しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

当ブログアクセスNo.1のコンレイ見参

2024-11-01 17:09:46 | 台風

どうしても解らないことがあります。

ブログは管理者にだけ通知されるアクセス数が表示されるのはご存じでしょうが、このブログで夏になるとアクセス数がダントツに増えるのが2013年8月にあげた「コンレイの話」と題する台風コンレイの名前のいわれについての記事です。

残酷な話なのですが、そのように興味を持たれる理由がわからないのです。

「コンレイ」を「婚礼」と勘違いされたか、おどろおどろしい話が台風の名になったのがそれほど興味を持たれるストーリーなのか。

ともあれ、台風21号「コンレイ」は台湾の北へ去りました。

現在は、強風が吹き荒れていますが、時折日が差し込むほどの気候で明日からは那覇からの船便も動き出し、明後日には普通の生活に戻れるでしょう。

         

ビルの屋上に上り、足を踏ん張りながら撮影したヒルトン宮古島とその増築工事棟の間の伊良部大橋の午後3時です。

視界が悪く、風が左から右へ(南から北へ)吹きすさぶのが樹木の倒れ方でお分かりいただけるでしょう。

台風接近にもかかわらず、クレーンを建てたままにしておくとは、コンレイもなめられたものです。

今年は結局、エースナンバーにはヒヤッとさせられましたが、暴風圏に入った台風は無く、発電機回しも雨戸による天岩戸暮らしもなく終わりそうです。

台風の名前は、70個の名前を発生順に使いまわしているのはご存じでしょうが、年平均25個の台風が発生していますから、今度のコンレイは3年後ということになるでしょうか。

 

ひとつの目安としてそれまではこのブログを続けておきましょうかね。


本土の旅(エピローグ)まだまだ続きがあるかも

2024-10-28 17:25:21 | 旅先

勝手に思い込んだ彦三郎さんの篤を胸にしまい込み、今回の旅ももう終わりです。

最後に、その他訪問したところのいくつかを紹介しておきます。

      

安来市にある「足立美術館」ですね。素晴らしい庭園と美術品の数々、心の洗濯をさせていただきました。

      

松江城のお濠を巡る「堀川めぐり」。

タクシーの運転手のアドバイスで、船には一番最後に乗り込み、船の舳先で鑑賞できました。

      

世界の灯台百選にも指定された石積みで最も背の高い日御崎灯台。大雨で通行止めだったのが9月に解除され、たどりつけました。その袂の「花房商店」ウニいくら丼定食¥3,300、のどぐろ刺身定食¥3,700 お値打ちです。

自分の過去を振り返る足跡の旅、はて?自分はこの島にどんな足跡を残せるだろうかなどと考えていると、頭の中に中島みゆき様が突然現れて「ヘッドライト・テールライト」を歌い始めました。

名曲だなあ。

宍道湖と湖畔道路の夜景を締めとしてこのシリーズを終わります。

      

次はあるかなぁ 東北か !?

 


本土の旅(その4)先祖に近い筋かもしれない足跡発見

2024-10-25 16:09:48 | 旅先

さて、本土の旅も終盤を迎え神の国出雲へたどり着きました。

まずは出雲大社の東隣にある「古代出雲歴史博物館」へ

お目当ては下の平安時代の本殿10分の一模型、と2000年に発掘された「宇豆柱」「心御柱」

       

形が違うのは、建築士史家5人の製作したものを並べたから。

この博物館が開館したのは、2007年3月ですから20世紀末の広島勤務時代にはなったわけで、いつか訪問したいと思っていた博物館なのでした。

現在の本殿にカメラを向けるのはためらわれましたので勢溜の鳥居で間に合わせましょう。

遠くに宇迦橋の大鳥居が望めます。

       

標高14mという事でしたが結構高く感じたのは意外でした。

宿への帰り道

「ばたでん」の出雲大社前駅まで参道を下って、何かに誘われるように東に位置する堀川沿いに民家の間を縫って宿に戻ろうとすると何やら朽ち果てかけたお宮があり、設立趣意書のような立て看板が。

                    

そこに掲げられていた内容にびっくりぽん

そばに寄ってみましょう

    

                     

このお社の歴史がつづられていたのですが、内容をかいつまんで言うと

「この荒神社(こうじんしゃ)は享保年間(1716~1735)以前は出雲大社の社家平岡氏家の鎮守社であったが、地域内には人々の拠りどころとする寺社がなかったのでこれを地域の産土社とすべく掛け合った3名がいた。それが小川祖右衛門・手銭三四郎・庄司彦三郎であった。社家の平岡大進は快く承諾し、この地域の住民の為の西原荒神社としてお祀りしたのがこの神社のはじまりである」

さて、ここに現在の宮城県・山形県及び出身者に多く、沖縄県宮古島にわずかに生息する「庄司」姓がなぜ出てくるのであろうか。

我が家のルーツが宮城県からの北海道開拓農民という事は、亡き父が兄弟で先祖をたずねてその子孫と交流を持ったことで証明済みである。

ここからは爺の妄想であるので信用しないで聞いてほしい。

1735年といえば徳川吉宗の享保の改革の後期にあたり、1732年の享保の大飢饉も重なったり農民への過酷な税の取り立てで山陰・山陽でも徳山、岩国、萩などで大規模な一揆が起こり世の中が騒然とした時期でもあった。

そこで一揆農民を支援するため、あるいは、自国で食えなくなりやむを得ず東北から逃げ出したものたちがいた。としよう。

その中の一部には、才があり地域の農民のリーダーとなった者たちもいたかもしれない。としよう。

それが「庄司 彦三郎」ではないと誰がいえるであろうか。

いやいや、享保の改革は1716年に始まっており、20年たらずの間に一代で地域のリーダーとなりえるだろうか?

それでは16世紀に、月山富田城が出雲の中心であったころ、尼子・毛利とつながった山陰の乱世時代にやはり東北では食えなくなった農民の中のフットワークの良い人たちの末裔ではないと誰が言えるであろうか。

ちょっと待て。松本清張の「砂の器」で有名になった、秋田の「亀田」と島根の「亀嵩」。どちらもズーズー弁で言葉が似ているということはその前から交流があって、逃げてきたり、流れてきたりというような陳腐な理由でないのではあるまいか。

もしくは、もともと一つの言葉であった日本海側の人たちが、大陸からやってきた民族に二つに割られ、出雲と東北に分断されたのが東北人のルーツであるという説もあるらしい。(作家 高橋克彦氏の説)

おいおい、庄司は東北から流れていったんじゃないのかい。

そこで、庄司姓について改めて「苗字由来ネット」で調べてみると

「庄司性は、熊野國造がルーツであり、熊野本宮の初代禰宜職の末裔です。荘園領主の名を受けて管理する庄屋の職業名が苗字の由来ですが、もとは、和田、穂積性です。和田から楠木性へ、後に和田、楠木、庄司に性が分かれていきます。」

調べれば調べるほど儚い夢を見ているようで、地域貢献の鏡であった彦三郎さんがどこにでもいる世話焼きの爺になってしまった感なのであります。

でも、なかなかに楽しい妄想を見させていただき、この旅に花を添えたのでした。

ちょっと調子に乗って長かったな。

 


本土旅(その3)自分の足跡をたどる

2024-10-18 17:10:25 | 旅先

松江市の松江しんじ湖温泉駅から一畑電車北松江線に乗ること15分。

2001年7月に開業した松江フォーゲルパーク駅に着きます。

駅の真ん前には広い駐車場と平屋の地味な建物があります。

右の稜線の上には展望台、正面の白い屋根の下は花の大温室があります。

     

今回の旅の目的の一つがここを訪れることでした。

ちなみにフォーゲルパークのフォーゲルとは、ドイツ語で鳥の意。

この公園の造成に関与したのは1997年から1998年にかけての広島勤務時代。完成を見ることなく名古屋へ転勤の辞令が発令されました。

高低差のある尾根と谷を利用して年間を通して鳥と花に囲まれた公園を建設しようというのが目的でした。聡明な皆様はもうお気づきでしょうが、最大の目的は一畑電車の乗降客増です。

テーマと導入施設は当時の事業主体と一畑電車側で概ね決められておりましたが、課題は高低差をどう埋めるか、移動の自由度をどう確保するかでした。

現地形を生かしながら、花の好きなお年寄りと動物好きの子供と家族、さらには移動の自由度が低い人々にも楽しんでいただきながら、できるだけ安価な施設計画を検討、提案する業務に携わったというわけです。

     

これが実際に運用されている長さ140ⅿの動く歩道です。

日本では、1983年に「公共交通ターミナルにおける身障者用施設整備ガイドライン」1985年に「視覚障害者誘導ブロック設置方針」が定められ本格的なバリアフリーの取り組みが始まったとされており、2006年にバリアフリー法が施行されました。

これに先立ち、この高低差を埋める移動手段と移動手段補助の仕組みの導入を決定いただいた関係者の皆様の先見性と決断力に頭が下がります。

 

その全体像がこちらです。

車いすが無料で利用でき、車いす移動では危険な動く歩道、移動が難しい下りの園路などは移動をお願いすれば車で無料移動可能なサービスがあります。

送迎車乗り場と降り場が明示されています。実は同行者の希望によりきわめて健常な私も付き添いとして利用させていただきました。

     

動く歩道を周辺の鳥や植物を見ながら登ると展望点の高さ標高54mほどのくにびき展望台に到着。

これは松江城の天守閣の窓の標高とほぼ同じなのですね。

          

展望台から松江城の先に見えるはずの大山は雲の中でした。

 

さらに訪問の強いモチベーションとなったのがあの動かない鳥「ハシビロコウ:フドウ君」の動く姿を見るという事。

このハシビロコウ、日本には12羽しかいない絶滅危惧種Ⅱ類で、現在6か所で飼育されているそうな。

          

にらめっこしていたら動きました。後頭部の寝ぐせ風髪型がおしゃれです。

 

これがエントランス近くにある約8,000平方メートルの国内最大級の花の展示温室。

ただベゴニアやフクシアなどこれだけの花が咲いているのに、花の香りがなく昆虫が一匹もいないのが不思議な世界でした。

 

さて、その効果ですがコロナ禍の2020年の入園客は95,000人。1日平均の乗降人員31人/日。年間11,000人。鉄道利用率12%弱。

2年後の2022年には2倍近い183,000人まで入場者が増えました。(指定管理者運用状況報告=松江市=より)

私の乗車した午前11時台の電車の降車客は6人程。うち4人はインバウンドでした。恐るべしインバウンド。

 

ハシビロコウとのにらめっこで勝てたと思わされたのがうれしい。


本土旅(その2)にわか鉄ちゃんになる

2024-10-15 17:35:52 | 旅先

今回の本土旅(その2)は岡山からこれに乗って北へ向かうことになりました。

    

2024年9月6日に第23回日本鉄道大賞を受賞した「特急やくも273系」といわれる新型車両です。

奇しくも昨日10月14日は新橋~横浜間に鉄道が開通したことを記念する鉄道の日。

小生、乗り鉄・撮り鉄・模型鉄には何の関係もなく、耳に入った情報で何にでもなれる「にわかマニア」とでも称しましょうか、まあしばらくお付き合いください。(あやまった情報があるかもしれませんがお見逃しください)

この「やくも273系」は今年の4月から運用されているもので、その前の「381系」といわれる車両は、自然の遠心力にまかせて車体が傾く画期的な技術でしたが、欠陥も多く「ぐったりやくも」などと揶揄されてきた残念な特急列車でした。

「381系」の運用が始まったのは42年前で1982年のこと。小生が前勤務先で広島に赴任したのは1993年ですからその時にはもう存在していたのですね。

広島では中国地方が営業範囲でしたから広島から犬神家のある岡山県北や島根方面へはこの「ぐったりやくも」は避けて高速バスかレンタカー利用がすべてでした。そのお陰でスピード違反や追突事故にあったりしましたが。

その「ぐったりやくも」が国内初の車上型制御式自然振子システム(よく知らないのでここでの説明は割愛させていただきます)導入により「ゆったりやくも」に変貌したというではないですか。

これは利用してみなければというわけで、出雲への旅を企画し車上の人となった次第です。

「ぐったり」のころは知らないのでどんなに「ゆったり」が素晴らしいかわかりませんでしたが、普通の特急電車で新幹線との差が目立ったというところでしょうか。

にわか鉄ちゃんとしては、このレポートだけで終われるはずもなく、こんな話題も提供しましょう。

松江市内の宍道湖畔から出雲市を連絡する一畑鉄道。通称「ばたでん」の最新電車です。

    

一畑鉄道は開業当初から東京周辺の私鉄電車(西武・京王・東急など)の再利用を主として運行してきましたが、86年ぶりに自社で発注した1両で運行可能な7000系と呼ばれる電車を導入したそうです。

車内はロングシートとクロスシートの点対象配置がとられ、大幅な定員増となっているそうな。

    

「ばたでん」ネタのおまけは?

    

映画「RAILWAYS」の中で最も多く登場した「デニハ50型」といわれる客貨同時輸送の車両。

今では製造不可能な木製の車体で1928年から1929年にかけて4両が製造され、現在は出雲大社駅に2両が展示されています。

 

    

ピンクの「ご縁電車しまねっこ号Ⅱ」のラッピングを施した1000系1103号とのそろい踏みを締めとしてその2をようやく終えました。

お疲れさまでした。