明日は、沖縄県では「慰霊の日」に決められ、県条例で定められた公休日です。
学校や県庁・市町村役場は休日となりますが、民間企業で休日となるところはほとんどありません。
「慰霊の日」とは、太平洋戦争沖縄戦で犠牲になった人たちの霊を慰め、平和を祈る日とされていますが、何故この日なのかについてはいろいろ疑問があります。
1945年6月23日未明、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決したとされています。そのことからこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定されました。
え”ーーーーっ
沖縄戦20万の犠牲者の内、民間人が半数近い9万4千人といわれている沖縄戦。その慰霊記念日が本土の軍人自決の日っておかしくないですか?
この後も戦争は続き、この自決した司令官は、死ぬまで戦えと言い残し(たと想う)、組織を失った兵隊に民間人を守るすべはなく、犠牲者は増え続けていたのですから。
節目の時は、この後2回あり、米軍の沖縄戦終了宣言が出された7月2日、日米司令官が降伏文書に調印して沖縄戦が公式に終結した9月7日(8月15日は本土の終戦で沖縄戦はまだ終わっていなかったのですね)です。
沖縄県でも9月7日を公式な沖縄戦終結の日としており、県が建立した糸満市平和祈念公園内の「平和の礎(いしじ)」刻銘基本方針には沖縄戦の期間を1945年3月26日から9月7日と明記してあります。
ではなぜ6月23日なのか。爺の灰色の脳細胞がピクリと動いて、そこには何か政治的な意図も感じられるわけで、でも今はまだ分からないのでココまでにしておいてやろう。
という疑問はさておいて、今週日曜日、宮古島市総合博物館慰霊の日特別展示「今に残る戦争遺跡」関連講演会に参加してきました。
沖縄戦開戦に先立つこと5ケ月、1944年10月10日朝、突然米軍の空襲が始まり、それまで準備を重ねていた日本軍の3つの飛行場(陸軍2海軍1)はなんの役にも立たず、地上戦に備えて自然壕や地下壕の利用が進みます。講演は、その中のいくつかの壕の調査結果についてのもので、そのうちのいくつかが我が家のそばにもあります。
これは、特攻艇秘匿壕と呼ばれるもので、結局ここから出撃することはなかったのですが、人口6万人の島に3万人の軍隊が駐留、食糧や水の調達、施設建設に多くの島民がかりだされたことは想像に難くありません。もちろんシモの世話も。
指揮所や陣地壕は中でつながっているものも多く、最大のものは400mの長さを有しておりました。その中の一つの平面図です。
ヤマトでの戦争観と沖縄での戦争観(特に非戦闘員の犠牲と終戦処理に関して)とはずいぶんと違う事を知ってきましたが、やはりヤマトは平和ボケでしょうか。
戦争を避ける努力は必要ですが、島に上陸する他国の侵入者に対して、何も武器を持たず「この野郎話し合うぞ!」というしかない無力感はどーでしょう。
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