人間は意識で生きている関係から、その意識が原因で結果が出ています。
だからその結果ではなくて、結果を出すことになる元の原因である意識のあり方を学び知ることが重要になります。
ところが此れまでの多くの宗教・真理は「私が正しい」の結果を見せるために(一般大衆を引き付けるために)その結果を求めることが多くなり、その結果である世直し人助けや自由平等平和を唱えることでそれを理想目的にしていましたから、それには善行奉仕しなさい、悪を働いてはだめですよ、あれは良い此れは悪い、あれはダメこれはダメと指図制限することが多くあります。
すなわち一つの結果形を良いと悪いの裏表に分離して、その善悪を説くことが主体になりますから、同時に優劣損得で判断することにもなります。
だから一つの事実が良いと悪いの二つに分かれ、その矛盾する何れか一つを選択してそれが正しいと信じることになったり、その矛盾を言い訳正当化して正しいことにしたり、何れも選択できなければ中途半端ないい加減にするか、それを否定反発するしかありません。
そしてそれらがごちゃごちゃに入り混じって混乱困惑思考錯誤苦悩しているのが今の私たちが持っている不完全意識(原因)であり、その現れが不完全なこの世の結果です。
その良いと悪いで判断しなければ何ら問題になりません。
また善悪優劣損得の差がありませんから平等ですし、平等であれば誰からも指図束縛制限支配されませんから自由です。
その平等と自由があれば調和が取れて平和になります。
その「差」が無ければ何ら特別もありませんから完全です。
だから神々が実在するとなればすべてが神々になります。一神にして多神、多神にして一神の関係になりますから、何一つ奉り崇拝することにはなりません。
また生まれながらにして先生はいませんから、学びあい教えあう関係があるだけで皆が同じです。 だから特別に尊敬することにも恩義・恩人に思うことにもなりません。
また各々が持っているものを出し合えばリーダーがいなくても成るようになります。
同じく、姿形や居場所・環境状況立場が違っていても差が無ければ何ら問題になりません。
すなわち皆がすべてひとつになり、お陰様・お互い様の関係になります。
だから裏切ることにも裏切られることにもなりません。
だから、ただ「あるがまま」に必然で実在していることになります。
また宇宙万物すべてが必要だから必然で実在しているのであって、不必要であれば実在していません。
また実在しているものは完全ですから、不完全であれば必要としないことから(不必要が)実在することにはなりません。
例えば「腐っても鯛」と言われるように時間で形が変化することがあっても人間は人間ですから完全です。それがもし人間が犬や猫に変化するようであればそれは不完全ですからこの世に実在しているはずもありません。
そして実在する完全なものにはその使命役割を果たすために意識を持っています、だから意識がなければ役割使命を果たせませんから不完全であり実在することは出来ません。
ところが人間の意識が不完全であっても実在しているのは、その不完全意識は人間の思い・想像であって非実在だからです。
しかもその非実在の不完全意識も宇宙の仕組みにとって必然・必要だからこそ人間として実在しているのです。
ところがその不完全意識の人間の役目もそろそろ終わりかけています。
すなわち、この世で始めての完全真理が必然で説かれはじめ、その真理が実践によって少しずつ広がり浸透していることからして、やがて不完全意識の人間が宇宙・神・愛の完全意識を実践で自覚することになり、同時にその完全意識になることの真意を知ることにもなり、そして比較競争差別の無い平等・自由・調和のお陰様やお互い様を自覚することになりますから、今の不完全意識のままにいることを絶対に望む筈もありません。
だから完全を知れば完全しか意識しませんから、やがて(原因と結果は同じですから)必然で完全意識に成るようになっていくことからして、不完全意識を味わい知った完全意識の人たちだけが実在するようになります。
そして、その完全と不完全の両面を知ったことになる意識・命が(宇宙誕生以来始めて)実在することになることからして、もう不完全意識のままの人間は(今の現実を見れば判るように)自然界・宇宙では厄介者と同じですから、その人間の使命を最後まで果たせなかったことから用無しの「お払い箱入り」になり、どうやら二度と人間の形に生まれ変わることなく、そのままの不完全意識・闇意識の世界で居座ることになるようです。
だからその結果ではなくて、結果を出すことになる元の原因である意識のあり方を学び知ることが重要になります。
ところが此れまでの多くの宗教・真理は「私が正しい」の結果を見せるために(一般大衆を引き付けるために)その結果を求めることが多くなり、その結果である世直し人助けや自由平等平和を唱えることでそれを理想目的にしていましたから、それには善行奉仕しなさい、悪を働いてはだめですよ、あれは良い此れは悪い、あれはダメこれはダメと指図制限することが多くあります。
すなわち一つの結果形を良いと悪いの裏表に分離して、その善悪を説くことが主体になりますから、同時に優劣損得で判断することにもなります。
だから一つの事実が良いと悪いの二つに分かれ、その矛盾する何れか一つを選択してそれが正しいと信じることになったり、その矛盾を言い訳正当化して正しいことにしたり、何れも選択できなければ中途半端ないい加減にするか、それを否定反発するしかありません。
そしてそれらがごちゃごちゃに入り混じって混乱困惑思考錯誤苦悩しているのが今の私たちが持っている不完全意識(原因)であり、その現れが不完全なこの世の結果です。
その良いと悪いで判断しなければ何ら問題になりません。
また善悪優劣損得の差がありませんから平等ですし、平等であれば誰からも指図束縛制限支配されませんから自由です。
その平等と自由があれば調和が取れて平和になります。
その「差」が無ければ何ら特別もありませんから完全です。
だから神々が実在するとなればすべてが神々になります。一神にして多神、多神にして一神の関係になりますから、何一つ奉り崇拝することにはなりません。
また生まれながらにして先生はいませんから、学びあい教えあう関係があるだけで皆が同じです。 だから特別に尊敬することにも恩義・恩人に思うことにもなりません。
また各々が持っているものを出し合えばリーダーがいなくても成るようになります。
同じく、姿形や居場所・環境状況立場が違っていても差が無ければ何ら問題になりません。
すなわち皆がすべてひとつになり、お陰様・お互い様の関係になります。
だから裏切ることにも裏切られることにもなりません。
だから、ただ「あるがまま」に必然で実在していることになります。
また宇宙万物すべてが必要だから必然で実在しているのであって、不必要であれば実在していません。
また実在しているものは完全ですから、不完全であれば必要としないことから(不必要が)実在することにはなりません。
例えば「腐っても鯛」と言われるように時間で形が変化することがあっても人間は人間ですから完全です。それがもし人間が犬や猫に変化するようであればそれは不完全ですからこの世に実在しているはずもありません。
そして実在する完全なものにはその使命役割を果たすために意識を持っています、だから意識がなければ役割使命を果たせませんから不完全であり実在することは出来ません。
ところが人間の意識が不完全であっても実在しているのは、その不完全意識は人間の思い・想像であって非実在だからです。
しかもその非実在の不完全意識も宇宙の仕組みにとって必然・必要だからこそ人間として実在しているのです。
ところがその不完全意識の人間の役目もそろそろ終わりかけています。
すなわち、この世で始めての完全真理が必然で説かれはじめ、その真理が実践によって少しずつ広がり浸透していることからして、やがて不完全意識の人間が宇宙・神・愛の完全意識を実践で自覚することになり、同時にその完全意識になることの真意を知ることにもなり、そして比較競争差別の無い平等・自由・調和のお陰様やお互い様を自覚することになりますから、今の不完全意識のままにいることを絶対に望む筈もありません。
だから完全を知れば完全しか意識しませんから、やがて(原因と結果は同じですから)必然で完全意識に成るようになっていくことからして、不完全意識を味わい知った完全意識の人たちだけが実在するようになります。
そして、その完全と不完全の両面を知ったことになる意識・命が(宇宙誕生以来始めて)実在することになることからして、もう不完全意識のままの人間は(今の現実を見れば判るように)自然界・宇宙では厄介者と同じですから、その人間の使命を最後まで果たせなかったことから用無しの「お払い箱入り」になり、どうやら二度と人間の形に生まれ変わることなく、そのままの不完全意識・闇意識の世界で居座ることになるようです。