孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

同じ不完全意識であっも、過去の釈迦やイエスの類&宗教家教祖と俗に言う仙人とは何処が違うのでしょう、

2014年10月24日 | Weblog
私は自己縮小の実践意識からして常に暇で退屈でしていますから、それも精神修養や一種の修行かもしれないと思うときがあります。

然るに古今東西の神仏霊魂の世界&精神世界&宗教真理を説く形の中に欲を戒しめているのが常道ですから、然るにその道(世間離れした神の道)に入信したり仏門に下ることが(その生き様&格好からして)一種の自己縮小の形にも思いますが、
そこで仮に私が宗教に入信したり仏門に下っていれば、
朝早くから神社仏閣札拝堂を掃除したり、また読経や写経や瞑想したり祈願祈祷のお祈りや賛美歌を歌ったり、また托鉢や布教活動に出かけたり、また盆や正月のように何らかの節目や祝い事の慣わし催しが定期的にあったり、また暇に任せて神仏を絵がいたり彫ったり、また暇に任せて身を精める修行や艱難辛苦&前人未踏の荒行をすることもできますし、何たって同じ仲間と一緒になって暮らせるのだから、
然るに暇で退屈することも無いと思います。

またそれらしき格好をしたり着衣を身にまといますから世間に目立って満足できるし、時にはアリガタイことだと人様が私にかけ寄り札拝合掌されたりすることもあるかもしれません。
また仕事らしい仕事をしているわけでもないのに、その道の遣り甲斐&生き甲斐からして孤独&孤独感を味わずにすむし、何だかいい気分にもなれそうです。

然るにそれら形(出家入門)が世間的な欲から一見離れているようでも、しかし私の自己縮小の実践とは異なります。

然るに(私の見解ですが)過去の釈迦やイエスの類&開祖教祖&宗教家のように世間に目立つことなく、然るに(俗に言う)仙人が如くにして(欲張らず静かにして)悟りを開いた者がその名声足跡を残さずにして孤独に人間を終えるほうが本来の自己縮小&神の道に沿っていると言えるのではないでしょうか、

そこで過去のイエスが神を知ったことで欲張らずにして生きることになり、そこで何も成すことが無くて暇で退屈していたとすれば、然るにサタンと思っている輩を殺すことも無かったし、また多くの信者や弟子を巻き込む騒動も起きなかったし、また後の時代の宗教でサタンや魔女や異教徒や異端児として処罰処形抹殺することにも、また正義&聖戦をかざした戦いも無く、
然るに天草四郎が独自独歩で暇していれば島原の乱も起きなかったことでしょう。

然るに信仰宗教&哲学思想真理が原因からして世間や世界を騒がすことがあるのは何ででしょうか、
然るにオウム真理教が暴走したのは何ででしょうか、

そこで神を悟った者が世間で騒がずにして、然るに水面下で人知れずにして仙人が如くの生き様であればどうでしょう。
と言うのも人が集る所に欲ありきでして、ちなみに人を集めたがるのも、また集りたがるのも、そこに様々な欲が絡んでいるからです。
然るに多くの人を集めたがる人ほどそれだけ欲が深いわけです。

そこで皆が足るを知り(神&愛を知り)、そのままにして自己拡大を止まり、然るに欲張らずに&良いとこ取りしないで、然るに暇なままにして、その分だけ個性を発揮したり創意工夫をしていれば、然るに急ぎ足で時代が進化することもなく、
然るに子供達が山でウサギを追い、川で小鮒を釣り、海辺で貝を掘ったり、また道端でビー玉遊びやコマ回しで遊ぶような、そんな素朴さをしっかり味わいながら、然るに時がゆったりと流れていたことでしょう。