宇宙が(ニワトリ)先でもなく、神が(タマゴ)先でもなく、元々から有る(元から実在する)宇宙・神は必然のお仕組み(宇宙の法則)で成るように成っているだけですから、何ら特別ではありません。
また過去のイエスや釈迦らや現在のサイババや耕栄さんらも、自分の役割・個性を果たしているだけですから、何ら特別ではありません。 だからそれらが成す摩訶不思議な現象・奇跡も特別なことではありません。
単に宇宙・神の実在を学び知るために、神仏やの精神世界を学び知るために、それら「見えない世界」の実在・真実を知るため・教えるための必然で成して見せている・成せる事を成しているだけですから、それも何ら特別ではありません。
それらを特別に思う人が憧れ慕い尊敬し敬い崇めることになるのは、その特別を望み人様と何らかの差を付けたがる差別・特別意識の不完全意識を持っているからです。
だから人様より少しでも早く特別を得ようと(特別を見ようと)(特別になろうと)足しげく通ったり、また優劣順位が気になって他と比較競争する意識を持っているがために、何かと仲間が集るところに(遅れをとらないために)自分も寄り集まりたがる傾向にもなっています。
・・・特に奇跡に魅せられて集るような人ほど他力本願の信仰意識・信者意識になっているようです。
だから完全真理によって実在する真実の「神を知る」ことよりも、神を説く教祖や奇跡を成す人を「信じる」ことで満足しているようです。
また執着しない、無理しない、素朴に生きる事が実践出来ない人もやはり差を付けたがる差別・特別意識が強いのかもしれません。
だから実践することで「失う」ものが惜しくなり、それを守ろうとすれば実践が出来ないわけです。
すなわち此れまで過ぎるほどに自己拡大してきたものを失いたく無い思いが強いのです。
すなわち「得る」ことばかり(良いとこ取り)目指してきただけに、それを失うことに不安心配・恐れまで持つのです。
・・・この世の裏表の矛盾から言えば「失って得る」ものが必ずあるのですが、その失うことに未練・執着しているのです。
その「失って得る」のが<自由>です。
自らの意識で貧して得るのも「自由」です。
自らが「しがらみ」から離れて得るのも「自由」です。
すなわち不完全意識のその人間関係に束縛制限・支配されて自由が阻害されていたのです。
その自由を犠牲にして、不完全な人間関係を維持・保守・守り闘うのも、それも自由です。
宇宙・神の真実や奇跡の真実を知らずに、信じる神様・仏様・教祖様・先生様・奇跡さま様として敬い崇拝するのも自由です。
宇宙・神の仕組みに任せて楽ちんに生きるのも、不満と満足の苦楽・喜怒哀楽の感情を出して生きるのも自由です。
何処で何をしていようがそれも自由です。
その「自由」の使い道が意識で異なっているだけですが、その選択も自由なのです。
ただその自由に未練・後悔・執着があるのか、成り行き任せのあるがままの自由なのか、その違いがあるのです。
生まれ立ての赤ちゃんからお年寄りや死にかけている人までのすべての「意識・命」は自らの思い(意識)で生きていますから、それが身近な家族や人様の意識と異なっていても当たり前なのです。
その異なる意識・歯車の合わない意識を無理矢理に合わす余計な事・無理な事・無駄な事をする必要は無いのです。
皆が自由意識で思うがままに生きていてもいいのです。
だから人様のしていることを邪魔立てしないで、自由にほっとけば、それも成るように成るだけで、親や子や人様の責任でもなければ宇宙・神の神仏や師匠や先生の責任でもなく。
またその各々の自己責任・自己意識で思うがままに生きているだけに、そこで神仏を説く教祖や師匠や先生やの成す人的奇跡をもってしても、それら人様の意識の改革を誰一人として「どうすること」も出来ないわけです。
だから人様と関係なく、自らが「完全真理」を学び知り実践して、その自由・平等・調和の意識、宇宙・神の愛意識に到達できる日まで自力と自信の独自独歩で(人様を気にしないで)実践し続けるしかないのです。
また過去のイエスや釈迦らや現在のサイババや耕栄さんらも、自分の役割・個性を果たしているだけですから、何ら特別ではありません。 だからそれらが成す摩訶不思議な現象・奇跡も特別なことではありません。
単に宇宙・神の実在を学び知るために、神仏やの精神世界を学び知るために、それら「見えない世界」の実在・真実を知るため・教えるための必然で成して見せている・成せる事を成しているだけですから、それも何ら特別ではありません。
それらを特別に思う人が憧れ慕い尊敬し敬い崇めることになるのは、その特別を望み人様と何らかの差を付けたがる差別・特別意識の不完全意識を持っているからです。
だから人様より少しでも早く特別を得ようと(特別を見ようと)(特別になろうと)足しげく通ったり、また優劣順位が気になって他と比較競争する意識を持っているがために、何かと仲間が集るところに(遅れをとらないために)自分も寄り集まりたがる傾向にもなっています。
・・・特に奇跡に魅せられて集るような人ほど他力本願の信仰意識・信者意識になっているようです。
だから完全真理によって実在する真実の「神を知る」ことよりも、神を説く教祖や奇跡を成す人を「信じる」ことで満足しているようです。
また執着しない、無理しない、素朴に生きる事が実践出来ない人もやはり差を付けたがる差別・特別意識が強いのかもしれません。
だから実践することで「失う」ものが惜しくなり、それを守ろうとすれば実践が出来ないわけです。
すなわち此れまで過ぎるほどに自己拡大してきたものを失いたく無い思いが強いのです。
すなわち「得る」ことばかり(良いとこ取り)目指してきただけに、それを失うことに不安心配・恐れまで持つのです。
・・・この世の裏表の矛盾から言えば「失って得る」ものが必ずあるのですが、その失うことに未練・執着しているのです。
その「失って得る」のが<自由>です。
自らの意識で貧して得るのも「自由」です。
自らが「しがらみ」から離れて得るのも「自由」です。
すなわち不完全意識のその人間関係に束縛制限・支配されて自由が阻害されていたのです。
その自由を犠牲にして、不完全な人間関係を維持・保守・守り闘うのも、それも自由です。
宇宙・神の真実や奇跡の真実を知らずに、信じる神様・仏様・教祖様・先生様・奇跡さま様として敬い崇拝するのも自由です。
宇宙・神の仕組みに任せて楽ちんに生きるのも、不満と満足の苦楽・喜怒哀楽の感情を出して生きるのも自由です。
何処で何をしていようがそれも自由です。
その「自由」の使い道が意識で異なっているだけですが、その選択も自由なのです。
ただその自由に未練・後悔・執着があるのか、成り行き任せのあるがままの自由なのか、その違いがあるのです。
生まれ立ての赤ちゃんからお年寄りや死にかけている人までのすべての「意識・命」は自らの思い(意識)で生きていますから、それが身近な家族や人様の意識と異なっていても当たり前なのです。
その異なる意識・歯車の合わない意識を無理矢理に合わす余計な事・無理な事・無駄な事をする必要は無いのです。
皆が自由意識で思うがままに生きていてもいいのです。
だから人様のしていることを邪魔立てしないで、自由にほっとけば、それも成るように成るだけで、親や子や人様の責任でもなければ宇宙・神の神仏や師匠や先生の責任でもなく。
またその各々の自己責任・自己意識で思うがままに生きているだけに、そこで神仏を説く教祖や師匠や先生やの成す人的奇跡をもってしても、それら人様の意識の改革を誰一人として「どうすること」も出来ないわけです。
だから人様と関係なく、自らが「完全真理」を学び知り実践して、その自由・平等・調和の意識、宇宙・神の愛意識に到達できる日まで自力と自信の独自独歩で(人様を気にしないで)実践し続けるしかないのです。