不完全意識の者が(偽善の者が)何を成せども不完全な結果(偽善)になることからして、どうせやることなら自分のやりたいことをやる、やりたくないことは後回しにする、面倒臭いことはしないでやりたくなったやる、そんな自由勝手な生活ぶりからして一日中暇で退屈します。
そこで精神世界を意識し続ける(独自独歩で生きて)(自問自答・瞑想する)仙人が如くの生き方になればいいのですが、しかし個人意識丸出しで生きているだけにそう簡単ではありません。
だから時間つぶしにパチンコに行くときが多少ありますし、ギャオ!の映画やドラマを見て時間つぶしをしています。
だから尚更に仙人が如くの生き様が羨ましくもなります。
そんなことからして精神世界のブログに関わっている時間が多いほど気付くことも多いし、それが時間つぶしにもなって私には都合がいいことになります。
ちなみに一ヶ月前からブログの読者とメール交換しているのですが、それが毎日続くことからして私なりにメール依存症になる人の気持ちが理解できました。
然るに「何か事が無ければ」寂しくも虚しくもなるのです。
だから趣味嗜好娯楽が必要になるのです。
ちなみに仙人にはなれないのです。
しかも気分的に嫌なとき・面白くないことが続くと「虚しく」なるのです。
だから「孤独感」になりやすのです。
だから何かに「依存」したくなるのです。
然るに神仏霊魂・信仰宗教などに依存したり、かぶれたり、また娯楽が如くのマニアやオタクになるのも理解できました。
とにかく不完全意識の集まりであるこの世・人間関係の中で、宇宙=神=愛の精神世界を意識し続けて生きていくには余程の自力と自信の精神力がなければ貫き通すことが無理になるのです。
然るに人を集めたがるのも、また人が集まりたがるのも、孤独になると「寂しい」からです、不安があるからです。
ちなみに世の為・人の為になるとして人の前に立ったり引き連れていた(偽善の積み重ねをしていた)(人を巻き込んでいた)過去の釈迦やイエスよりも、己一人の独自独歩の生き方の仙人のほうが精神力・意識力の次元が高いことになります。
とにかく人間は孤独だと不安で寂しいから多くの人が集まっているところ(偽善が渦巻いているところ)で生きることを選んでいるのです。
然るに「皆して赤信号を渡っている」のです。
そして更に目立つことをして人前に立つことを望んでいるのです。
然るに「ドングリの背比べ」をしているのです。
何はともあれ
思うが侭の(個性役割を出しながら)自由に生きて、この世(生きていくための豊かな自然)を大いに味わうのが本文なのに、
なのにその自由にして生きる術を放棄し見失い、然るに否定反発・束縛制限しあいながら欲張って生きる偽善の人間関係を選んで築いているのが間違いの元なのです。
しかしそれも元から仕組まれていることからして中々卒業できないでいるのも当然と言えば当然になりますが、
それだからこそ日々の生き様からして(他力に依存しないだけの)自力と自信の精神力を磨き高める真っ当な生き方しか他に道は無いのです。
※各々が磨き高めた自力を出し合う・支え合う関係は必然ですが、他力に依存し合う・もたれ合う特別な関係は不完全で偽善の積み重ね合いになります。
そこで精神世界を意識し続ける(独自独歩で生きて)(自問自答・瞑想する)仙人が如くの生き方になればいいのですが、しかし個人意識丸出しで生きているだけにそう簡単ではありません。
だから時間つぶしにパチンコに行くときが多少ありますし、ギャオ!の映画やドラマを見て時間つぶしをしています。
だから尚更に仙人が如くの生き様が羨ましくもなります。
そんなことからして精神世界のブログに関わっている時間が多いほど気付くことも多いし、それが時間つぶしにもなって私には都合がいいことになります。
ちなみに一ヶ月前からブログの読者とメール交換しているのですが、それが毎日続くことからして私なりにメール依存症になる人の気持ちが理解できました。
然るに「何か事が無ければ」寂しくも虚しくもなるのです。
だから趣味嗜好娯楽が必要になるのです。
ちなみに仙人にはなれないのです。
しかも気分的に嫌なとき・面白くないことが続くと「虚しく」なるのです。
だから「孤独感」になりやすのです。
だから何かに「依存」したくなるのです。
然るに神仏霊魂・信仰宗教などに依存したり、かぶれたり、また娯楽が如くのマニアやオタクになるのも理解できました。
とにかく不完全意識の集まりであるこの世・人間関係の中で、宇宙=神=愛の精神世界を意識し続けて生きていくには余程の自力と自信の精神力がなければ貫き通すことが無理になるのです。
然るに人を集めたがるのも、また人が集まりたがるのも、孤独になると「寂しい」からです、不安があるからです。
ちなみに世の為・人の為になるとして人の前に立ったり引き連れていた(偽善の積み重ねをしていた)(人を巻き込んでいた)過去の釈迦やイエスよりも、己一人の独自独歩の生き方の仙人のほうが精神力・意識力の次元が高いことになります。
とにかく人間は孤独だと不安で寂しいから多くの人が集まっているところ(偽善が渦巻いているところ)で生きることを選んでいるのです。
然るに「皆して赤信号を渡っている」のです。
そして更に目立つことをして人前に立つことを望んでいるのです。
然るに「ドングリの背比べ」をしているのです。
何はともあれ
思うが侭の(個性役割を出しながら)自由に生きて、この世(生きていくための豊かな自然)を大いに味わうのが本文なのに、
なのにその自由にして生きる術を放棄し見失い、然るに否定反発・束縛制限しあいながら欲張って生きる偽善の人間関係を選んで築いているのが間違いの元なのです。
しかしそれも元から仕組まれていることからして中々卒業できないでいるのも当然と言えば当然になりますが、
それだからこそ日々の生き様からして(他力に依存しないだけの)自力と自信の精神力を磨き高める真っ当な生き方しか他に道は無いのです。
※各々が磨き高めた自力を出し合う・支え合う関係は必然ですが、他力に依存し合う・もたれ合う特別な関係は不完全で偽善の積み重ね合いになります。