孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

信仰宗教のように世直し人救いではなくして、自らの個人意識を改革・変革する事になります。

2012年08月12日 | Weblog
イエスや釈迦の時代がいつかは知りませんが、日本にもアマテラスオオミカミやイザナミノミコトやヤマトタケルノミコトなどの神代の時代もありましたし、聖徳太子が勢力争いに勝って憲法を制定したとか徳川時代になって戦国時代が終わったり、その封建時代を壊す明治維新で文明開化したとかがありますが、その時々の時代も今の時代も人間意識の根本はなんら変わっていません。

だからその意識が原因のその結果も古今東西なんら変わっていませんが、ただ時代の文明文化などの形が進化発展してきても今や末期的状況になっているのは事実にあります。

すなわち意識が原因からして(神代の時代から)「成ることは成るが」「成らないことは成らない」すなわち遅かれ早かれ「どうにか成る」ことはほっといていても成るが、どうにも成らないことはいくら頑張っても成らないわけですから、それならば「成り行きに任せて」おけばいいものを、それでは不満だからと「何とかしようと」頑張ってきたのですが、結局は地球人類の崩壊や破壊に至っています。

また「私は頑張ったから良かった」と思って喜んでいる人もいるかもしれませんが、しかしそれは今の途中結果ですからこの先で必ず変化してきます。
それが矛盾のある不完全意識の人間のなせる業・サガ・定め・宿命と言われるものです。

だったらそんな政局大局ではなくして個人の側で「何とかする」ことなら可能性があります。
だから信仰宗教のように世直し人救いではなくして、自らの個人意識を改革・変革する事になるわけです。
そうなると人様のことはほっといて、自らの個人意識を修正改革する実践になります。

しかも先ほどに書いた神様や人様やの他力に頼んでも「どうしようもない」し「どうにもならない」わけだから、やはり自分のことは自分の自力による独自独歩でやるしかありません。と書いているつもりです。

ところがどっこい、そう簡単ではないのです。とも書いているつもりです。

だったら、どうするの?、(答え)どうしようもありません。
だからせめても欲張り無理・執着することなく静かに暮らして後は「成り行きに任す」しかありません。
しかも他者・人様を巻き込まないように独自独歩でやるしかありません。

なんたって不完全意識の人間が何を成そうとも、その結果も不完全だからその思いがころころと変わるのです。
しかも「食って寝て糞をして」生きているのが事実なのに、それに自分の思いを入れて善悪損得優劣で判断して、しかもそれが(私が)正しいと思い込む癖があし、しかもその思いが後日になってころころと変わるのですから、今さらその意識を「どうしようもない」となるのです。

それも大昔の神代の時代から延々と繰り返されているのですから、すなわち結果的には神も仏も用無し状態でずーっと続いているのですから、今さら何で一足飛びに変わることが出来るでしょうか。となるわけです。

中には釈迦やイエスが成せなかった事を耕栄さんやサイババが成すと思っている信者さんもいるようですが、そんな他力本願の人の思いが叶う事になるはずが此れまで無かったように、開祖教祖の宗教家や神がかり奇跡をなす人がいくら頑張っても成せないことは成せないのです。

だからせめてもその他力願望・他力依存の思いを消して、自らの自力でもって「食って寝て糞をして」生きている<事実>を素直謙虚素朴に味わうことで意識改革につなげるしかないと、絶対性でもって書いているのです。

また「ノアの箱舟」伝説を越えた「アダムとイブ」の創世記の如くの新たな始まりしかないと確信でもって思えているのです。
だから死する時が来るまで成り行き任せの安心安全の楽ちんな心持でもって食って寝て糞をしながらもその生きていることの真価を実感で味わいながら生き続けるしかないのです。

そして他力願望や他力依存で自己拡大しそれが自己破壊につながっていることを知った自己縮小意識の者が、その自己拡大と自己破壊の繰り返しを終わらす事になる宇宙・神・愛の仕組みによって(終わり始まる仕組みによって)新たな地球人類となるその時が来ることを確信さえしています。

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