精神世界を学び知りその内なる意識の実践に気付き、そこでその実践を意識しても既に時遅しで無理があると書いていますが、
何だか違和感がありませんか、
然るに「執着」しないその実践意識になったとすれば、然るに此れまで執着していた事実が数多く根底にあって気付いたわけですから、その気付きが起こればすぐさま執着しなくなるわけでは決してありません。
ちなみに私が成り行き任せであっても、時として母親や妻の愚痴小言を執拗に聞くとそれを気にして執着していたその若かりし頃があります。
ところが愚痴小言を聞かされて気分を損ねている私自身に問いかけたら、そのことに執着しているあいだずーっと気分を害している自分に気付き、然るに愚痴小言に巻き込まれて気分を害しているだけに止まらずにやがて母や妻に対して苛立ち腹立ちへと進化拡大するし、しかもそれが長引けば長引くほどに巻き添えを食らった私自身が精神的におお損をしていることに気付いたのです。
その人様の不満&不機嫌に私が巻き込まれてその私までが不愉快になり、然るに長引けばその分だけ不愉快が長引くことからして、然るに「気にしたら私が損する」というような意識からして執着することが次第に馬鹿らしくなり、然るに我が身の精神安定のために気にしないで(巻き込まれないためにも)「ほっとく」意識が定着してきましたが、然るに今では「ほっとける」=ほっとけ&仏に任す=成り行きに任す=ようになりました。
と言うように何事にも段階的に踏み越えていかなければならないのです。
然るにその(気付き続ける)精神力&意識力&実践意識力が絶対的に不可欠です。
然るに気付いたからとて一夜にして成るものではないのです。
然るに私が精神世界に目覚めその執着が云々と言われたときには既に自覚納得確信から悟りに至っていたのです。
それでも不完全意識を持っているからには時おり執着も出てきますが、すぐに気付き長引かせないで終わり、しかもすぐに忘れて尾を長引きません。
然るに精神世界を学び知ったときには既に成り行き任せの自然体が定着していて、然るに素朴に生きる自己縮小が言われだした時にも成り行きからして過疎地で静かに暮らしていました。
ところがもし過去の生き様のままに暮らしているときに完全真理を知り、そのままの生き様&状況状態でもってして自己縮小の実践をするとなると到底無理だとなるわけです。
然るにそれを皮肉って、
実践できないことを実践しなさいと説いているのが精神世界だとして、しかも人集め金集めや目立ちたがりやの欲のために精神世界が語られる形があることして、
また人集めのために摩訶不思議な超能力が不可欠なこと、しかも釣った魚を逃がさないため&足しげく通う信者&リピート客を作るためにも摩訶不思議な結果が出るのが不可欠だとして書くに至りました。
となると巷の精神世界が無用の長物になりかねませんが、然るにそれも人それぞれに適した自らの精神の学びのために必然にしてある形ですから、
然るに学び知った後は自力と自信の精神力でもってして気付きながら独自独歩に歩んでいくのが適しているとして、
然る賑わい「楽しく」生きることよりも心静かにして<楽に>生きることが(誰でもが実践し易いだけに)最も適していると書いているわけです。
何だか違和感がありませんか、
然るに「執着」しないその実践意識になったとすれば、然るに此れまで執着していた事実が数多く根底にあって気付いたわけですから、その気付きが起こればすぐさま執着しなくなるわけでは決してありません。
ちなみに私が成り行き任せであっても、時として母親や妻の愚痴小言を執拗に聞くとそれを気にして執着していたその若かりし頃があります。
ところが愚痴小言を聞かされて気分を損ねている私自身に問いかけたら、そのことに執着しているあいだずーっと気分を害している自分に気付き、然るに愚痴小言に巻き込まれて気分を害しているだけに止まらずにやがて母や妻に対して苛立ち腹立ちへと進化拡大するし、しかもそれが長引けば長引くほどに巻き添えを食らった私自身が精神的におお損をしていることに気付いたのです。
その人様の不満&不機嫌に私が巻き込まれてその私までが不愉快になり、然るに長引けばその分だけ不愉快が長引くことからして、然るに「気にしたら私が損する」というような意識からして執着することが次第に馬鹿らしくなり、然るに我が身の精神安定のために気にしないで(巻き込まれないためにも)「ほっとく」意識が定着してきましたが、然るに今では「ほっとける」=ほっとけ&仏に任す=成り行きに任す=ようになりました。
と言うように何事にも段階的に踏み越えていかなければならないのです。
然るにその(気付き続ける)精神力&意識力&実践意識力が絶対的に不可欠です。
然るに気付いたからとて一夜にして成るものではないのです。
然るに私が精神世界に目覚めその執着が云々と言われたときには既に自覚納得確信から悟りに至っていたのです。
それでも不完全意識を持っているからには時おり執着も出てきますが、すぐに気付き長引かせないで終わり、しかもすぐに忘れて尾を長引きません。
然るに精神世界を学び知ったときには既に成り行き任せの自然体が定着していて、然るに素朴に生きる自己縮小が言われだした時にも成り行きからして過疎地で静かに暮らしていました。
ところがもし過去の生き様のままに暮らしているときに完全真理を知り、そのままの生き様&状況状態でもってして自己縮小の実践をするとなると到底無理だとなるわけです。
然るにそれを皮肉って、
実践できないことを実践しなさいと説いているのが精神世界だとして、しかも人集め金集めや目立ちたがりやの欲のために精神世界が語られる形があることして、
また人集めのために摩訶不思議な超能力が不可欠なこと、しかも釣った魚を逃がさないため&足しげく通う信者&リピート客を作るためにも摩訶不思議な結果が出るのが不可欠だとして書くに至りました。
となると巷の精神世界が無用の長物になりかねませんが、然るにそれも人それぞれに適した自らの精神の学びのために必然にしてある形ですから、
然るに学び知った後は自力と自信の精神力でもってして気付きながら独自独歩に歩んでいくのが適しているとして、
然る賑わい「楽しく」生きることよりも心静かにして<楽に>生きることが(誰でもが実践し易いだけに)最も適していると書いているわけです。