孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「精神の安定」した者同士のストレスにならない人間関係が重要になります。

2015年09月01日 | Weblog
愛意識の霊能者から否定・反発・排除の無い愛を学び知り、次に完全真理でもっ良い悪いで判断しない完全なる宇宙・神の愛を学び知りましたが、
その良い悪いで判断する個人意識を無くする実践が無理となり、そこで素朴に生きる自己縮小が語られるようになったのですが、
その自己縮小の必要性が言われる以前から先駆けてこの世人間関係の柵シガラミから離れた過疎地で自由気ままに過ごしていましたから、
然るに「水を得た魚」「お墨付き」を得たが如くに自己満足・自惚れ慢心していました。

だから「私は正しい」とばかりに人寄せして私の暮らしぶりを見せびらかしていた時期が数年続きました。
然るに敷地いっぱいに防護柵や金網やネットを張り巡らせて、雑草対策兼用でヤギ数頭とニワトリを地鶏風に放し飼いしてその番犬も飼っていましたし、また自家菜園で自給自足の真似事をしていました。

ところがヤギや犬やニワトリまでが防護柵から脱走することが度々あり、その都度防護柵を強化したり、また鶏や卵を狙って外敵が夜中に侵入して被害を及ぼすからその対策に悩まされ続けていたし、その対策に相当な出費や労力を費やし、それらが大きなストレスにもなっていました。
然るに自己満足のために相当な無理をしていたのです。

だから暇で退屈する時間も無くて都合が良かったけれども、
その自己満足の裏の不平不満も同じように出ること、
然るに何かをやる都度その苦楽・喜怒哀楽が伴うことに心底から気付いたのです。

そしてヤギや鶏が自然消滅するときが来てから、それら雑踏・苦悩から開放されて心身ともに「ほっと」したのは事実です。

だから暇で退屈しても余計なこと=自給自足の真似ごと・目立ちたがる行為・ボランテアまがい=自己満足になることをしないほうが心身の保全につながることを実感納得し悟ったのです。

そして食って寝て糞をするだけのような生き様になったのですが、それが板に付くほど何事も無く、ぐーたらと生きるほどに精神の安定・心身の安全・保全につながることが実感納得できたのです。

然るに先日、嫁いだ娘の孫(中二と小6の女子)が夏休みの最後に海で魚釣りをしたいと言うことからして、私の30~40年も前の経験が必要になりましたので、それをあれこれ考えることになり眠れぬ夜が続きました。
然るに何事も無く生活している中に突然の変化刺激が舞い込んできましたから、嬉しくあり楽しめたのもありますが、その裏の苦労も出費もあったのです。

然るに孫娘の為・人情愛情・絆と美化しても一時の自己満足で終わり、結果的には余計なこと・面倒臭いことに関わって心を乱しその苦楽を味わっただけで終わり、そしてまた元の生活に戻るわけです。
それを言い換えると、事の始まりの孫娘の為の原因とその結果が「有った」のだが、すぐさま消滅して「無かった」も同然となるのです。

それを巷の趣味嗜好娯楽の類に当てはめると、その一時の変化刺激満足を味わうためにその都度気づかい気苦労をすることの繰り返しになり、また同じく頑張り努力をし続けることの、その苦と楽を繰り返し味わうことになるが、

ところが穏やかな精神で生きていける状態・状況環境になりさえすれば(頑張り努力する繰り返しをせずにして)同じ状態のままの楽ちんにしてずーっと続くのですから、その違いは大きいと思います。

然るにストレスとは無縁の生活にもなれるのです。

しかも何事も無く穏やかに長く暮らしていると(事実にして)自己満足さえも味気なくなりますし、
またそれが趣味嗜好娯楽の類となるとその都度・毎度毎度同じ余計なこと・面倒臭いことを繰り返ししなければなりませんから、

私の意識・精神の中では、それら苦楽・矛盾・偽善のある特別なことは(有っても無くても)「どうでもいい」ことなのですが、ところがご縁あって余計なことで無理することになるとやはり面倒臭いことにもなるのです。

然るに人間関係で苦楽を味わうよりも、何事も無いグーたらなほうが精神の安定になっているのは事実です。

だから趣味嗜好娯楽の変化刺激やまた精神世界のマニアやオタクの結び付きよりも「精神の安定」した者同士のストレスにならない人間関係・結びつきが重要になるのです。

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