたという自己満足・自惚れ慢心が見られますから、やはり謙虚になるのも前人未到なのかもしれません。

またマヤの人が聖地までの一歩一歩ごとに地面に這いつくばり合掌しているのを映像で見ると、やはり相当な根性・信仰心を持っていると思われます。
しかしそれも信仰心が強いから成せることだと思っています。

しかし一般的な私には絶対に無理ですから、
やはり今のままに少しづつ前に進んでいくしかありません。

それでも=やりだしたからには=やるからには=甘えのある中途半端な心意識では無駄な事や余計なことを繰り返すことにもなると改めて気付きました。

だからそんな甘えん坊も少しづつ卒業しなければと自覚したのが、昨日パチンコに行ったことを(長くいっていなかったのに)反省している今日の私です。

とにかく前世から続く中途半端な生き様を何度も繰り返すことから早く卒業するためにも、今よりもさらに一歩前進した精神世界の道・精神修行の道を歩んでいきます。

然るに皆さんもご一緒に如何ですか、
巷の趣味嗜好娯楽なんかはどうでもいいことになりますよ。

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