孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世の現実からして完全真理の実践が不合理に思えるのは原因ではなくて結果を気にしているからです。

2010年10月07日 | Weblog
完全真理は良い悪いで分離判断して人を責めたり自分を責めたりして不平不満を持たないことが基本ですから、日々の実践・生活の中で不平不満を持った事に気付くことが重要になります。
しかも完全真理は完全ですから少しの矛盾も妥協も通用しませんから、いい加減な意識では実践もいい加減になります。
がから完全真理を日々実践している中に自分が不平不満を持っている事にまったく気付かない場合もあります。

例えば「汚い」「臭い」と言って忌み嫌っていることが多いことや「暗い」「怖い」と思って尻込みしていることに気付いていません。
そのもっとも分かりやすい例えで言えば、同じウンチであっても赤ちゃんのウンチと大人のウンチとでは意識に差があります。
また虫を害虫呼ばわりしていることやバイ菌を悪者扱いにしていることも差別になります。

また清掃整理整頓が出来る人や出来ない人がいてもその差はありません。
だから清掃整理整頓が好きな人がそれなりに自然体でやればいいだけであって、それを評価判断して褒めたり卑下することでもありませんし、それらを強要・押し付けて他を巻き込むことでもありません。

だから炊事洗濯やの家事一般も同じことがいえます。
例えば自分や家族子供らを身奇麗にすることはかまいませんが、それを他と比較競争・評価判断していることが多いことには気付いていません。 だから衣服・着衣が見た目に劣ることや汚く見えることを気にします。
だから同じように家具調度品・電気機器・車両などが劣ることや汚く見えることを気にします。
そして使い切ることをしないで(成仏させないで)より優れた新品を購入して(見栄・世間体・プライドを)自己満足したがります。

また我が子の学力成績や体力機能を気にして不足に思えば他と比較競争・差別している事になりますが、この世の現実からしてそれも仕方がないと自己正当化したり言い訳して自分を誤魔化していることも多いのではないでしょうか・・・

また他の子供の置かれている不運な状況を目の前にして、それは可哀想だの気の毒なことだと思うことが差別・特別意識だと気付く人も少ないでしょう・・・何故なら・・・それが自分の子供の場合であれば可哀想だの気の毒などと思う前にもうすでに子供に駆け寄り自分に出来る限りの手助けをしているはずです。
だから恋人・夫婦・我が子や家族らにしてあげられることなら、他の人にも同じことが躊躇無く自然体で出来なければ平等自由・調和のある人間関係を築くことが不可能になるのです。

すなわち恋人だから夫婦だから我が子・家族だからと特別に思うことが人間関係を不完全にしているのですから、その平等ではない特別なことをする必要は元々から無かったということです。
しかも常日頃から他と違った差のある特別なことをしたがっていることが(求めていることが)不平不満の原因にもなり、またそれが原因で不安心配・恐怖・怒り・嫉妬・破壊意識にまでもつながっているのです。

だから日々日常の些細な不平不満に気付くことが重要になってくるのです。
そして気付けば気付くほどに(真理・真実を知っているからには)それらが不完全でどうでもいいことに思えるようになりますから(あるがままの意識になり)あまり気にならないで直ぐに忘れ去ることになるのは事実にあります。
だから生活の中で「気付く」ことが真理・真実につながり自己縮小につながっていくのです。

ところがこの世の現実からして完全真理の実践が不合理・不釣合いに思えるようであれば(それで実践がおろそかになれば)それは原因である己の意識のあり方を見ずにして、ただ現実の形・現れている結果ばかりを気にして意識しすぎていることにあります。
だから完全真理は結果を云々ではなくてその結果を生んだ原因意識・真実を学び知るための真理ですから、形あるこの世で通用しなくても、形よりも意識が原因のあの世と言われる意識次元では通用することになると私は思っています。

だからこの世の不完全な現実を選んで生きるのか、それともこの世で学んだこと(修行)を足がかりにしてあの世の意識の世界に馴染める意識を持つために生きるのか、この世で結果を出すことで生きるのか、それとも原因を知るために生きるのか、その選択が問われていると私は思っています。
しかもあの世には天国の菩薩や地獄の閻魔らによって私たちが比較判断・評価差別されるような仕組みはいっさいありませんから、この世もあの世もすべてが自分の意識で選んだ自己責任・結果になります。